田辺重治の本や小暮理太郎の本を少しずつ読んでいます。
田辺が明治28年の生まれで、明治時代から登山を始めた人ですから、タカ長のように昭和の登山者には理解できないことが多々あります。
今では登山靴を履き、ザックを背負って登山するのは当たり前のことですが、田辺の時代は草鞋を履いての登山でした。その足で槍ヶ岳から立山まで歩くことなど想像できません。もちろん、数足の草鞋を使うのですが、それでもそのような登山は想像出来ません。
日本でザックを使ったのは田辺たちが日本で二人目、三人目だという記述もありました。片桐に頼んだようですが、片桐のキスリングはタカ長にも懐かしいものです。
田辺の時代の登山とタカ長が知っている登山とはまったく別次元のモノだと思いますが、それでも、田辺たちが行っていた登山の残り火の、そのまた残り火みたいなものをタカ長も経験しているような気もします。
タイトルの「昔の山歩き」と言うのは、田辺たちの登山のことではなくて、タカ長が登山を始めた頃の山歩きのことです。
田辺たちは米を持参して、登山中に水を探し、飯を炊き、その日の泊まり場を見つけながら山旅を続けています。
そのような経験ならタカ長にもあります。具体的にどのようなコースを歩いていたのか記憶が無くなりましたが、一人テントを担ぎ、米をもって歩いていました。
思えば懐かしい思い出ですが、でも、本当にどこを歩いていたのだろう???
たとえば、中部地方を日本海から太平洋まで放浪したと言うのなら思い出に残るでしょうが、恐らくは中国地方の低山を放浪していたのだろうから、今となっては記憶が無くなったのでしょう。
もう一度あの頃のような放浪旅をしてみたい気持ちはありますが、重いザックを担いで歩く体力がありません。それに、、、、、、、この歳で放浪旅をしていたら、老人の徘徊と間違えられそうなので、今のままの「小さな山歩き」を継続することだけを考えることにします。
焚き火や、流木などを燃やして飯盒で飯を炊いたこともありますが、多くの場合は「プリムス」や「ホエーブス」の、言ってみれば人工的な火を使っての炊事でした。
そのような山旅を何日か続けていると、人と話すこともなく、下山の日に遠くで人の姿を見ると懐かしいような、また、下界に下りたとき声が出るだろうかと本気で心配した記憶もあります。船乗りの人が港に上陸して久しぶりに陸の人を見ると、女の人がキレイに見えると聞いたことがありますが、タカ長も久しぶりに下界に下りて同じような経験をした記憶もあります。
そのような放浪をしていました。そのようなタカ長の山旅の根底には、田辺たちの時代の残り火みたいななモノがあったようだと、この本を読みながら感じています。
今も売っているんですかね。
その頃ホエーブスの扱いを間違えてテントを燃やしが人が多いと指導を受けていました。幸いタカ長たちはトラブルを起こしたことはありません。
その後ガスが使用されるようになりましたが、ホエーブスの火力が魅力で、その頃ガスを使ったことがありません。
今でも買えるのかどうか知りません。
あの頃のことを話せる仲間がいなくなって寂しい思いをしています。