京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

小椋佳生前葬コンサートを見て雑感

2015-01-14 05:53:05 | 定年後生活

年末NHKで 『小椋佳 生前葬コンサート』が放映されました。
録画しておいたのを見たのは昨晩でした。
古稀を目前にした小椋佳が、昨年9月に NHKホールで4日間で100曲歌う、
生前葬コンサートを開催したのです。




番組では、しおさいの詩、少しは私に愛を下さい、シクラメンのかほり、
愛燦燦、白い一日などを歌っていました。





小椋佳は私が学生時代好きなアーティストのひとりでした。
小椋佳が「しおさいの詩」でデビューしたのは1971年ですが、
ちょうどその年の4月に私は京都の大学に入学しました。
高校時代から進路というより、生き方を模索していた私は、
大学入学後は哲学や文学に道筋を見いだそうと格闘していました。
当時世界を席巻していた、さまざまな西洋哲学に触れたのもその頃です。
文学は受験の反動のように、朝から晩まで日本と西洋文学を読みふけりました。
そんなとき、ラジオで聞いたのが小椋佳です。
今までの歌謡曲やロックなどと違い、なぜか頭から離れませんでした。

しおさいの詩
歌手:小椋佳 作詞:小椋佳 作曲:小椋佳

汐さいの浜の岩かげに立って 汐さいの砂に涙を捨てて
思いきり呼んでみたい 果てしない海へ 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

青春の夢にあこがれもせずに 青春の光を追いかけもせずに
流れていった時よ 果てしない海へ 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

恋でもいい 何でもいい 他の全てを捨てられる 激しいものが欲しかった
汐さいの浜の岩かげに立って 汐さいの砂に涙を捨てて
思いきり叫んでみたい 果てしない海へ 消えた僕の 若い力 呼んでみたい


そして「白い一日」(1973)です。
「白い一日」というタイトル、詩の内容もインパクトがありました。
何をしたいかもわからないまま一日が過ぎていく。
フランス語の 「ennui」という言葉が浮かびます。
アンニュイ、けだるそうな、退屈そうなという意味です。
生き方を模索しながらも、少し疲れかけた当時の心境にマッチしたのかもしれません。





白い一日
歌手:小椋佳 作詞:小椋佳 作曲:井上陽水

真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく

目の前の紙くずは 古くさい手紙だし
自分でもおかしいし 破りすてて寝ころがれば
僕の一日が過ぎてゆく

ある日踏切のむこうに君がいて
通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上がり振りむいた君は
もう大人の顔をしてるだろう

この腕をさしのべて その肩を抱きしめて
ありふれた幸せに 落ち込めればいいのだけど
今日も一日が過ぎてゆく

真っ白な陶磁器を 眺めてはあきもせず
かといってふれもせず そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく


この歌を聞いたとき、当時のさまざまな記憶が甦ってきました。
今となれば遠い過去のことですが、懐かしくもほろ苦い思い出でもあります。

ふくよかだった小椋佳が胃癌手術後は、ずいぶん痩せ細りました。
頭も薄くなり、昔とは別人のようです。
時の流れは老いという現実を無惨にも押し付けます。

小椋佳は生前葬を行う理由について、番組で次のように述べていました。

『前からお葬式もいらないし、戒名もいらないという考え方に僕は染まっているんです。
でも本当に小椋佳が死んだときに、僕の家族が
「そんなこと言ったってお葬式をやらないわけにはいかないですよ」って話になって、
それじゃあお葬式をやっておけば、家族は本当に僕が死んだとき、
お葬式をしないですむから、先にお葬式をやろうと思ったのです』と。

お葬式や戒名については、私も共感するものがあります。
しかし、現実問題としてはやらざるを得ないのではと諦めてもいます。
葬式は自分の事ながら、自分より残された者が好きなようにすればいい、
と思っているのです。
戒名については私も否定的です。
私は真面目ではないですが、どちらかというと仏教を信仰する者です。
しかしお葬式や戒名は、本来の仏教とかけ離れていると指摘した、
司馬遼太郎の考え方に賛同するものです。

私はまだ、お葬式や戒名について、整理がついていないのです。

生前葬でコンサートを行う小椋佳さんは羨ましいと思いました。
つまらない雑感になってしまいました。