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キム・ユシン(オム・テウン)インタビュー

2009-12-17 02:38:40 | 엄태웅

10asiaより。長ーいインタビュー。

テウン氏の俳優としての不器用さが、まるでキム・ユシンと同じようだというお話。

 

オム・テウン|“馬鹿正直で、要領悪くて、この頃は私がキム・ユシンのようなことも” -1

 

“人々と初めからとても親しくなれない”と話したオム・テウンは自らに対してよく分からないことがある。 彼は生まれつき性格的に相手を安らかにさせる人だ。 気取ることも人見知りすることもせず、‘格好つける’こともなくて自身の弱点まで先に打ち明けて恥ずかしそうに“ウフフッ”と笑ってしまうオム・テウンと対話をしているといつのまにか緊張感は消えて話自体に没頭することになる。 それで拾ってきて捨てられなかった‘チュンヒ’とのエピソードを精一杯楽しい顔で聞かせた彼はインタビューを終えた後しばらく逃れていた‘ポス’をまた身にまとって無敵の君臣キム・ユシンになり戦場に離れた。

 

今日撮影を準備しているシーンはどんな内容なのか。

 オム・テウン: ピダム(キム・ナムギル)の乱を控えている。行って鎮圧をすべきだ。(笑い) “キム・ユシンは近ごろ見るに稀な馬鹿正直なキャラクター” 何年か前から史劇に出演したいと話してきたが結局 <선덕여왕>をすることになった。

 

キム・ユシンはあまりにもよく知らされた偉人で大衆が持っているイメージも確実な人物であったのにその大きい役割を受け持って演技するのはどうだったか。

オム・テウン:俳優だからいつかは史劇をすることになることと考えた。キム・ユシンという役割に会った時は明らかにおもしろいように見えながらも物足りなさはあった。この作品がぴたりとキム・ユシン将軍に対する写実的な話を描いたというよりは <선덕여왕>というドラマ中でキム・ユシンは話を作っていくための一つの装置と見ることもできるから。 初めにはキャラクターを表現するのも広くて果てしなくて台詞も多くこんがらかったが、時間が流れて楽になり力もついた。 何よりとてもおもしろいドラマであり、おかげで次にまた史劇をするならばもう少しはやくやりとげることができるだろう。

 

武術や乗馬のような技術的な部分の他に史劇に適応するのにさらに必要なことらもあったか。

 オム・テウン:初めには時代と関係く人の感情を表現すればよいと思ったが演技の技術、いや技術というよりは雰囲気を合わせるのが必要なことを感じた。私自身ちょっとぎこちなくても史劇の世界を成し遂げる規律のようなのがあるので、例えばとても何でもないようだが互いに台詞をやりとりしてある瞬間ひとりが“~クレッニャ?”のような最近の語り口を使うと何か変になるものでしょ。

 

映画 <家族の誕生>をはじめとして現代劇で演技してきたキャラクターが普通の人々よりももう少し自由だったり個性が明確な方であったのにキム・ユシンは幼い時から‘正しい生活’それ自体の人物だと見るとその変化を表現しにくかったようだ。

オム・テウン:そうだ。 <선덕여왕>には現代劇に持って行ってもはじけない程自由奔放なキャラクターもあるがキム・ユシンはそのような人ではなくて、私以前に幼いキム・ユシン(イ・ヒョンウ)のキャラクターが決まっていて見たら最初には動かす所がなかった。 体も常に固まっていて。 そんなことが苦しかったが時間が過ぎてその中での動きを捜し出して楽になることができた。 今になってはそんなことがキム・ユシンというキャラクターを動揺することなくしていくことができるようにさせてくれたという気がする。 近ごろ見るに稀な馬鹿正直なキャラクターであり、それは最後まで同じことであるみたいだ。

 

馬鹿正直さに関して話したが実際にも要領があまり良くない性格と思う。(笑い)

オム・テウン:何をしてもすぐに誤りを犯す。(笑い) ‘要領よくやって’などと言うが、そのようにして感情をすべて表現できるならば最高の演技者だが私がそうでないと見ると本物のようにするほかはなかったし、そのためにアクション チームの方たちがたくさんケガすることもあった。とても申し訳なかったがその方たちも仕事で、私も仕事だから仕方なかった。そうするうちに私もたくさんケガしたが突き指したり、皮膚がむけたこと程度では何ということはなかった。指が一つくらい切られるならば分からないだろうか。

 

そのようなキム・ユシンの性格を端的に見せたのが花郎の時、木刀で1万回切る修練をする場面であったが実際撮影はどうだったか。

オム・テウン:話が1万回であってそのままほどほどにすれば良いだろうと考えたが違った。木刀で岩を打つ場面は前日夜を明かして朝から議政府(ウィジョンブ)にある山でとったが、私は木刀がそのように簡単に折れ、かけたことを知らなかった。(笑い)準備した木刀がみな折れてしまったせいで小物チームが車に乗って市内に出て行ってまた買ってきて‘ちょっと要領よくしなさい’としたのに、そうしてもかまわない程の武術の実力があったら良かったがそうでないから本当にするほかはなかった。 あまりにも打ち下ろしたところ手はしびれて手の平は擦り剥けて、次に日になると後頭部が鳴るほどであった。 ところで今考えてみるとその場面がすごい名場面でキム・ユシンが素晴らしく現れた神ではなくて、熱心にはしたようだ。 “他の作品に比べてキム・ユシンから抜け出すのに時間が長くかかるようだ” 序盤にはキャラクターと演技に対する論議もあった。

 

史劇というジャンルに適応することだけでなくキム・ユシンという人物をどのように眺めなければならないかに対する悩みがあったようだ。

オム・テウン:事実は始める時とても混乱したが、今考えればそれが最も恥ずかしい。俳優は作品に入る瞬間からキャラクターに対して中心を捉えてその流れのとおり動くべきなのによく分からない瞬間らがあった。なぜキム・ユシンが突然弱気に涙を流さなければならないか同じようなことであったのに、それも私が要領が悪いのでそうなった。俳優は納得が行かなくても演技ができるべきなのに私は心の底から納得しなければ死んでもできない方だ。 なのでまだまだであるように見えたりもしたし、それで混乱して揺れた場面がある。 撮影日程がとても窮屈だと見ると私の立場で答をさらに積極的に探せなかったことをとても後悔して。

 

もう上将軍になったキム・ユシンの立場で初期花郎時期のキム・ユシンを眺めるとどうなのか.

オム・テウン:この頃も時々休む日があると <선덕여왕>を初めからまた見るのだが、とてもおもしろい。 私たちが幼い時を振り返ってみれば‘今考えたら何でもないがその時はなぜそれがそこまで大変だったのだろうか’みたいなのと同じように花郎時期のキム・ユシンは今のキム・ユシンより多く揺れたし、感情的にも解き放てないことが多かったようだ。 トンマン(イ・ヨウォン)に対する恋慕のような感情も。 もしかしたらその時の混乱は私が私自身を信じることができなかったところからもあらわれたのと同じで、代わりにこの60部作を越える作品中でキム・ユシンも少しずつ粗雑さを脱して熟しながら‘大きい’人に成長したという気がする。

 

キム・ユシンもトクマンだけを恋慕したが <선덕여왕>の メローは三角関係というよりはピダムとトクマンを中心に描かれた。

オム・テウン:58回でピダムと国婚が決まったトンマンにユシンが祝うと話すシーンがあるのだが、台本が出てきた時からとても共感した。事実その間にはユシンもトンマンを放さないでいると考えたので話がピダムとトンマンの愛へ行きかけるのを見て‘ウーン...何か、何か。なぜこれがこのようになるだろう?’という疑問を持ったりもしたがそれはそのまま私の考えであったし、ドラマの中のユシンはすでにミシルの策略によって結婚をした時から男女間の感情をやめて大義に向かって行ったのだ。 幸いそれを悟ったので相手を心より大切にするユシンの感情が本当に胸に迫った。 私がしてあげられることと、してあげられないことを分かったし、トンマンに私がしてくれることができないことを他の人から慰められるようにしたかった。 それでそのシーンをとってとても心が痛いけれども気楽だった。 キム・ユシンの人間的な深さを新たに感じたし、私がそのキム・ユシンを演技したのが本当に良かった。

 

作品を準備する期間まで入れたら2009年をほとんどキム・ユシンとしてだけ生きた。映画やミニ シリーズに主に出演したのでこういう経験は初めての縁だがどうだったか。

オム・テウン:事実私が初めから人々ととても気楽に親しくなれない。撮影会場も見慣れなくて。前にも常に良い人々と仕事をしたが16部作は互いに“オ? オ。ア。イェ...”といって終わる(笑い)それより長くした24部作でも人々と親しくなると終わったが <선덕여왕>ではそのようなドラマを2~3個合わせた長さの作業をして見たらスタッフ、俳優たちと本当にたくさん親しくなることができた。 それで以前には一度もそのような考えをしたことがなかったがこの頃は時々私がキム・ユシンのようだという考えになる。 (笑い)出た本来の作品やキャラクターからとてもはやく抜け出す方なのにキム・ユシンから抜け出すには時間がかなり長くかかるようだ。

 

何かに適応して陥るのに時間がかかるならばまだ適応がうまくできないと感じられるのはどんな事なのか。

オム・テウン:人々の心。多くの方々が私を愛して好んで表現して下さるのをよく分かりながらも恥ずかしくて度々避けることになる。ファンたちはもちろん食堂のようなところでも私に来られて何か悪口を言うのでもなくて“とても良いです。よく見ています”いう方々に“はい、ありがとうございます”と受ければ互いに気楽で良いだろう、心は有難いがわけもなく頭をゆっくり下げて“...ア、イェ...”ということになる。 出て行かれてから‘これはちがうんだけど。..’と後悔して、多分このように感情の疎通がのろくて私の演技がのろいのと同じようだ。


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