「降る雪や 明治は遠くなりにけり」とは中村草田男の句。
昭和生まれの愚生はパロって、
「蝉しぐれ 昭和は遠くなりにけり」
昭和は、夏の酷暑の印象が強い。
終戦記念日が近くなった。
敗戦で、日本国は軍国主義国家から民主主義国家へ看板替えしたが、人間の中身、精神はそうコロリと変えられるものではない。各個人に植え付けられた旧時代の思想・観念と悪習・弊風はその後も長く個々の日本人の中で活き続けた。
敗戦後10年ほど経った頃、ある小学校の3年生クラスでは、若い男性担任教師が、未だ反抗を知らない年齢の生徒に対して日常的に体罰(ビンタが多かった)を行い、校内で知らない者はいなかった。体罰が不法であるという認識は、学校にも社会にも薄かった時代である。
彼の教室での暴力は父兄たちに公知の事実だったが、それが指弾されることはなかった。当時の社会は、未だ教師の無謬性を建前として奉じ、批判を封じる気配が濃厚だった。
彼は参観者のいない教室の中では暴君で、生徒の行動・態度が気に入らないとすぐに手が出た。感受性の鋭い、激し易い性格だったのだろう。生徒たちは持ち上がりで4年生になった。
彼の暴力の被害者はいつも悪戯好きのヤンチャな男子生徒で、勉強か運動に秀でた男子と全ての女子には、決して暴力を振るうことはなかった。生徒によって、暴力を使い分けてしていたのである。体罰を免れていた生徒たちとその保護者たちは、総じて彼を教育熱心な熱血教師と慕い、卒業後も久しく交流が続いていた。
その日常行動の一端から解るように、彼には極端な二面性があった。二面性は彼の精神構造の核心で、問題行動の全ては其処に起因していた。
父兄たちの信頼は厚く、評判は頗る良かった。そのため、いつも殴られている生徒たちは、親にも他の教師にも、担任の暴力を訴えることもできず、またそれを免れるために相談することもできなかった。
彼はその時代の青年の例に漏れず、左翼思想に傾き、当時の学校教職員の労働組合連合組織、日本教職員組合(日教組)の反主流派の一員だった。校長・教頭は彼の暴力を知悉していたが、民主教育と教職員の団結を目指し、教職員の待遇改善と教員の地位向上を掲げる団体をバックにした彼の問題行動を、管理職として指導矯正する力はなかった。アカを毛嫌いする父兄たちも、わが子可愛さから、明らかにアカと判る彼に阿諛追従していたのかもしれない。それが彼の独善性を更に増長させたのだろう。
唯我独尊、自己肯定感の異様に強い彼は、その後2年間の卒業まで、教室を支配した。反権力の塊だった彼は、教室では絶対的権力者だった。5年時の組替えによって、彼のクラスを脱した幸運な生徒が多かったが、卒業までの2年間、3年から通算して4年間を彼に受け持たれた不運な生徒たちもいた。
彼の教室での行動は、戦前の新兵教育さながら、旧陸軍内務班の暴力的古参兵と変わりはなかった。怒ると鬼のような表情で、年端もいかない生徒をビンタする青年教師を、誰が想像できよう。時に異様なまでに相好を崩して殴った生徒に接する担任に、生徒たちは日々怯えながら下校の時をひたすら待った。
彼が教員になるための学生であった頃、師範学校卒業者には短期現役兵という徴兵猶予の制度があり、その代償として、半年間の陸軍内務班での教育訓練が義務づけられていた。教育係の古参兵たちは、短期で入営期間を満了する教師の卵たちを、暴力的な私的制裁で扱(しご)いたという。一般徴募の兵士たちには、教員予定者への特恵に対する反感が潜在していたのだろう。
丸谷才一氏の指摘によれば、日本の教育現場に暴力が持ち込まれたのは、教師たちのこの内務班への入営体験に始まるという。
彼は休日には生徒たちを自宅に招き、共に野外で遊ぶこともよくあった。近隣からは、子供好きの先生と見られていたことだろう。しかしそれは、日頃の教室での暴虐の反動、反作用であったかもしれないのだが・・・
彼には生徒や父兄たちに知られたエピソードがあった。給食費の納付が困難な家庭の生徒の費用を立て替えていたのである。美談ではあるが、それが彼の自己顕示欲に結びついたものである可能性は拭い切れない。他に知られることなく支援していたのなら、美談として表に出ることはなかったはずだ。
昭和の30年ごろまでは、日本が最も民主教育に力を注いでいた時代だった。だがそれと裏腹に教育現場では、彼のように旧時代の悪弊を、組織でなく個人として引き摺っていた教員が存在した。
彼は自分たちの権利や地位を強く主張する団体に属す社会主義思想の持主で、反権力的でありながら、教室内では強権を発揮し、生徒たちに暴力を振るい続けた。それは、最も熱心に民主教育が叫ばれた時代にあっても、彼が生徒の人権・子どもの人権に毫も配慮していなかったことの証左である。つまり彼は、進歩的で教育熱心に見えながら、民主主義とは反りの合わない、弱者を支配せずにおかない旧時代の人間であったのだった。