久々にオーマイニュースで同シリーズが掲載されました。
長い間話題がなくてさみしい思いをしていたので、嬉しいです。
さて、今回はドラマの中で出てくる「ペーハー(陛下)」という呼び方について詳しく触れています。
日本語吹き替えの場合は「ペーハー」は「王様」と訳されますが、これはおそらく日本の天皇に敬意をはらって陛下という言葉を避けているためであろうと推察していました。ペーハーはどう聞いてももとは陛下のはずですから・・・。
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「陛下、惜しみなく奪い取るつもりです」... 陛下だと?
[史劇で歴史読み取る] MBCドラマ <선덕여왕>
09.11.23 12:19|最終アップデート09.11.23 12:19
出処:オーマイニュース
「陛下! 惜しみなく私の全てのものを差し上げるつもりです。」 -ユシン(オム・テウン).
「陛下! 惜しみなく全てのものを奪い取るつもりです。」 -ピダム(キム・ナムギル).
以上は去る16日放映されたドラマ<善徳女王>第51話の終わりの場面だ。「女王陛下万歳!」を叫ぶ国民の歓呼の中で即位式壇上に上がった善徳女王(イ・ヨウォン)を眺めてユシンとピダムは心の底からそのように大声を張り上げた。たとえ胸の内の方向は違ったとしても、ユシンとピダムは女王を眺めて心の底から'陛下'を叫んだ。
「陛下」というこの表現はドラマ<善徳女王>の中で真興王・真智王・真平王に対する敬称で使われた。この表現がまた善徳女王に対する敬称で使われているのだ。ドラマの中で非常に多く聞いた表現であるから、今はそれに対して無感覚になったかもしれない。当然そうだろうというふうに考えることもできる。
この表現の正確性可否に対して疑問を抱いた視聴者たちも「この頃の史劇ではみななので」と移ったかも分らない。韓・中間に東北工程という歴史紛争が発生して以来、韓国史劇では既存の「殿下」の代わりになるべくなら「陛下」を使っている。「なるべくなら」の話だ。「そのような傾向を反映して<善徳女王>でも陛下という表現が使われるのだろう」と考えることもできる。
一瞬考えてみると、実際には新羅でそのような表現が使われた可能性があまりないという判断が入るかも知れない。なぜなら、「新羅」といえば浮び上がるのがその有名な「事大主義」であるためだ。
それでドラマの中の陛下という表現は「時流を反映した歴史学的ポピュリズムのようなもの」の反映かも知れないという気がすることもできる。
善徳女王は本当に'陛下'と呼ばれたのだろうか
それでは、問題の真相はどのようだったのだろうか? 善徳女王をはじめとする新羅国王たちは果たして「陛下」という称号で呼ばれたのだろうか? そうでなければ「殿下」という称号で呼ばれたのだろうか?
陛下あるいは殿下の中でどちら側が新羅国王に対する敬称であったかを確かめてみるのに先立ち、この二表現の本来の意味を先に検討してから移るのが妥当だろうと考える。 陛下の漢字を覗いて見れば「階段の下」という意で、殿下の漢字を覗いて見れば「大きい家の下」という意であることを知ることが出来る。 どうしてこんな文字が君主に対する敬称に使われたのだろうか?
中国後漢時代(25~220年)の文学家・書法歌人、チェウ(133~192年)は自身が使った<ドクダン>という本で陛下という用語の起源を説明した。これによれば、古代には臣下が天子に直ちに進言をするのは不敬なことだと認識されたために、王の住みかに上がる「階段の下」すなわち「陛下」に立っている侍従が臣下の話を天子に代わりに伝達したという。 このように「階段の下」に立って進言を上げなければならない程高くて神聖な存在といって天子を陛下と呼ぶことになったというのだ。
「階段の下」を意味する陛下や「大きい家の下」を意味する殿下も意味上ではほとんど差がない。それで初めは二つの用語がすべて天子を示す時に使われた。
宋国(960~1279年)の高承という人物が編纂した<サムル本記>によれば、陛下と殿下の意味が分離したのは漢の時からだった。この時から「殿下」は皇太子や諸侯を示す用語で独立することになったという。
このように陛下と殿下の意味が分かれるということによって、以後中国を上国と敬う国は対中国関係だけは自国君主を陛下と呼ばない現象が生じることになった。 中国との外交摩擦を避けるための措置であった。 中国皇帝は陛下と呼ばれて韓国国王は殿下と呼ばれたという認識はまさにこのために生じた。
事大主義の激しい朝鮮時代にも「陛下」呼称
だが中国を上国と敬う国の君主といって陛下と呼ばれることができなかったのではない。この点は歴代韓国王朝の中で事大主義が最も激しかったという評価を受ける朝鮮王朝の事例でもよく現れる。一例で、世祖9年(1464) 7月14日付<世祖実録>には、日本の室町幕府第8代将軍(実質的統治者)の足利義政が朝鮮に送った書簡で世祖が「陛下」と呼ばれた事例が記録されている。 朝鮮は明を上国と敬っていたが、こうした朝鮮-明の関係は朝鮮-日本の関係とは無関係なことだったから日本政府としては朝鮮国王を陛下と呼ぶのが当然だったのだ。
朝鮮と日本は対等な交隣関係だったので、日本の将軍が朝鮮国王を陛下と呼んだとすれば朝鮮国王はやはり日本の将軍に相応する礼節を守ったことだと見なければならないだろう。朝鮮が日本を皇帝国で呼んだという<成宗実録>の記事などを見る時にそのような判断が導き出される。参考に当時朝鮮と中国などでは天皇の代わりに将軍を最高統治者と承認した。
朝鮮が日本から陛下の声を聞いてまたそのような事例を王朝実録にまで記録する間に明はこれを止めず、何をしたのかと考えるかもしれない。 だが、朝鮮側が皇帝にでも付けることができる祖や宗と同じ廟号を死んだ王に付けるのにも中国側がこれを黙認したという事実を考えてみれば、その理由を難しくなく察するはずだ。
それは東アジア伝統時代に国家間の事大だというのがただ形式に過ぎなかったことを意味するのだ。 また朝鮮に実質的屈服を強要する程、中国の力がそんなに強力でなかったことを見せている。
事実、明国は女真族を相手にした「対テロ戦争」で朝鮮軍隊の力を借りなければならない境遇に置かれていたので、朝鮮が宗や祖のような皇帝の廟号を使うのをただ黙認するほかはなかった。 明の後の清もやはり実際に丙子胡乱以後には朝鮮の協力を求めないわけにはいかなかったために、朝鮮が使う皇帝の廟号をそのまま知らないふりして見過ごすほかはなかった。 朝鮮が日本から陛下の声を聞くことができたことは韓・中間事大だというのがそのように形式に過ぎなかったためだ。
皇帝でない王の場合にも陛下と呼ばれるのが可能なことは東アジアだけでなく欧米圏の場合にも同じだった。この点は大韓帝国が宣言される14年前の1883年に朝鮮と大英帝国が締結した韓英守護通商条約でもよくあらわれる。
この条約では英国女王(当時ビクトリア女王)を「大英帝国およびアイルランドの女王陛下、インドの女帝」(Her Majesty the Queen of Great Britain and Ireland,Empress of India)で、朝鮮国王(当時高宗)を「朝鮮国王陛下」(His Majesty the King of Corea)と呼んだ。 これは「王」あるいは「女王」という表現と「陛下」という表現がいくらでも両立できることを見せる事例ということができる。
<三国史記>は「殿下」、<三国遺事>は「陛下」
このような事例は皇帝以外に大王あるいは王という名称を持った君主たちがもいくらでも陛下と呼ばれることができたことを示しているのだ。これは皇帝の名称を持たなかった新羅の王たちやはりそのように呼ばれることができたことを意味するのだ。それなら、実際にもそうであったのだろうか? 新羅の王たちは果たして陛下と呼ばれたのだろうか?
ところでこの点と関連して各資料の内容が一致しない。新羅国王に対する敬称として、キム・ブシクの<三国史記>では「殿下」を、イルヨンの<三国遺事>では「陛下」を使っている。例えば,<三国史記>巻45 「キム・フジク列伝」には兵部令キム・フジクが真平王を「殿下」と呼ぶ場面が出てきて、<三国遺事>巻2 「萬波息笛」の記事では日官キム・チュンジルが神文王を「陛下」と呼ぶ姿が出てくる。
一方、筆写本<花郎世記>では「陛下」が使われた。<花郎世記>第6世風月主ジョン編にはミシルが真興王を「陛下」と呼ぶ光景が出てくる。ドラマ<善徳女王>はこのような<花郎世記>の記録に基づいて「陛下」を使っていると見ることができる。
上のように<三国史記> <三国遺事> <花郎世記>の記録が不一致だから、資料上の記録だけでは新羅でどんな表現が使われたかを正確に把握するのが難しい。だが、それでも糸口が全くないことではない。
その糸口は<三国史記>や<三国遺事>で発見される。<三国史記>新羅王の伝記(君主の年代記)と<三国遺事>王暦編を見れば、第27代善徳女王(在位632~647年)の後任者の第28代真徳女王(在位647~654年)時までは新羅が独自的年号を使ったことが分かる。
真徳女王が宣言した新羅の最後の年号は太和であった。<三国史記>巻5 「真徳女王王の伝記」によれば、真徳女王元年(647) 7月に太和という年号が宣言されたという。真徳女王の後任者の第29代太宗武烈王、キム・チュンチュ(在位654~661年)の時からは独自的年号が宣言されなかった。独自的年号を使わない現象は後三国時代を除いて高麗時代や朝鮮時代にほとんどそのまま引き継いだ。
真徳女王の時までは「陛下」と呼んだ可能性が大きい
韓国の現行国史教科書で高麗光宗と朝鮮高宗などが独自的年号を採択したことを「大書特筆」ということは、新羅真徳女王以後では後三国を除いてそんなことがほとんど起きなかっただけでなくそれが王朝の自主性を対内外的に誇示する方法だったためだ。
独自的年号を採択するということは自国の定規で時間を画するという意と同時に、自国の定規で宇宙を認識するという意だった。 それで他の国の聖人でも他の国の君主の年号を使わないで自国君主の年号を使うということは、自国が誰の干渉も受けないで独自に宇宙すなわち天を相手にしていることを明らかにするということだった。
言葉を変えれば、それは「私たちは天すなわち空と直通する国」という自負心の表現だった。他人の年号を使う国は「交換員を媒介に空と疎通する国」になるほかはなかった。したがって一国家が独自的年号を使うということはあたかも一個人が契約書の年月日欄に"2009年○月○である"と記入しないで"私が生まれた時から○年○月○である"と表記するように「傲慢」と自主的な行為であった。
年号に含まれたこうした意味を考慮する時に、私たちは独自的年号を使った真徳女王の時までは新羅がはるかに高度な自主性を持っていたことが分かる。これはドラマ<善徳女王>の背景になっている善徳女王時代にもこうした高度な自主性が基本的に維持されたことを意味することだ。
このような点を見ると、少なくとも真徳女王の時までは新羅人たち自国の国王を陛下と呼んだ可能性が高いと見なければならないだろう。独自的年号を使う国で、中国の皇太子や諸侯にでも使わなければならない殿下という表現で自国の君主を呼ぶのは非常識的なことであるためだ。したがって実際の善徳女王もやはりドラマの中の善徳女王のように陛下と呼ばれた可能性が高いと見なければならないだろう。
ユシンとピダムは女王を「陛下」と呼んだ
高麗時代に編纂された<三国史記>きて<三国遺事>がこの問題と関連して互いに違う表現を使ったことは,<三国史記>では太宗武烈王以後の敬称を基準として<三国遺事>では真徳女王の時までの敬称を基準としたところでもたらされた結果と見なければならないだろう。
事実、遠い将来の歴史家たちも大韓民国大統領に対する敬称が正確にいつから「閣下」から「あなた」に変わったかを正確に識別するのが難しいかもしれない。タイムカプセルを残しても事情は違うようにならない。ある時代や人々は'タイムカプセル'(文書・碑石など)を残すが、後代にそれは自然的あるいは人為的に破壊されるためだ。そのような理由のために彼ら中には韓国大統領の敬称を一律的に「閣下」で記録する人々と一律的に「あなた」で記録する人々が生じるかもしれない。 あたかもイルヨンとキム・ブシクのように。
今まで調べた通り、善徳女王の後任者の真徳女王の時までは独自的年号が使われた点から推測してみて、実際のキム・ユシンとピダムはやはりドラマの中の彼らのように善徳女王を「陛下」と呼んだ可能性が高いと見なければならないだろう。
彼らが心の底から「惜しみなく私の全てのものを差し上げるつもりです」(ユシン)としたのか、「惜しみなく君の全てのものを奪い取るつもりです」(ピダム)としたのかは分からないが、確実なのは彼らが自身の主君を最高の敬称で呼んだ可能性が高いという点だ。
長い間話題がなくてさみしい思いをしていたので、嬉しいです。
さて、今回はドラマの中で出てくる「ペーハー(陛下)」という呼び方について詳しく触れています。
日本語吹き替えの場合は「ペーハー」は「王様」と訳されますが、これはおそらく日本の天皇に敬意をはらって陛下という言葉を避けているためであろうと推察していました。ペーハーはどう聞いてももとは陛下のはずですから・・・。
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「陛下、惜しみなく奪い取るつもりです」... 陛下だと?
[史劇で歴史読み取る] MBCドラマ <선덕여왕>
09.11.23 12:19|最終アップデート09.11.23 12:19
出処:オーマイニュース
「陛下! 惜しみなく私の全てのものを差し上げるつもりです。」 -ユシン(オム・テウン).
「陛下! 惜しみなく全てのものを奪い取るつもりです。」 -ピダム(キム・ナムギル).
以上は去る16日放映されたドラマ<善徳女王>第51話の終わりの場面だ。「女王陛下万歳!」を叫ぶ国民の歓呼の中で即位式壇上に上がった善徳女王(イ・ヨウォン)を眺めてユシンとピダムは心の底からそのように大声を張り上げた。たとえ胸の内の方向は違ったとしても、ユシンとピダムは女王を眺めて心の底から'陛下'を叫んだ。
「陛下」というこの表現はドラマ<善徳女王>の中で真興王・真智王・真平王に対する敬称で使われた。この表現がまた善徳女王に対する敬称で使われているのだ。ドラマの中で非常に多く聞いた表現であるから、今はそれに対して無感覚になったかもしれない。当然そうだろうというふうに考えることもできる。
この表現の正確性可否に対して疑問を抱いた視聴者たちも「この頃の史劇ではみななので」と移ったかも分らない。韓・中間に東北工程という歴史紛争が発生して以来、韓国史劇では既存の「殿下」の代わりになるべくなら「陛下」を使っている。「なるべくなら」の話だ。「そのような傾向を反映して<善徳女王>でも陛下という表現が使われるのだろう」と考えることもできる。
一瞬考えてみると、実際には新羅でそのような表現が使われた可能性があまりないという判断が入るかも知れない。なぜなら、「新羅」といえば浮び上がるのがその有名な「事大主義」であるためだ。
それでドラマの中の陛下という表現は「時流を反映した歴史学的ポピュリズムのようなもの」の反映かも知れないという気がすることもできる。
善徳女王は本当に'陛下'と呼ばれたのだろうか
それでは、問題の真相はどのようだったのだろうか? 善徳女王をはじめとする新羅国王たちは果たして「陛下」という称号で呼ばれたのだろうか? そうでなければ「殿下」という称号で呼ばれたのだろうか?
陛下あるいは殿下の中でどちら側が新羅国王に対する敬称であったかを確かめてみるのに先立ち、この二表現の本来の意味を先に検討してから移るのが妥当だろうと考える。 陛下の漢字を覗いて見れば「階段の下」という意で、殿下の漢字を覗いて見れば「大きい家の下」という意であることを知ることが出来る。 どうしてこんな文字が君主に対する敬称に使われたのだろうか?
中国後漢時代(25~220年)の文学家・書法歌人、チェウ(133~192年)は自身が使った<ドクダン>という本で陛下という用語の起源を説明した。これによれば、古代には臣下が天子に直ちに進言をするのは不敬なことだと認識されたために、王の住みかに上がる「階段の下」すなわち「陛下」に立っている侍従が臣下の話を天子に代わりに伝達したという。 このように「階段の下」に立って進言を上げなければならない程高くて神聖な存在といって天子を陛下と呼ぶことになったというのだ。
「階段の下」を意味する陛下や「大きい家の下」を意味する殿下も意味上ではほとんど差がない。それで初めは二つの用語がすべて天子を示す時に使われた。
宋国(960~1279年)の高承という人物が編纂した<サムル本記>によれば、陛下と殿下の意味が分離したのは漢の時からだった。この時から「殿下」は皇太子や諸侯を示す用語で独立することになったという。
このように陛下と殿下の意味が分かれるということによって、以後中国を上国と敬う国は対中国関係だけは自国君主を陛下と呼ばない現象が生じることになった。 中国との外交摩擦を避けるための措置であった。 中国皇帝は陛下と呼ばれて韓国国王は殿下と呼ばれたという認識はまさにこのために生じた。
事大主義の激しい朝鮮時代にも「陛下」呼称
だが中国を上国と敬う国の君主といって陛下と呼ばれることができなかったのではない。この点は歴代韓国王朝の中で事大主義が最も激しかったという評価を受ける朝鮮王朝の事例でもよく現れる。一例で、世祖9年(1464) 7月14日付<世祖実録>には、日本の室町幕府第8代将軍(実質的統治者)の足利義政が朝鮮に送った書簡で世祖が「陛下」と呼ばれた事例が記録されている。 朝鮮は明を上国と敬っていたが、こうした朝鮮-明の関係は朝鮮-日本の関係とは無関係なことだったから日本政府としては朝鮮国王を陛下と呼ぶのが当然だったのだ。
朝鮮と日本は対等な交隣関係だったので、日本の将軍が朝鮮国王を陛下と呼んだとすれば朝鮮国王はやはり日本の将軍に相応する礼節を守ったことだと見なければならないだろう。朝鮮が日本を皇帝国で呼んだという<成宗実録>の記事などを見る時にそのような判断が導き出される。参考に当時朝鮮と中国などでは天皇の代わりに将軍を最高統治者と承認した。
朝鮮が日本から陛下の声を聞いてまたそのような事例を王朝実録にまで記録する間に明はこれを止めず、何をしたのかと考えるかもしれない。 だが、朝鮮側が皇帝にでも付けることができる祖や宗と同じ廟号を死んだ王に付けるのにも中国側がこれを黙認したという事実を考えてみれば、その理由を難しくなく察するはずだ。
それは東アジア伝統時代に国家間の事大だというのがただ形式に過ぎなかったことを意味するのだ。 また朝鮮に実質的屈服を強要する程、中国の力がそんなに強力でなかったことを見せている。
事実、明国は女真族を相手にした「対テロ戦争」で朝鮮軍隊の力を借りなければならない境遇に置かれていたので、朝鮮が宗や祖のような皇帝の廟号を使うのをただ黙認するほかはなかった。 明の後の清もやはり実際に丙子胡乱以後には朝鮮の協力を求めないわけにはいかなかったために、朝鮮が使う皇帝の廟号をそのまま知らないふりして見過ごすほかはなかった。 朝鮮が日本から陛下の声を聞くことができたことは韓・中間事大だというのがそのように形式に過ぎなかったためだ。
皇帝でない王の場合にも陛下と呼ばれるのが可能なことは東アジアだけでなく欧米圏の場合にも同じだった。この点は大韓帝国が宣言される14年前の1883年に朝鮮と大英帝国が締結した韓英守護通商条約でもよくあらわれる。
この条約では英国女王(当時ビクトリア女王)を「大英帝国およびアイルランドの女王陛下、インドの女帝」(Her Majesty the Queen of Great Britain and Ireland,Empress of India)で、朝鮮国王(当時高宗)を「朝鮮国王陛下」(His Majesty the King of Corea)と呼んだ。 これは「王」あるいは「女王」という表現と「陛下」という表現がいくらでも両立できることを見せる事例ということができる。
<三国史記>は「殿下」、<三国遺事>は「陛下」
このような事例は皇帝以外に大王あるいは王という名称を持った君主たちがもいくらでも陛下と呼ばれることができたことを示しているのだ。これは皇帝の名称を持たなかった新羅の王たちやはりそのように呼ばれることができたことを意味するのだ。それなら、実際にもそうであったのだろうか? 新羅の王たちは果たして陛下と呼ばれたのだろうか?
ところでこの点と関連して各資料の内容が一致しない。新羅国王に対する敬称として、キム・ブシクの<三国史記>では「殿下」を、イルヨンの<三国遺事>では「陛下」を使っている。例えば,<三国史記>巻45 「キム・フジク列伝」には兵部令キム・フジクが真平王を「殿下」と呼ぶ場面が出てきて、<三国遺事>巻2 「萬波息笛」の記事では日官キム・チュンジルが神文王を「陛下」と呼ぶ姿が出てくる。
一方、筆写本<花郎世記>では「陛下」が使われた。<花郎世記>第6世風月主ジョン編にはミシルが真興王を「陛下」と呼ぶ光景が出てくる。ドラマ<善徳女王>はこのような<花郎世記>の記録に基づいて「陛下」を使っていると見ることができる。
上のように<三国史記> <三国遺事> <花郎世記>の記録が不一致だから、資料上の記録だけでは新羅でどんな表現が使われたかを正確に把握するのが難しい。だが、それでも糸口が全くないことではない。
その糸口は<三国史記>や<三国遺事>で発見される。<三国史記>新羅王の伝記(君主の年代記)と<三国遺事>王暦編を見れば、第27代善徳女王(在位632~647年)の後任者の第28代真徳女王(在位647~654年)時までは新羅が独自的年号を使ったことが分かる。
真徳女王が宣言した新羅の最後の年号は太和であった。<三国史記>巻5 「真徳女王王の伝記」によれば、真徳女王元年(647) 7月に太和という年号が宣言されたという。真徳女王の後任者の第29代太宗武烈王、キム・チュンチュ(在位654~661年)の時からは独自的年号が宣言されなかった。独自的年号を使わない現象は後三国時代を除いて高麗時代や朝鮮時代にほとんどそのまま引き継いだ。
真徳女王の時までは「陛下」と呼んだ可能性が大きい
韓国の現行国史教科書で高麗光宗と朝鮮高宗などが独自的年号を採択したことを「大書特筆」ということは、新羅真徳女王以後では後三国を除いてそんなことがほとんど起きなかっただけでなくそれが王朝の自主性を対内外的に誇示する方法だったためだ。
独自的年号を採択するということは自国の定規で時間を画するという意と同時に、自国の定規で宇宙を認識するという意だった。 それで他の国の聖人でも他の国の君主の年号を使わないで自国君主の年号を使うということは、自国が誰の干渉も受けないで独自に宇宙すなわち天を相手にしていることを明らかにするということだった。
言葉を変えれば、それは「私たちは天すなわち空と直通する国」という自負心の表現だった。他人の年号を使う国は「交換員を媒介に空と疎通する国」になるほかはなかった。したがって一国家が独自的年号を使うということはあたかも一個人が契約書の年月日欄に"2009年○月○である"と記入しないで"私が生まれた時から○年○月○である"と表記するように「傲慢」と自主的な行為であった。
年号に含まれたこうした意味を考慮する時に、私たちは独自的年号を使った真徳女王の時までは新羅がはるかに高度な自主性を持っていたことが分かる。これはドラマ<善徳女王>の背景になっている善徳女王時代にもこうした高度な自主性が基本的に維持されたことを意味することだ。
このような点を見ると、少なくとも真徳女王の時までは新羅人たち自国の国王を陛下と呼んだ可能性が高いと見なければならないだろう。独自的年号を使う国で、中国の皇太子や諸侯にでも使わなければならない殿下という表現で自国の君主を呼ぶのは非常識的なことであるためだ。したがって実際の善徳女王もやはりドラマの中の善徳女王のように陛下と呼ばれた可能性が高いと見なければならないだろう。
ユシンとピダムは女王を「陛下」と呼んだ
高麗時代に編纂された<三国史記>きて<三国遺事>がこの問題と関連して互いに違う表現を使ったことは,<三国史記>では太宗武烈王以後の敬称を基準として<三国遺事>では真徳女王の時までの敬称を基準としたところでもたらされた結果と見なければならないだろう。
事実、遠い将来の歴史家たちも大韓民国大統領に対する敬称が正確にいつから「閣下」から「あなた」に変わったかを正確に識別するのが難しいかもしれない。タイムカプセルを残しても事情は違うようにならない。ある時代や人々は'タイムカプセル'(文書・碑石など)を残すが、後代にそれは自然的あるいは人為的に破壊されるためだ。そのような理由のために彼ら中には韓国大統領の敬称を一律的に「閣下」で記録する人々と一律的に「あなた」で記録する人々が生じるかもしれない。 あたかもイルヨンとキム・ブシクのように。
今まで調べた通り、善徳女王の後任者の真徳女王の時までは独自的年号が使われた点から推測してみて、実際のキム・ユシンとピダムはやはりドラマの中の彼らのように善徳女王を「陛下」と呼んだ可能性が高いと見なければならないだろう。
彼らが心の底から「惜しみなく私の全てのものを差し上げるつもりです」(ユシン)としたのか、「惜しみなく君の全てのものを奪い取るつもりです」(ピダム)としたのかは分からないが、確実なのは彼らが自身の主君を最高の敬称で呼んだ可能性が高いという点だ。
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