
旧乙訓郡の4カ村と1村が江戸前期、西山山中・鴫谷山の用益をめぐって争った際に、裁定の結果を記した文と合わせて描かれた「鴫谷山山論裁許(しぎたにさんさんろんさいきょ)絵図」の原本が、京都市西京区大原野小塩町の旧家で2枚、見つかった。副本を向日市の上植野町自治連合会が現在も所蔵し、市指定文化財となっているが、原本は長く所在不明だった。同市文化資料館は「約350年前の裁判の全当事者が保管した絵図が、副本も含めそろって残っていたことは大きな成果」と評価している。
今回見つかった絵図は、副本の修復完了を新聞の記事で知った、長岡京市でカメラ店を営む小塩町在住の安井昭さん(66)が、同じ町内に住む親類の古い農家宅で似た絵を過去に見たのを思い出し、まず自分の目で確認。確信を持ち、持ち主の長谷川治良さん(76)とともに、向日市文化資料館に鑑定を求め、本物と分かった。
2枚の絵図の製作年は記載から、いずれも現存する副本と同じ、寛文9(1669)年。中央に大きく鴫谷山を配し、松林や竹林、山を貫く道、周囲の村など絵の内容や構図、さらに描き方も含め、副本と一致する。
一方、副本にはない京都所司代と町奉行の黒印が署名下にあり、絵図中の境界確定線上にも複数押されていることで、市文化資料館は「原本」と判断した。2枚の絵図のうちの1枚には、明治19(1886)年の裁判で証拠採用されたことを示す判事の署名などもあった。
■山の用益で論争
絵図が描かれた当時は、鴫谷山を擁する旧小塩村と、同山の入会権を共有する上植野・鶏冠井(各現向日市)・今里・井内(各現長岡京市)の旧4カ村の間で、柴草刈り取りの権利をめぐって争論があった。
京都所司代と京都東・西町奉行は4カ村側の権利を認め、裁定の内容を記しこれを図解した絵図を両者に下げ渡した。4カ村は副本を作り、原本を今里と井内で、副本は上植野と鶏冠井で、2村ごとに10年交代で保管すると決め、副本に覚書を記した。
明治の裁判後、絵図はいつしか存在が忘れられたが、約30年前、上植野町で公民館建て替えに伴い副本の存在が再確認された。一方、原本は今回見つかるまで長く所在不明のままだった。
■なぜ原本2枚
ここで謎となるのは原本が「2枚」もあること。向日市文化資料館のその後の調査で、1枚は小塩村、もう1枚は今里・井内の保管分と判明した。今里・井内の原本が「訴訟相手」の小塩村に渡った経緯や時期は不明で、今後の解明が待たれる。
同資料館の玉城玲子学芸員は「副本を含む3枚の絵図と、残っている多数の関係文書を照合することで、争論の内容や経過をより詳細に確かめられ、新たな発見や事実解明にもつながる可能性がある」と期待する。そして、「江戸期や明治期の乙訓の村々が山をどう利用し、権利を守ろうとしたのか、ひいては住民の暮らしのあり方や変遷を明らかにする手がかりにもなる」と話す。
【 2012年09月08日 12時06分 】