
京都府の乙訓地域の活性化に取り組むNPO法人「京おとくに・街おこしネットワーク」(事務局・長岡京市神足2丁目)がこのほど、長岡天満宮(同市天神2丁目)や柳谷観音楊谷寺(同市浄土谷)などに、サクラの改良品種「陽光」を植樹した。ソメイヨシノとは趣を異にする濃いピンク色のサクラを生んだのは、世界平和を切に願う一人の男性だった。
■品種改良の「陽光」乙訓各地で植樹
1月29日はあいにくの雨となったが、NPOメンバーらはずぶぬれになりながら長岡天満宮で、高さ2メートル以上に育った苗木の根を穴に入れ、土をかぶせていった。30日は柳谷観音楊谷寺などで植樹した。陽光の植樹は2011年から行っており、今回で計316本が乙訓地域に植えられた。
メンバーのそばに、同品種を開発した故高岡正明さん(享年92、愛媛県東温市)の長男の照海(てるみ)さん(73)と妻令恵(のりえ)さん(69)の姿があった。苗木55本は夫妻が同市から運んできたものだ。2人は植樹作業に加わった後、中小路健吾市長を表敬訪問して帰途に就いた。
■試行錯誤30年開発者遺族遺志継ぐ
今回の植樹で、乙訓地域の陽光は300本を超えた。春には鮮やかなピンク色の花が人々を楽しませてくれるはずだ。一方で、この花に込められた故高岡正明さんの思いを知る人は多くない。「サクラが満開の間は、世界が平和になるんじゃ」と、世界中のどこでも咲く品種を生み出すために心血を注いだ。
正明さんは1909年2月24日、愛媛県温泉郡三内村(現・東温市)に生まれた。持病のため、戦時中は兵役を免除され、地元の青年学校で農業を教えていた。
日中の戦いが激化し、アメリカとの激突も間近となった1940年春、正明さんは、校庭で出征を控えた教え子たちと向き合った。「日本は神の国。勝って帰ってこい。そしてこの桜の下で会おう」。反戦の思いを持ちながら、それを口にできない時代。せめて、生きて帰ってきてほしいとの願いを込めてげきを飛ばした。
だが、教え子の多くは、生きて帰ることはなかった。灼熱のインドシナ半島で戦死した者や、ソ連の捕虜となって極寒のシベリアで亡くなった者もいた。「自分が子どもたちを死に追いやったと自責の念に駆られていた」(照海さん)。世界のどこでも咲くサクラを開発し、戦場で亡くなった教え子とそのサクラの下で再会する-。その思いが陽光開発への原動力になった。
戦後、日本が主権を回復した頃から、正明さんは自宅の裏山でさまざまな種類のサクラを交配させた。日本にサクラの品種は約400あるとされる。膨大な交配の組み合わせの中から、寒冷地から温暖な地域まで、どこでも咲く品種をつくり出すのは、気が遠くなるような作業だったはずだ。それでも正明さんは30年近く試行錯誤を繰り返し、アマギヨシノとカンヒザクラの掛け合わせにたどり着いた。それが陽光だ。
照海さんは「ちょっと赤すぎるといったが、父は『海外の人にはこのくらい派手な方が好まれる』といって、とても気に入ってました」と懐かしむ。ただ、この間は照海さん夫妻にとってもいばらの道だった。陽光の開発にかかった経費の請求書が毎月、照海さんに届いたからだ。時に、100万円を超えることもあった。
さらに苦労は続いた。照海さんは、陽光を販売することでそれまでの出費が回収できると考えていた。ところが、正明さんは国内だけでなく海外にも寄付し、送料まで負担した。マスコミは「現代の花咲かじいさん」と持ち上げたが、照海さんは「金銭感覚がないんですわ」と、苦笑する。
それでも、2001年に正明さんが亡くなった後は、照海さん夫妻が遺志を継ぎ、国内外へ年間3千本の苗木を寄付している。
京おとくに・街おこしネットワークの中山秀亜理事長(74)は「平和の願いが乙訓にも根付くよう、これからも植樹を続けたい」と話す。もうすぐ桜の季節がやってくる。咲き誇る陽光に、平和の尊さをかみしめたい。
【 2016年02月15日 12時00分 】