
表題の本は、朴天秀(パク・チョンス)氏著。講談社選書メチエで出版されている。
朴氏は、慶北大学の大学院卒業後、大阪大学でも学んだ方で、現在は慶北大学副教授。
日本では「伽耶」と書く場合が多いように思うが、この本では「加耶」。
古代の韓日交渉史への問題提起から始まる。
韓日の交流が最も盛んだったのは三国時代で、日本では古墳時代にあたるとのこと。
この問題提起は、
■任那日本府は覇権的な活動で韓半島の文物・人材を日本列島に移入したのではない
■三国時代当時、文化的には韓半島の方が高く、一方的に韓半島→日本列島へと文物が流れたかのように主張されてきたが、それは間違い
という2点。前者は日本的解釈に対する否、後者は韓国的解釈に対する否ということになる。
氏が注目しているのは、前方後円墳である。
3世紀から4世紀は金官伽耶から文物が日本に移入された時代だとしている。
5世紀後半に日本に移入された鉄銅製の武具・装身具などは新羅産であるとしている。
前方後円墳はかつての伽耶地域に存在し、それが、前方後円墳が韓半島から日本に伝わったという考えと、日本独自の前方後円墳が倭人の韓半島進出で現地で築かれたという説があるが、氏は、別の立場をとっている。
この辺の解析は非常に難しくて、三国+伽耶の激しい対立の中で、倭との関係が多様に利用され、倭系の大使のような存在が伽耶にも百済にも派遣され、彼らの墓が前方後円墳の形で造営されたのではないかというような論旨である。
韓半島から出土する当時の文物で一見、元々韓半島の文化的製品なのだが、実は日本で作られ、韓半島に持ってこられたものもあるとのこと。技術のUターン、逆輸入ということになる。
日本に優れた技術者を送るということは、日本との政治的関係を強めるという意味で利用されたのだろう。その結果、日本でその優れた技術を広め、また発展させ、日本で製造されたものが逆に韓半島に送られるまでになった。
私は、この分野の知識が乏しいので本を読むとすべて「へーそうだったんだ」と感心するだけの状態だが、いずれにせよ、韓半島と日本の長くて深い関係には非常に興味があるので、いろいろな方の研究をこれからも機会があれば読んでみたいと思う。
朴氏は、慶北大学の大学院卒業後、大阪大学でも学んだ方で、現在は慶北大学副教授。
日本では「伽耶」と書く場合が多いように思うが、この本では「加耶」。
古代の韓日交渉史への問題提起から始まる。
韓日の交流が最も盛んだったのは三国時代で、日本では古墳時代にあたるとのこと。
この問題提起は、
■任那日本府は覇権的な活動で韓半島の文物・人材を日本列島に移入したのではない
■三国時代当時、文化的には韓半島の方が高く、一方的に韓半島→日本列島へと文物が流れたかのように主張されてきたが、それは間違い
という2点。前者は日本的解釈に対する否、後者は韓国的解釈に対する否ということになる。
氏が注目しているのは、前方後円墳である。
3世紀から4世紀は金官伽耶から文物が日本に移入された時代だとしている。
5世紀後半に日本に移入された鉄銅製の武具・装身具などは新羅産であるとしている。
前方後円墳はかつての伽耶地域に存在し、それが、前方後円墳が韓半島から日本に伝わったという考えと、日本独自の前方後円墳が倭人の韓半島進出で現地で築かれたという説があるが、氏は、別の立場をとっている。
この辺の解析は非常に難しくて、三国+伽耶の激しい対立の中で、倭との関係が多様に利用され、倭系の大使のような存在が伽耶にも百済にも派遣され、彼らの墓が前方後円墳の形で造営されたのではないかというような論旨である。
韓半島から出土する当時の文物で一見、元々韓半島の文化的製品なのだが、実は日本で作られ、韓半島に持ってこられたものもあるとのこと。技術のUターン、逆輸入ということになる。
日本に優れた技術者を送るということは、日本との政治的関係を強めるという意味で利用されたのだろう。その結果、日本でその優れた技術を広め、また発展させ、日本で製造されたものが逆に韓半島に送られるまでになった。
私は、この分野の知識が乏しいので本を読むとすべて「へーそうだったんだ」と感心するだけの状態だが、いずれにせよ、韓半島と日本の長くて深い関係には非常に興味があるので、いろいろな方の研究をこれからも機会があれば読んでみたいと思う。
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