カササギの森では、谷の西側つまり管理棟のあるほうから、植栽をはじめました。それが終わってから谷の向こう側・東側を植えはじめたのです。ですから谷の向こう側は長いあいだ、裸地のままでした。
それが数年前からポツリポツリと青いものが見えはじめたのですね。上の写真とつぎの写真がそれです。
実際に、谷を越えて現場にいってみると、木が大きくなっているようすがわかります。
この区域の特徴は三洋電機労働 . . . 本文を読む
毎回のツアーのみなさんが、実験林場カササギの森を訪れるんですけど、敷地の中央にある谷に降りることは最近はありません。降りただけ登ってくるのが苦労ですし、時間もかかります。そこで今回、写真でみてもらいましょう。
谷の底にはけっこうきれいな水が流れています。旱魃の年には涸れてしまうこともありますが、たいていは流れています。そして、表面には見えなくても、伏流水となって流れているのです。
その水を利 . . . 本文を読む
イオンリテールワーカーズユニオンのみなさんと緑の地球ネットワークのスタディツアーが8月27日、そろって雲崗石窟に行きました。複数の石窟が修復中で見ることができません。
そのかわり、以前は石窟の外から見るだけで、その奥にある仏像をみられなかったものを、目前にみることができるようになったものもあります。今回の写真の3枚目まではそうです。
スタッフがはいって、げんに修復中のものもありました。鉄パイプ . . . 本文を読む
レンガを張り替え、大きく修繕することは、史跡の破壊と言えなくもないと思うんですけど、それがどんどん進んでいます。私の古い友人は、「上手にやってくれたらまだいいんですけど、そうとも言えない」と話します。そんなところでしょうか。とにかく工事がやたら速いので、いったいどれだけもつのか心配ですね。
4月中旬のこの時期だとまだ寒いので、本格的な観光シーズンはもっとあとなんでしょうけど、けっこうたくさんの客 . . . 本文を読む
ここのし主役はなんといっても、数ある城門なんですけど、その重要なひとつがこれ。残念ながら名称を忘れてしまいました。
印象的だったのはその床で、つるつるに磨かれていました。ここの歴史を証言しているのでしょう。
「天下第一之関」とか、「兵家必争之地」とか書かれているんですけど、歴史的にここで戦われた戦闘は大小1700回に及ぶそう。日中戦争もその例外ではなかったそうですが、その具体的な状況を私は . . . 本文を読む
緑の地球ネットワークのツアーのみなさんといっしょに、8月22日の正午すぎ、北京に着きました。ツアーのみなさんは空港からバスで大同市最南部の霊丘に向かいました。私はツアーと別れて、北京で一泊し、23日夕方の飛行機で大同に向かいます。そんなわけで、この雁門関シリーズ、大急ぎで進みます。
もとからここにあったものかどうか疑問ですが、大砲と旧式の武器が飾ってありました。どうも私が前回ここで回ったのは、ほ . . . 本文を読む
歴代の皇帝がここを訪れ、また名将がここの守りに着きました。そのなかには周の穆王、趙の武霊王、秦の蒙恬、漢の劉邦などがいます。そして、中国共産党の指導部、毛沢東、周恩来、劉少奇なども、共産党の本部を延安から河北省の西柏坡に移すとき、ここを通過しました。私は2006年9月にここを訪れ、このブログの118話でそのときのことを書いています。
この建物は帝王洞といって、訪れたトップたちの宿泊・休憩所だった . . . 本文を読む
寄り道をしたために、雁門関に着くまでに、ずいぶん時間がかかりました。このブログでも。私は前回2006年にここにきているのですが、そのさいは南側の忻州市代県のほうからきました。今回は北側の朔州市山陰県のほうからきています。
まさに要害の地なんですね。そのことは北側からきた今回のほうがよくわかりました。急峻な山並みに、その稜線を縫って万里の長城が築かれています。南北を貫く道はここしかありません。その . . . 本文を読む
こちらが本体です、広武漢墓群。漢の時代の将兵のお墓ですね。高いものは十数メートル、低いものでも3~4メートルはあり、前回ここを訪れたときは293座ときいたのですが、ほかに288座という説もあるようです。
おバカなことに私は、目の前にあった墳墓に登って写真を撮ったんですね。バチあたりであるだけでなく、写真の起伏感が失われてしまいました。
これほどの扱いをされたのは将校なんでしょうけど、なかには1 . . . 本文を読む
広場の中央に巨大な立像があります。台座のところに人間が写っていますので、それと比べれば像の巨大さがわかると思います。19.8mもあるのだそうです。
中心の像は誰でしょう? 私は漢の高祖劉邦かと思ったのですが、本当は7代皇帝・武帝の劉徹(紀元前141年~紀元前87年)だそうです。衛青とその甥・霍去病といった将軍を擁し、北方の遊牧民族・匈奴と激しく戦った皇帝です。『史記』をのこした司馬遷が仕えた皇帝 . . . 本文を読む
昨日の写真にも遠くに写っていましたね。右から左に「廣武」と書かれています。べつの場所でのことですが、私が「むかしは横書きでも右から左に書いたんだ」といったら、「そうじゃない、あれは縦書きの一字詰めなんだ」と返されたことがあります。どうなんでしょう?
ここの後ろに歴史的な場所があるんですけど、その前方に巨大な広場が整備されていました。最近のものです。私は2006年にここを訪れたことがありますけど、 . . . 本文を読む
前回は万里の長城のあるところから、広武古城をみてみました。同じ場所から、目をほんのちょっと時計回りに転じると、こういうものがみえます。
正直に話しますと、広武古城に行くまえに、こちらをみたんですよ。ですので、このあと、何枚か現場の写真をみてもらうことにします。
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長城のところから、先ほどまでいた広武古城を振り返ってみました。北の方角です。ということは、この万里の長城の外です。戦時には激しい抗争が繰り返されたことでしょう。
ここまで離れて、しかも高いところからみると、四角く城壁に囲まれていることが一目でわかります。
長城のある山にもマツがたくさん植樹されていました。植樹が広がっていくのはうれしいことではあるんですけど、これらの木が育って、この眺望が失われ . . . 本文を読む
これがなんであるのか、わかりませんでした。最初はアップするつもりはなかったのですが、「広武城」で中国のネットを検索すると、この写真がたくさんでてきます。で、載せることにしました。どちらかという、この門ふうのものをもっと小さくして、麓の村などをいれて撮った方がよかったようです。撮影対象の意味を理解しないで撮ると、ろくな写真にはなりません。
GoogleEarthで観光地をみると、たくさんの写真が張 . . . 本文を読む