友誼の濃淡は友の数に反比例する。
それを交わす相手の数が少ないほど濃く深く、逆に多いほど薄く浅くなるのは物の道理である。
個人同士が生活時間を共有できる機会は、相手の人数が増えるほど減少する。どれだけ近く密であろうとしても、私たちがその為に活用できる時間には限りがある。
私たちは子どもの頃から、親にも学校の先生にも、友だちを沢山つくることは良い事だと奨励されて成長した。人を好き嫌いで差別せず誰とでも仲良くしなさいと言われ続けた。
差別と区別の違いのわからない子どもたちは、それを真に受け、教条として受け入れた。集団主義は差異を認めないところから始まるのだが・・・
私たちは、多くの友人と相まみえ、相手の長所を見習い切磋琢磨することで、人間的成長が遂げられると教えられ、そうあらねばならぬと堅く信じ込んで成長した。果たしてそうだろうか?そう思い込んでいただけなのではないか?切磋琢磨しても石は石、玉にはならない。
友誼というものは異性との恋に似て、追い求めて得られるものではない。双方の偶発的な魂の触れ合いが、自然に友情の絆を深め確かなものにする。人に惹かれての交友が大切である。自己愛の本能が律する世の中には、自己を護る為の交友が満ち溢れている。それが友誼を腐らせる大本である。
友達は多いほど好いという考え方には、何処かで友達は財産という発想に繋がるものがありそうだ。友誼の本質を理解していない功利的な考えが言わせる言葉だろう。「誰の友達でもあろうとする者は、誰の友達でもない」というアフォリズムもある。
慥かに人生で優れた友を得ることは大切だ。しかしそれは、得ようとして得られるものではない。努力して獲得するものでもない。また、何の基準をもって友の優劣を判定するのかが重要な問題だ。友を優劣で分別した途端に、彼は人の友たるに相応しくない人間に成り下がるほかはないのだが・・・
「類は友を呼ぶ」という言葉がある。当人が人間的に優れているのなら、優れた仲間が集るだろう。即ち、交友以前に出来上がっているものを互いに感じ取って類は集まる。
玉石混交の世の中で、意図的に玉ばかりと交わろうなどという魂胆は、さもしい以外の何物でもない。
世の中に玉は極めて少なく、石は圧倒的に多い。アトランダムな人間関係の構築過程の中で、結果として玉と触れ合うこともあるだろうが、確率は極めて低いはず。自分も石の一つであることに気づかず、自らを玉と自負している人間だけが、憚ることなく玉との交際を求めるのは至極滑稽であるように思う。石は石同士で磨き合うのが自然であるし効果も大きい。
未だに身分制社会の側面をもつ日本の社会を体験して、人脈がいかに大切であるかを知った親たちは、我が子の人脈に無関心ではいられない。人脈の緒(いとぐち)に学校を据える親は多い。
人生で良い友だちと出会うことは自然、偶然、成り行きに任せるべきであろう。縁の不思議と幸運に感謝すべきである。
一緒に居ると楽しい人、会話が弾む人、偶に会いたくなる人こそ、友と呼ぶべき人、友誼を結びたい大切な人なのではないだろうか。
親たちは、自分の子どもが拙いことをすると「悪い友だちが・・」と、人のせいにしたがる。友だちによって我が子が悪くなったと言外に匂わせる親がほとんどである。親には思い込みがありがちで、我が子は良い子、他の子は得体が知れないと思う悪い癖がある。我が子に相応しい子と相応しくない子が居ると考えているようだ。このような親の癖は、その子が成人して結婚相手を見つけた時にも貌を覗かせる。兎に角、親というものはこと子どものことになると料簡が狭くなりがちなところがある。
人間性というものは善悪一体で、合わせガラスみたいなものであることを忘れている。
もし人の人間的要素を数値でデータ化することができれば、正規分布を示すに違いない。
優れている人が数%未満、普通の人がほとんどで、劣る人も優れている人と同じパーセンテージだろう。自分が優れても劣ってもいない大多数のひとりと知ることが、良識というものである。
人は14歳から20歳ぐらいまでが、生涯で最も友人が増える時期でないかと思う。学校生活をしているその時代の交友関係には、功利心が入り込まない故に、友を得るチャンスに満ちている。
これが社会に出ると、必要に迫られて、今度は友だちの功利的利用が相互で始まるから、真の友だちはでき難い。
功利心は人間の自己保存本能に由来するもので是非の問題ではない。上昇志向の旺んな時は、そういうものだろう。友であることを互いに利用し合って、人間関係を発展させることが、自己の保存欲求を満たすのである。
社会生活は、ある面で個々が孤独であるから、友誼をより一層深め、濃く厚くする必要に迫られる。以後、人脈づくりに友人関係は大いに活用される。その必要性は、何らかの仕事に現役で就いている限り続く。高まりこそすれ低まることはない。友だちからまたその友だちへ、利用を期待できる交友は際限なく続く。
そのようにして、人は友だちを最大限まで増やそうとする。また当人の栄達が友を増やす効果も大きい。
しかし冷静に観察すれば、それらは、友と呼ぶに相応しい存在であるかどうか?・・・自分自身に訊くほかないだろう。