マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

真相解明

2006-10-05 22:37:44 | 教会の風景
昨日、教会裏手の門とフェンスと廃材が突然なくなっていた。
誰が持っていったのか不明だったが、今日その真相が解明された。
Kさんが教会のお隣へ聞き込みをし、教会員のMさんの奥さんに問い合わせてくださった。

どうやら、Mさんの奥さんのお父さんが、気を利かせて回収してくださったとのこと。
今度の土曜日に来てくださり手伝ってくださることになっていたのだが、昨日思いつきで訪ねてくださったようだ。
ちょうど教会に誰もいなかったので、とりあえず、そこにあった物を運んでくださったらしい。

心強い助っ人の登場で、今度の作業も順調に終えられそう。
ちょうど私は神学校の日なので、朝少し顔を出して挨拶をしてから退出する予定。
いろんな方々の助けを頂きながら、教会の環境整備も進行中。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈り

2006-10-05 11:39:56 | 聖書通読
■ 私たちの祈りが何に基づいているのか?

使徒の働き3:12,13,16
「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエルの人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。・・・そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』」

使徒ペテロとヨハネが、足の不自由な人を祈りによって直した直後のコメント。
たくさんの人が集まってきたので、使徒ペテロがこの奇蹟の根拠を説明している。

彼の説明によると、その人の足が直ったのは、彼ら自身の力や信仰深さによるものではない。
イエスの名によるとのこと。

これは単純であるけれど、見落としやすいことだ。
祈りが、私たちの信仰深さによるものではなく、ただイエス様の名のゆえに応えられるというのだ。
もし、祈りが私たちの善良さや敬虔さに基づいているのなら、祈りが応えられるかどうかは確信が持てない。
でも、聖書は、イエスの御名(イエス様の約束や十字架による死や復活、御子の愛と憐れみや誠実さ)を信じてささげる祈りに力があると教えている。
これは祈る時に、私たちが励まされる真理である。
神様に大胆に求めることができる。

今朝も祈りの時間を過ごす中で、この聖書の言葉は、私のささげる祈りに大きな支えとなった。
私の周りにも多くの方々が様々な必要を抱えていることを思い起こしながら祈っていた。
正直なところ、私自身は具体的に周囲の方々のその必要のすべてに応えるものを持ち合わせてはいない。
自分の無力さを感じる時もある。
しかし、そんな時、イエスの御名によって祈ることの意味を思い起こす。
イエス様の名のゆえに父なる神様が応えてくださるという確信は、私に安心と期待をもたらす。
そして、神様がしてくださったことを後で聞くことになるだろう。
やっぱり神様はすごいなぁと納得し、感謝と賛美をささげることができる。
イエス様の名によって祈る時、今も応えてくださる神様がいる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする