不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

TacoToma

タコとトマトが好き。
つまり食べることが好きってことです。
プラス、最近は韓国ドラマ関連も書いています。

「史劇で歴史を読み取る」シリーズ 8

2009-11-26 12:42:50 | 엄태웅
同シリーズがここへ来てまた頻繁に出るようになっています。

今回は、キム・ユシンが伽耶出身だからといって、ドラマで描かれているように敗者として扱われた事実はない・・・というお話です。

12回延長になったため、ドラマの筋書きは苦し紛れで作っているようですね。
この火曜日で延長4回分が済んだので、あと残るは8回。
ユシンvsピダムの対立で引っ張って、最後は大将軍キム・ユシンが中枢に戻り、、、そして? 善徳女王は在位15年ほどで亡くなったようなので、きっとドラマは亡くなるところまで描くのでは?と私は予想します。

最後くらいはメローで盛り上げてほしいものです。

****************************

‘敗者キム・ユシン’と‘ボディーガード アールチョン’、事実と違う
[史劇で歴史読み取る] MBCドラマ <선덕여왕>
出処:オーマイニュース

最近のドラマ<善徳女王>の中のキム・ユシン(オム・テウン)の境遇が話にならない。善徳女王(イ・ヨウォン)の即位以後新羅の名将に浮び上がったが、伽耶出身ということが鎖になってピダム(キム・ナムギル)に政治的攻撃を受けるとついに于山国島流しという侮辱を受けるまでに達した。

幸い女王の配慮で于山国の代わりに百済に潜入してスパイの役割をすることになったのだが、ユシンの威信はすでに地に落ちるだけ落ちてしまった。新羅の戦争の英雄が、何か三災の災難にでも会ったように官運を失うだけ失ってしまったのだ。
そのようなユシンが何か呪いでも下ったように、ユシンを捨てた新羅は百済に大耶城を奪われる危機に置かれることになった。

ドラマの中ユシンは最近の流行語で言うなら「新羅版敗者」と同じだ。女王の登極に大きな寄与をして戦場で大きい功績を立てた彼が決定的に‘伽耶出身’という理由のためにあらゆる政治的迫害を受けているという話だ。背が低くはなかったが、‘北緯36度にもならない’伽耶地方出身ということが彼にはコンプレックス中のコンプレックスとして作用している。参考に、滅亡以前の伽耶地域はほぼ北緯36度以南にあった。

23日と24日に放映されたドラマ<善徳女王>第53話および第54話は善徳女王執権後で一連の軍功を土台に新羅の名将に浮び上がったキム・ユシンが伽耶出身という弱点のためにピダムの攻撃を受けてすべての官職を失ってしまったという内容を含んでいる。

だが,こういう構成はキム・ユシンの実際の境遇とは全く違う状況であったという事実を指摘せざるをえない。なぜなら、善徳女王時代にキム・ユシンの官運は初期には静かだが後へ行くにつれ順次上昇する気勢を見せたためだ。ドラマの中の官運とは正反対の様相を見せたのだ。

ドラマの中で‘新羅版敗者’に転落したユシン

議論を本格進行するのに先立ち、私たちは伽耶出身という事実がキム・ユシンの政治的成長に大きな支障を与えなかったという点を念頭に置かなくてはいけない。もちろん正統新羅出身だったらより良かったが、それでも伽耶出身ということが特別に障害にならなかった。そこにはいくつ理由がある。

最初に、新羅の立場では最先端鉄器文明を保有した伽耶出身者たちを排斥するよりはどうにか彼らを受け入れるのがもっと有利だった。韓民族中最弱体であった新羅が伽耶を吸収した後から常勝疾走して、後には大同江(テドンガン)流域まで進出したことで分かるように、新羅の立場では伽耶出身者たちを排斥するよりは何とかうまく口説き落として一人でもさらに出させるのが利益だった。

二番目、7世紀初期は概して‘出身’よりは‘能力’がもっと重視される時期であった。 新生統一帝国の隋・唐の対外膨張が進行されたこの時期は新羅だけでなく東アジア全体が新しい秩序に向かって揺れ動いた時であった。こういう状況の中で新羅は善徳女王(在位632~647年)が即位する30年前の602年から高句麗・百済の慢性的な侵攻に苦しめられた。そのために、新羅出身とか伽耶出身とか分ける必要がなく誰でも能力さえあればひとまず信じて任せてみるほかはない状況がつくられていた。

組織が危機に置かれた時は非主流に機会が多くもたらされるという点は私たちの経験法則上当然のことということができる。例えば、軍に行くことができなかった「不可觸」のらが壬辰倭乱を契機に束伍軍に編成されて身分の上昇を成し遂げることができたことは、国家的危機の前では西洋人の力でもの力でも一端借りないわけにはいかなかったためだ。また下級武官であるイ・スンシンとクォン・ユルがユ・ソンニョンによって抜擢されたのと同様に、組織の危機の前では身分が偉い人よりは能力が多い人を優先的に起用しなくてはいけなかったためだ。それほど、危機に置かれた7世紀初期の新羅人たちはやはり伽耶出身者を差別できる境遇ではなかった。

実際ユシンは軍事舞台で英雄だった
また本来の議論に帰って<三国史記>巻5 「善徳女王王の伝記」および巻41 「キム・ユシン列伝1」を総合してみると、女王の初期に戦争の英雄に浮び上がったキム・ユシンが‘新羅版敗者’という理由のために女王後期にあらゆる苦難にあったというドラマの内容と違い、実際にはキム・ユシンの官運が女王初期には地味だが女王後期に行くほど急上昇したことが分かる。そのような転換が成り立った契機は女王11年(642)だった。その年にどんなことがあったのだろうか?

善徳女王執権期後期に該当する女王11年陰暦8月に百済はユンチュン将軍を派遣して新羅の大耶城を陥落した。ドラマ<善徳女王>の最近放映分はまさにこの大耶城の戦闘を背景にしている。ところでこの事件は勝者の百済の意志とは関係がなくとんでもない方向に歴史を導いた。キム・チュンチュ-キム・ユシン ツートップを歴史の前面に浮上させる側に連鎖作用を起こしたのだ。

大耶城の戦闘で娘と婿を一度に失ったキム・チュンチュは高句麗を引き込んで百済を打ち破るために国境を越えて高句麗の土地に入った。しかし高句麗側は“竹嶺(チュンニョン)西北の土地を渡せば軍隊を送ってやることができる”と提案したし、これを拒否したキム・チュンチュは高句麗の監獄に投獄された。するとキム・ユシンが1万人の軍隊を導いて高句麗側に進軍し、これに慌てた高句麗はキム・チュンチュを直ちに釈放した。

キム・チュンチュの高句麗訪問はたとえ失敗に終わったとしても、この事件はキム・チュンチュを外交の舞台の前面にたてたと同時にキム・ユシンを軍事舞台の英雄にした事件だった。以後キム・ユシンは‘幸せな悲鳴’をあげなければならないほどの‘窮屈なスケジュール’を消化しなくてはいけなかった。 戦場で聞こえてくる引き続く「ラブコール」が彼を一時も解放しなかったためだ。

7ヶ月の間になんと3回も戦場行き来して

それで善徳女王後期のキム・ユシンは大当たりをちょうどさく烈させた新人歌手に肩を並べるだけのことはあった。
家に帰る考えは夢にも見ることが出来なくて「催事場」から「催事場」へ急いで移動しなければならない程の忙しい毎日の連続だった。その状況が<三国史記> 「善徳女王王の伝記」によく描写されている。下の内容は該当の部分を抜粋・要約したものだ。説明の便宜上、原文をそのまま紹介しないで該当の部分を要約したことを明示しておく。

“善徳女王13年(644)陰暦9月、大将軍キム・ユシンが百済を打って7省を奪った。……善徳女王14年(645)陰暦1月、百済をはね除けたキム・ユシンが王を謁見する前に百済軍がまた侵すと、キム・ユシンは家にも立ち寄らないまま直ちに百済軍を打ちに行って2千人の頭を切った。陰暦3月に帰ってきたが、百済がまた侵すので……今回も家に立ち寄ることができなくて……自分の家の前を……通り過ぎて出廷した。"

これによればキム・ユシンは女王13年陰暦9月から翌年陰暦3月まで何と3回も戦場に呼ばれて通ったし、どんなに忙しかったのか毎度家にも立ち寄ることができないほどだったという。一番最後には家の前をそのまま行き過ぎて行かなくてはいけないほど、彼は非常に窮屈なスケジュールの中で生きた。

<三国史記>記録に現れた通り、善徳女王11年の大耶城の戦闘の敗北とキム・チュンチュの高句麗訪問を契機にキム・ユシンはそれほど忙しい人になることができた。「善徳女王王の伝記」を見れば、女王11年以前の戦争ではキム・ユシンの名前がただ一度も挙がらなかった。そうするうちに女王11年にキム・ユシンがキム・チュンチュを救出するために1万の軍隊を指揮した時からキム・ユシンの名将イメージが形成され始めたのだ。

善徳の護衛を受け持っているアールチョン、実際の歴史では‘名将’

ドラマ<善徳女王>第53話では大耶城の戦闘以前の善徳女王初期にすでにキム・ユシンが英雄に浮上してピダムの謀略を受けて底に逆さまに落ちたといったが、実際には大耶城の戦闘敗北以後の危機局面を踏み台にキム・ユシンが新羅の名将に浮び上がることができたのだ。善徳女王の執権後半期にキム・ユシンの官運が急上昇したと話したことはまさにそのためだ。

ところで善徳女王11年からキム・ユシンが戦争の英雄に浮び上がり始めたとすれば、善徳女王1~10年には誰が新羅の戦争を指揮したのだろうか? その主人公はまさしくアールチョンだった。

ドラマの中ではアールチョンは善徳女王の護衛責任者を引き受けたとなっているが、善徳女王初期にアールチョンは新羅の戦争でなくてはならない存在であった。「善徳女王王の伝記」によれば,アールチョン将軍は善徳女王5年(636)陰暦5月に500人の百済特攻隊を撃破して6年(637)陰暦7月に大将軍に昇進したのに続き、7年(638)陰暦11月には高句麗の軍隊を撃破する一連の上昇曲線に乗った。

善徳女王11年からはキム・ユシンが新羅の名将だったが、その以前には上のようにアールチョンが新羅の名将だったのだ。 そうするうちに大耶城の戦闘敗北の衝撃と混乱を契機にキム・チュンチュ-キム・ユシン ツートップが浮び上がるということによって,アールチョンは自然に‘ベンチ’に退かないわけにはいかなかったように見える。

上のように、善徳女王時代だけおいてみれば,女王10年まではキム・ユシンの官運が相対的に地味だったのにに比べて女王11年からは大耶城の戦闘敗北とキム・チュンチュの高句麗訪問を契機にキム・ユシンの官運が急上昇したことが分かる。

キム・ユシンの時代には北緯36度の南出身、すなわち伽耶出身ということがそんなに大きい弱点ではなかった。 伽耶出身という要因は決して彼を新羅版敗者にしなかった。 危機に置かれた7世紀の新羅はキム・ユシンと同じ伽耶人たちに「監獄に入れ」でなく「戦場に出て行きなさい」という使命を下さないわけにはいかなかったのだ。そのような状況が背景になって善徳女王後期にキム・ユシンの官運が急上昇できたのだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ちく天入りカレーうどん | トップ | へちもんやのお弁当 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

엄태웅」カテゴリの最新記事