家康「伊賀越え」の背景は? 日文研・井上章一教授が語る

2018-11-04 15:19:29 | 歴 history

 「本能寺の変」を受けて徳川家康が堺から三河国へ帰るために通った「伊賀越えの道」をテーマにした講演会がこのほど、京都府京田辺市田辺の京田辺市商工会館で開かれた。国際日本文化研究センターの井上章一教授が、当時の時代背景などについて語った。

 府山城広域振興局などの主催。家康は現在の京田辺市、井手町、宇治田原町を通ったとされており、その伝承を観光客誘致に生かすことが期待されている。

 井上教授は、家康が堺にいたのは織田信長が京都と堺の訪問を勧めたためとし、「この広い一帯が平和なのは自分が統治しているからだと見せつけるためだった」と指摘した。家康が明智光秀討伐の軍勢を整えたものの、戦いに至らなかったことについて、「伊賀越えを通じて民衆と関わり、無用な戦を避けたという意見や、天下を取る気はなく言い訳のため組織したという見方もある」と述べた。

 パネル討論で京田辺市、井手町、宇治田原町、城陽市の観光ボランティアガイドらが登壇し、それぞれの地に伝わる家康の伝承などを紹介した。

【 2018年11月01日 11時19分 】


チラリ見える貴族女性、源氏物語のドキドキ体感 京都・宇治

2018-09-21 20:51:27 | 歴 history

 京都府宇治市宇治の市源氏物語ミュージアムが14日にリニューアルオープンするのを前に、内覧会が13日開かれた。物語の世界や平安時代の貴族文化を誰もが楽しく学べるよう、体験型展示を充実し、多言語化を進めた。市は「観光と生涯学習の拠点にしたい」と期待する。

 館内の平安の間に、「垣間見」の疑似体験装置が加わった。平安時代の女性貴族は原則、男性に顔を見せなかったが、源氏物語には光源氏や宇治十帖の薫らが垣根や御簾(みす)越しに女性を垣間見る様子が重要な場面として何度も書かれている。疑似体験装置は明暗の差を利用し、片方からだけ相手をのぞける仕組み。5言語対応のタッチパネル式解説装置は、展示資料の説明に加え、関連書籍や周辺観光の情報も教えてくれる。

 物語の間は、画面に合わせて体を動かすなどゲーム感覚で場面を進める「動く源氏物語」や、全54帖のあらすじを巨大パネルで紹介した「早わかり源氏物語」を新設した。5言語対応の小型タブレット端末を無料で貸し出し、増加する訪日客に対応する。ルーレットを回して源氏絵を合わせる遊びなどを楽しめる無料の情報ゾーンも充実させた。

 同館は1998年に開館、2016年に累計入館者200万人を突破した。改修は2度目で、約9千万円かけた。

 14日から11月18日まで、企画展示室で特別展「宇治の名所と旅する光氏(みつうじ)」を開く。午前9時~午後5時(月曜休館)。問い合わせは同館0774(39)9300。

【 2018年09月14日 09時01分 】


寂聴さん「あの世で自慢したい」源氏物語ミュージアムをべた褒め

2018-09-21 20:49:15 | 歴 history

 京都府宇治市宇治の市源氏物語ミュージアムが14日にリニューアルオープンするのを前に、内覧会が13日開かれた。物語の世界や平安時代の貴族文化を誰もが楽しく学べるよう、体験型展示を充実し、多言語化を進めた。

 ミュージアム開館当初から名誉館長を務める作家の瀬戸内寂聴さんが、記念式典であいさつした。

 寂聴さんは「非常に良くなっていてびっくり。直すことは最初から造るよりもずっと大変で、皆さんがいかに苦心したかが分かる。これで音楽があれば言うことはない」と印象を語った。「96歳ですから、いつ死んでもおかしくない。素晴らしいミュージアムに関われたことをあの世に行ったら自慢したい」。おなじみのブラックユーモアも織り交ぜて、たびたび会場を沸かせた。

 自身も現代語訳を手掛けた源氏物語については「宇治がなければ物語は生きてこないし、京都の町中よりも物語の面影をそのまま残している。その点をもっと宣伝すれば、まだまだ発展の余地がある。これからもミュージアムに力を貸してください」と呼び掛けた。

【 2018年09月14日 09時16分 】


奈良時代の北陸道整備で集落拡大か 京都・芝山遺跡

2018-09-01 11:03:58 | 歴 history

 京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は28日、城陽市富野の芝山遺跡・古墳群で、奈良時代の掘立柱建物10棟の跡が見つかったと発表した。当時の国家が平城京から北陸へと続く北陸道を整備した際に、一帯の集落が大規模化したことを示す可能性があるという。

 芝山遺跡は府道山城総合運動公園・城陽線に面した南北約840メートル、東西約950メートル。建物跡は、府道西側に接する1565平方メートルの範囲で見つかった。

 10棟のうち2棟は、現在の府道に近い北陸道とみられる道路状遺構に沿って建てられていた。「田」の字形に柱の跡が残り、倉庫として使われたとみられる4棟の建物跡もあった。センターの桐井理揮調査員は「建物が比較的密集しており、道の開通に伴い多くの人が住むようになったという説を補強する材料になり得る」と話す。

 2002、03年度の調査で遺跡の北側に、奈良時代に役人が都と地方を行き来する際、一時滞在した「駅家(うまや)」とみられる建物群跡があったことが分かっているが、今回の建物跡との関連は不明。

 ほかにも、古墳時代の円墳2基が確認された。うち1基からは須恵器が木棺の上などに置かれていたことが分かり、当時の葬送儀礼を知る上で重要な手がかりとなるという。

 現地説明会は9月2日午前11時から。

【 2018年08月29日 16時23分 】


平等院に封じられた日本三大妖怪 都への要衝、怪異と関係

2018-09-01 10:54:56 | 歴 history

 妖怪と京都・宇治をテーマにした講演会「妖怪の文化~宇治にまつわる怪異」がこのほど、京都府宇治市宇治の市生涯学習センターで開かれ、京都学園大人文学部の佐々木高弘教授(59)が妖怪の生まれる背景や宇治との結びつきについて語った。

 佐々木教授は「日本三大妖怪」とされる玉藻前(たまものまえ)、大嶽(おおたけ)丸、酒呑童子を紹介し、いずれも古代の関所が関わっていることを指摘。国家にとって関所の先は未知の世界で、妖怪がいると考えられていたと説明した。

 さらに、いずれの妖怪も、宇治の平等院の宝蔵に封じ込められたとの伝承があることを紹介した。背景として、平等院が都に通じる交通の要衝である宇治橋のたもとにあり、侵入を防ぐ機能があったことや、妖怪退治に携わった渡辺綱の祖である源融の別荘が平等院になったことなどに触れ、「(物語が作られた)中世、近世に宇治は重要な場所として認識されてきたと推測される」と語った。

【 2018年08月28日 08時20分 】


73年目の夏「青春の証し」飛行服寄贈へ 京都

2018-08-24 09:51:56 | 歴 history

 戦時中、現在の京都府久御山町にあった京都航空機乗員養成所の生徒らでつくる「京都翼の会」(城陽市)が今月、当時生徒が着た飛行服などの資料を八幡市の飛行神社に寄贈する。

 養成所は、旧逓信省が1942年に開所し、少年らが操縦技術などを学んだ。戦局が厳しくなった44年に陸軍に接収されて特攻隊の訓練基地となり、養成所の生徒たちは散り散りになった。卒業生は陸軍に入隊し、特攻隊員となって命を落とした人もいる。同会によると、全国の養成所の卒業生約700人が戦死したという。

 同会の石本登志夫事務局長(88)=京都市東山区=は「民間航空機のパイロットになるつもりで入所したのに、みんなだまされたと思っただろう。無念だったと思う」と話す。

 石本さん自身も飛行機乗りを目指して国民学校を卒業してすぐの42年に入所。陸軍に接収されるたびに茨城、新潟と養成所を転々とした。湾に近い新潟の養成所では終戦間際、飛行機を狙う米軍の空襲があり、B29があちこちに投下する機雷が逃げる石本さんの5メートル先に落ちたことも。「死ぬかと思った」と振り返る。

 寄贈を検討しているのは、実際に使われた養成所の制服(上着)と制帽、飛行服と飛行帽、飛行用の長靴と手袋など。終戦後、失われる直前に養成所職員が持ち出して保管し、同会に寄贈したものの一部という。

 石本さんは「わずかな期間でも共に過ごした青春の証し」と話す。同会の記念誌や当時の養成所を記録した写真集なども寄贈する予定。

 同会の会員が高齢化し、寄贈を決めた。同神社の資料館で展示してもらう予定という。石本さんは「歴史の語り部になってほしい」と話している。

【 2018年08月19日 19時00分 】


江戸期の道標“復活” 京都・八幡、昔と今つなぐ

2018-08-09 14:37:35 | 歴 history

 京都府の八幡市民らでつくる「八幡の歴史を探究する会」は、同市八幡の寺「青林院」に保管されていた江戸時代の道標をこのほど、寺の参道入り口に設置した。石清水八幡宮への道などを方角とともに指し示しており、往時の風景や人の行き来をしのぶことができる。

 同会は、八幡と近辺の古い道標の調査と保護にも取り組んでおり、管理者の了承を得て初めて道標を再設置した。

 道標は高さ約80センチ。四方に崩し字が刻まれ、「北 京道」「西 八幡宮道」「東 うぢ道」「南 施主 清七」と読める。当初の位置や保管の経緯は不明で、青林院からは西に石清水八幡宮、北に京都市、東に宇治市があることから、寺の前の道沿いに立て、説明板も設けた。

 壊れていたり、放置されたりしたままの道標も多いといい、高田昌史事務局長(73)は「道標について市民に関心を持ってもらい、昔と今をつなぐ歴史遺産として保護につなげたい」としている。

【 2018年08月05日 20時00分 】


進駐軍専用バヤリースの空き瓶、京都で出土 古墳からは国内用も

2018-06-17 06:38:00 | 歴 history

 京都府長岡京市の長岡第六小プール跡地の発掘調査で、進駐軍向けに戦後一時期出荷されていた珍しいバヤリースジュースの瓶が見つかった。現場は昔、ため池があり、近くに研究農場があったという。進駐軍は食料増産を図るため都市周辺の農村部を視察することがあり、関係者は「視察中の兵士が飲み干して池に投げ込んだかも…」と推測。市埋蔵文化財センター(同市奥海印寺)で、地元古墳から出た国内販売用の瓶とセットで展示している。

 進駐軍用の瓶は同センター職員が4月の現地調査で発見。バヤリースのジュース瓶は恵解山(いげのやま)古墳の発掘調査(2009~10年)でも見つかっている。長さ約21センチで形状、ロゴは同じだが、2本を調べると瓶中央部の周囲に陽刻された英字表記が違うことが分かった。

 容量の単位表記は英米のヤード・ポンド法による液量オンスの省略記号「FL.OZ」で、国内向けの「cc」ではなかった。米国で商標登録された専売特許品の表記もあるが、国内向けでは省略されている「US」以下の英字が記され、進駐軍用だと確認できる。

 バヤリースは1938年に米国の科学者フランク・バヤリーが果汁の風味を損なわない果汁飲料の殺菌法を開発。その後にオレンジジュースが発売された。日本には49年にウイルキンソン・タンサン鉱泉が進駐軍向けに供給を始め、国内向けは51年ごろから製造販売が開始されたという。

 瓶は、地元発掘のレアな「お宝」を速報する同センターのコーナー「まい・トピ!」で展示中。終戦直後の社会と食に関する略年報と、瓶の見つかった現場付近を写した昭和30年代の写真なども掲示した。この写真には当時の八条ケ池やタキイ種苗の長岡研究農場が見える。

 原秀樹・調査係長は「研究農場は戦前からあり、京都市内に駐屯した進駐軍の兵士が長岡方面に来てジュースを飲んでいた可能性もある。古墳調査時の瓶を長期保管していたため今回の瓶の確認ができた。終戦直後の状況がうかがえ、興味深い」と話す。展示は7月末まで。

【 2018年06月08日 09時14分 】


綾杉文様の棺、四半世紀ぶりに 京都・山城郷土資料館で展示

2018-05-27 06:39:30 | 歴 history

 京都府宇治市の金比羅山古墳で出土した5世紀前半の円筒棺がこのほど修復され、木津川市山城町の府立山城郷土資料館で四半世紀ぶりに展示されている。スギの葉のように「←」の形が連なる「綾杉(あやすぎ)」の文様が施された全国的にも例が少ないひつぎという。

 円筒棺は直径約50センチ、長さ約2メートル。1964年に出土した。破片をつなぎ合わせて91年に同館で展示後、館内の収蔵庫で保管していたが、自らの重みで崩れたという。

 昨年度に元府立高教諭の男性の遺族から、男性の意志で文化財保護に役立ててほしいと府に寄付があり、寄付を活用して修復した。

 同館によると、綾杉の文様が入ったひつぎは全国で他に2例しか見つかっていない。大型で副葬品もあったことから、地域の有力者を葬るために作られたとみられる。

 円筒棺は館内で常設展示しており、同館は「古墳時代の工人の技をじっくりご覧いただきたい」と話している。入館料が必要。

【 2018年05月21日 08時56分 】


武士集団「西岡衆」漫画で紹介 室町・戦国に京都乙訓で活躍

2018-05-21 09:01:20 | 歴 history

 室町・戦国時代に乙訓をはじめとする地域・西岡(にしのおか)を治めた武士集団「西岡衆」の活躍を紹介する漫画を、同地域の教員らでつくる「京都 乙訓ふるさと歴史研究会」が制作した。戦乱の世で郷土の自治を守り抜いた西岡衆の足跡を、子どもたちにも分かりやすく描いている。

 同研究会は、西岡衆に関する独自の調査結果を資料集や紙芝居にまとめているが、より多くの人に手に取ってもらえるよう漫画版を制作することにした。編集は京都精華大が協力し、作画は漫画家の小島えいゆさんが担当した。

 「マンガ 山城国 西岡衆」と題した冊子はA5判23ページ。村の指導者で土豪として成長した西岡衆が応仁の乱に参戦した後、三好長慶、織田信長、細川藤孝(幽斎)らの有力武将と関係を築き、各地に転戦して活躍していく過程がドラマチックに描写されている。

 一方、本能寺の変で明智光秀に味方するか否かや、その後に武士を捨てて農民となるかどうかなど、彼らが思い悩んだ局面も大きく取り上げた。

  同会の会長で、漫画の作成を企画した中西昌史さん(53)=第2向陽小校長=は「西岡衆の何人かは山崎の戦いで光秀に味方したとされており、NHKの大河 ドラマで取り上げられてもおかしくない」とした上で、「自分の土地やそこに暮らす人たちを守るために、力を合わせて生き抜いた先人がいたことを知ってほし い」と話している。冊子は5千部作成し、学校や図書館などに配布した。

【 2018年05月17日 16時32分 】


大仏鉄道120年祝い、市役所に垂れ幕 京都・木津川

2018-04-29 11:21:10 | 歴 history

 明治期に加茂―奈良駅間を約9年だけ運行した関西鉄道大仏線(通称・大仏鉄道)の開業から今年で120年になるのを記念した垂れ幕(長さ5メートル)を、京都府木津川市の市民グループが市に寄贈した。市役所の駐車場入り口脇に掲げられている。

 寄贈したのは「鹿背山の大仏鉄道遺産に親しむ会」(冨永禎一会長)。かつて市内の関西文化学術研究都市の開発で、大仏鉄道の遺構の「赤橋」「梶ケ谷隧道(ずいどう)」が取り壊される可能性があったため、10年ほど前に住民らが結成して保存をアピールしてきた。

 会の要望が実って遺構は残され、29日にJR加茂駅などで開催される「大仏鉄道フェスタ」でも「遺構めぐりルート」となる。同会は「記念の催しが盛り上がってほしい」と期待する。

 垂れ幕は来年3月末まで掲げる予定。

【 2018年04月28日 15時00分 】


禁門の変「十七烈士」、顕彰運動を紹介 京都・大山崎

2018-03-20 07:35:30 | 歴 history

 明治維新150年に合わせた小企画展「禁門の変と十七烈士の顕彰」が、京都府大山崎町歴史資料館(同町大山崎)で開かれている。幕末の禁門の変(1864年)で被害を受けた大山崎や地元住民による十七烈士の顕彰運動を紹介している。

 十七烈士は尊皇攘夷(じょうい)を掲げた真木和泉守ら17人の志士。禁門の変で敗れ、天王山で自刃した。当初「逆賊」とされたが、明治維新後に評価が見直され、「勤王義士」として顕彰されるようになった。

 会場には、1880年に住民らが大山崎周辺で実施した十七回忌となる招魂祭で遺族を手厚くもてなした様子を伝える日誌など、初公開品を含む計29点を展示。禁門の変で戦火にさらされた京都や大山崎を報じる瓦版、焼損した離宮八幡宮の復旧に関する契約書などが並ぶ。

 18日まで。午前9時半~午後5時。入館料200円、中学生以下は無料。

【 2018年03月14日 09時04分 】


歴史逸話を「日めくり」紹介 京都・長岡京、HPで開始

2018-02-05 10:38:05 | 歴 history
 京都府長岡京市に関わる歴史的エピソードを、発生の日付に合わせて週替わりで紹介する試みを、市教育委員会が1月から、市のホームページ上で始めた。史料の記述に即して題材を選定する一方、軽妙なコラムを添え、硬軟交えて歴史の面白みを伝えようと頭をひねる。

 「長岡京市『歴史日めくり』」と銘打った。乙訓地域にあったとされる「弟国宮(おとくにのみや)」が遷都されて来て今年で1500年の節目となることから、幅広い人に地元の歴史を再発見してもらおうと企画した。

 初回は8日付。室町幕府将軍足利義昭の援軍として本国寺合戦で三好三人衆を破った細川藤孝が、勝龍寺城(現在の同市勝竜寺)に進軍したことを紹介した。公家の山科言継(ときつぐ)の日記「言継卿記」に残る、1569年1月9日(旧暦)の「知人との雑談で『昨夜、細川藤孝が勝龍寺城に入った』と聞いた」との趣旨に依拠した。

 21日の記事は「日本紀略」が出展。長岡京から平安京への遷都のため桓武天皇が仮住まいの「東院」へ転居した、1225年前の旧暦で同日の出来事を取り上げた。

 東院での滞在がわずか2年間だったことから「光陰矢のごとし」に引っかけ「トーイン矢の如し」との題にするなど、各回とも担当する生涯学習課の職員が協議の上、駄じゃれやパロディーを交えてタイトルを決める。

 今後、鎌倉時代の元寇(げんこう)を報告しに市内の天皇陵へ使者が訪れた日(1268年6月22日)や、江戸時代の水争いで市内の集落が和解に至った日(1728年6月28日)など、現代までを射程に週1回のペースで掲載を重ねる予定。

 毎回のコラムを執筆する同課の井内紳碁さん(24)は「歴史に親しむ入り口を一つでもつくり出せたら」と意気込む。

【 2018年02月04日 14時30分 】

太閤堤の最上流、江戸期造営か 京都・宇治、石出し調査

2018-01-29 12:53:54 | 歴 history
 京都府宇治市は23日、豊臣秀吉が16世紀末に築いたとされる国史跡・宇治川太閤堤跡(同市宇治-莵道)の発掘調査結果を発表した。護岸用の「石列」が新たに確認されたほか、史跡内で4基見つかっている川の流れをコントロールする構造物「石出し」のうち、今回調査した上流側の1基が最も川に張り出していたことが分かった。

 石を積む「石出し」は川岸と垂直に舌状に張り出し、水流を川の中心へと誘導して、川岸が削られにくいようにする。史跡内には約90メートル間隔で4基あることが分かっており、今回、最上流の1基の全容を調べた。

 川岸と接続する部分の幅は約8メートル。長さ10メートルまで発掘され、推定で13メートルに及び、下流側の3基(7・5~9メートル)より長い。上流側で、強い川の流れを抑える役割を果たしたとみられる。

 この石出しの上流側6・1メートル、下流側3・2メートルに、護岸の石列があった。史跡内で初の出土例だが、市は使われている石の種類から「太閤堤の築造当初ではなく、江戸時代など後世に造られた可能性が高い」とみている。

 調査地点は、現在の宇治川右岸の堤防より70メートルほど東で、京阪宇治駅の西隣。27日午後1時から現地説明会がある。市歴史まちづくり推進課0774(21)1602。

【 2018年01月24日 09時50分 】

宇治の茶師や茶商に光 京都・平等院で企画展

2018-01-15 12:34:12 | 歴 history
 江戸時代以降に活躍した宇治の茶師や茶商に光を当て、茶の歴史をひもとく新春特別展「宇治茶ブランドの形成」が13日、京都府宇治市宇治の平等院ミュージアム鳳翔館で始まった。茶業発展を下支えした先人の木像や書物計16件、パネルを並べた。

 平等院を守護したと伝わる「平等院候人(こうじん)」の子孫で、宇治茶の歴史やまちの様子を書物にまとめた茶師・三嶺(さんれい)守際(しゅさい)の坐像を初公開した。平等院塔頭・浄土院羅漢堂を建立したと伝わる茶師・星野(ほしの)道斎(どうさい)の坐像も紹介している。

 また、1879(明治12)年の第1回製茶共進会で宇治茶製法が特別賞を受賞したことを記念して境内に建立された記念碑の完成予想図「製茶記念碑有志金募集簿」や、「辻利右衛門翁銅像台座設計青図」も展示している。

 2月後半に展示替えし、延べ25件を並べる。3月29日までで、無休。平等院の拝観料が必要。

【 2018年01月14日 10時57分 】