梅雨明けして、暑い日が続いています。
そんな暑い日に「火」の話をすることになってしまいましたが …
昨日の主日礼拝の説教箇所は、新約聖書の講解でルカの福音書12章49-53節でした。
「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。…」
この場合の「火」は、聖なる神のさばき、終末における神のさばきをたとえているそうです。
この世における神のさばきに先駆けて、まずキリストの受難があります(12:50)。
キリストは、私たちが受けるはずの神のさばきを受けて私たちの罪を贖うために、十字架にかかりました。
しかし、人の反応は、このイエス・キリストをめぐって対立し、分裂する、と言われています(12:51-53)。
キリストの苦しみのおかげで、私たちは神のさばきを免れます。
一方、キリストを信じて生きていく、ということには、大なり小なり信仰ゆえの試練があります。
ただし、たとえそうした試練を通るとしても、神は共におられます。
主イエスは、信じる者が動揺しないで信頼し続けるよう教えておられます。
…というような説教を語りました。
初めて訪ねてくださった方々もご一緒できて、昨日も幸いな礼拝と交わりの一日でした。
そんな暑い日に「火」の話をすることになってしまいましたが …
昨日の主日礼拝の説教箇所は、新約聖書の講解でルカの福音書12章49-53節でした。
「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。…」
この場合の「火」は、聖なる神のさばき、終末における神のさばきをたとえているそうです。
この世における神のさばきに先駆けて、まずキリストの受難があります(12:50)。
キリストは、私たちが受けるはずの神のさばきを受けて私たちの罪を贖うために、十字架にかかりました。
しかし、人の反応は、このイエス・キリストをめぐって対立し、分裂する、と言われています(12:51-53)。
キリストの苦しみのおかげで、私たちは神のさばきを免れます。
一方、キリストを信じて生きていく、ということには、大なり小なり信仰ゆえの試練があります。
ただし、たとえそうした試練を通るとしても、神は共におられます。
主イエスは、信じる者が動揺しないで信頼し続けるよう教えておられます。
…というような説教を語りました。
初めて訪ねてくださった方々もご一緒できて、昨日も幸いな礼拝と交わりの一日でした。