今から3年前の平成16年5月、それまで20年間にわたり山歩きを共にしていた山友が、近江・中山道の「番場宿」探訪に誘ってくれた。
内外の映画に造詣の深い彼は、映画評論家・教育評論家の「佐藤忠男」著「長谷川伸論ー義理人情とは何か」を読んで、名作「瞼の母 番場の忠太郎」の主人公「番場の忠太郎」の出生地が「番場宿」と知り、探訪を思いついたのだった。不運にも彼が難病に罹り、山登りを諦めて間もない頃のことである。
JR東海道線、醒ヶ井駅で下車し、「醒井宿」から西隣の「番場宿」へ、車が疾走する主要道を避け、旧道や脇街道を選んで歩いた。緩やかな登り勾配の野道は、行き交う人も車も無い。
1時間ほどで「番場宿」に入った。問屋場跡や本陣跡があるが、なんといっても人目を引くのは、編み笠・道中合羽姿の「番場の忠太郎」。
股旅物といわれる演劇の分野を切り拓いた劇作家の長谷川伸は、忠太郎のほかに「沓掛時次郎」「関の弥太っぺ」など、流浪の渡世人を主人公とする作品を数多く生んだ。いずれも映画化され、昭和世代以前の人々にはよく知られている。私も東映で映画化されたものを観ている。
「番場の忠太郎」は劇中の人物だが、彼を慕う人々は多く、銅像を建てるまでに人気を博したのが面白い。日本人のメンタリティを捉えた、長谷川伸という偉大な劇作家の象徴である。
ここで、話題は「相楽総三」に跳ぶ。友人は、幕末に薩摩の西郷隆盛に利用され、江戸府内で御用盗のテロ破壊工作を行った草莽の尊皇志士「相楽総三」に深い同情を寄せていた。相楽とその同志からなる「赤報隊」は、【戊辰戦争】で官軍から先遣隊としての活動を一旦認められながら、後に偽官軍の汚名を着せられ、斬首の刑に処せられている。彼は数年前に相楽の処刑地下諏訪宿に立ち寄ってもいる。彼の希望で、その赤報隊が結成間もなく滞在したという番場宿内の「蓮華寺」に行ってみた。赤報隊に関するものは、見受けられなかった。
この寺は、幕末から時代を遡ること686年前に、大事件に遭遇した。 足利尊氏に京を逐われた鎌倉幕府の六波羅探題「北条仲時」以下432人は、鎌倉へ逃避の途上この地にさしかかった。一行は尊氏と昵懇の間柄だった近江守護「佐々木六角道誉」の軍勢に行く手を阻まれ、この寺の境内で全員が自刃した。時の住持が死者を供養したのだが、薄暗い林下に並ぶ432基の五輪塔は、鬼気迫るものがあった。
番場宿を出て「磨針(すりはり)峠」に向かう。この名の由来は、針を研磨する生業がこの峠の集落にあったことに由るらしい。往時は琵琶湖の景観が評判の峠だったようだが、今は植林で眺望は得られない。
峠からは琵琶湖に向かって急な坂を降る。平地に出ると其処は「鳥居本宿(とりいもとじゅく)」。 「醒井宿」「番場宿」「鳥居本宿」と、旧中山道の3宿が10kmの間に並ぶ。長い上り坂と急な下り坂に、山慣れた我々の足もかなり疲れた。昔の人は健脚で、この4倍40kmが1日行程だったというのに・・・
鎌倉幕府軍も赤報隊や錦の御旗の官軍も、いや弥次喜多のモデルたちも、1日に10里40kmを歩いていたことに思い至る。何かの本に、travelの原義には「苦しみ」の意があるとあったが、昔の旅は、苦痛が付き纏ったことだろう。してみると、今日の至れり尽くせりのツアー旅行は、人類一般の歴史に刻まれた無数の旅とはかけ離れたもので、旅の範疇には入らない性質のものと言えるかも知れない。
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