参院選挙が近い。
政権党と野党というが、野党にも限りなく与党寄りの党があって、野党の乱立は選挙民を惑わせる。民主政治なら、二大政党に収斂するはずのもの、そうならないのは、私たち選挙民の民度が問われる。
対立で選挙民を煽るのは選挙運動の常だが、日本の選挙は、何か根本的に、政治的対立軸が歪められているような気がしてならない。
それは私たちの保守と革新という二項対立を示す対語の一方、革新という言葉に対する違和感(嫌悪感と言ってもよいかもしれない)から生じている歪みであり、その為、リベラルな候補者の真摯な政見も、選挙民にストレートに届かない。常に選挙への無関心と投票率低下の遠因になっているかもしれない。語感というものは莫迦にならない。
保守と革新と謂う、明治の官製造語には、批判や対立を好まない民族の深層心理に訴えて、政権党の安定感を強調しつつ野党の反政府的体質(お上を批判)のイメージを際立たせる隠れた意図が感じられる。時のエスタブリッシュメントは、リベラルを嫌悪し、欧化にともない寄せ来るリベラルの波への防波堤の機能を、訳語に託したのではないか?
天皇親政による立憲政治により近代化を進める明治政府は、1871年から73年にかけて、欧米へ〈岩倉欧米使節団〉を派遣した。使節団の全権、岩倉具視が最も危険視した西欧近代思想はliberalであったに違いない。和製漢語の「革新」は、私たち民族の属性に馴染まない字面をしている。言葉の概念の印象を貶める作為が看て取れる。
含むところあってつくられた和製漢語を遣って、2つの政治的立場の由来と将来について考えをまとめようとすると、保守・革新双方の側に、客観的に受け止めてもらえなくなる懸念が付きまとう。本家本元のconservativeとliberalの本来の意味にたち返り、官製訳語の印象と先入感を排除しながら、この2つの対立する政治概念(生活概念)について考えてみたい。
私たちが現実に捉えている保守・革新という日本語(和製漢語)の概念と感覚の影響をリセットする為に、この2つの用語を使わないで小論を進めようと思う。以下、conservativeをC、liberalをLと記号で呼ぶことにする。
まず初めに、人間の本性はLに生まれついていないことを確認しておきたい。人は生まれたままでは、利己的な自己保存欲求の塊である。人はイエスキリストのような実在不明の人は別として、Cの稟性をもって生まれてくる。そのまま育てば、Cとして成長するのがごく自然である。それは人類の歴史を閲すれば明らかであるし、現在も、世界の民主的な国々の何処を抽出してみても、国民(選挙民)の大多数はCであり、Lは数において劣る。Lが大半を占めるのは政治的理想郷だろうが、人の本性に逆らうからそのような国は実在するはずもない。
私たちは、ほとんどがCに生まれついている。動物としての生存本能によって、自己保存欲求が思考と行動を支配しているからである。その基本スタンスは利己である。成長するに従って知性と理性が芽生え、段階的に精神が発達する。発達を助けるのは外からの教育と内からの情操である。
成長するに従い、教育を受け教養を蓄え、情操を涵養して、各人程度の差はあれLに傾斜する。利己だけでなく利他を考えることができるのは、教養のしからしむるところで、人が成長発展するとき則ち社会性を身につける年代は、CからLに向かうのが規定の路線である。教養がCをLに変えるのである。だが教養は本能ではないからエネルギーが弱く、活動力を強化しない。
早とちりをしないでいただきたい。Cは教養がないと言っているのではない。高い教育を受け豊かな教養を備えていても、Lに向かわない人たちの数は多いのである。常に多数派である。本能的自己保存欲求(自己愛)を統御しきれず、しかも情操を闕いて生活するうちに、利己主義・集団主義・事大主義・権力主義・伝統主義などに支配され、認識が固定化した人々は、生得のCから解脱できない。その意味でCは世俗的であり社会と調和している。
Lは自然に身につくものではない。教育と情操によって、個々人が弛まず求めてもたらされる生き方である。自他を弁別した上で、自分に対すると同様他者を尊重し、他人の幸福に配慮する性質がLである。認識が固定化されていない寛容な態度をそう呼ぶのである。
知性・理性と情操の働きによって、人はLに向かうものである。つまり人は自然状態ではCのままであるが、教育を受け、その教育が身について覚醒した結果、CからLへの転向が始まる。文化的・経済的に卓れた国から順に選挙民のL/C比率が高くなるのは、この事情による。国民の教育期間が長いことは、Lの比率を増やす大きな素因である。欧米先進国も長いCの時代を経て今日に至っている。
本来学問は、多様を尊重する性質をもち、必然的に人をLに向かわせるものである。学問をしてもなお人をCに定着させているものは、その人が学問以外のものに価値を見出しているからで、その学問が誤っていた訳ではない。いつの世でも、世過ぎ身過ぎの為に学問をし続けるなら、人は生得の資質Cから脱却することはないだろう。最高学府に学んでもなおLに向かわない人たちが多数居るのは、この理由による。
学校・学歴・学問などと無縁でも、弛まず日常的に学ぶ人たちがLに向かう。
Cで生きるには闘争・競争を避けられないから、Cの本質は力への依存である。したがって力の源泉である権威や富・員数を恃む。利害を共有することで仲間を増やし、紐帯を深めることに吝かでない。したがって、一旦Cに染まった人々が其処から抜け出すのは極めて難しい。転向は殆ど発生しない。Lは本質的に寛容であるから、囲い込みは緩く、転向するに何の障害もない。LからCに転向する者は絶えない。特に票に頼る政治家は、革新的な支持票がない場合に転び易くなる。
損得勘定は、誰にも理解が早い。人を御するには、利益で誘導するのが一番である。「清貧のC」というものは絶対に存在しない。清貧はLの中から、偶に生まれるものである。
私たちは、エゴイズム・利己主義に親和性が高く生まれついているから、人を御すには利益誘導が一番である。Cは人間の本性であるから、利益の説得力は大きな力をもつ。
政治に派閥があり、選挙に買収があり、政治家に醜聞が絶えないのは、彼らを国会に送る国民(選挙民)のL/C比にかかっている。L/C比が民度の指標である。Lは必然的に道義的であり批判的である。Lの増加は歓迎すべきものである。チェック無くして善政は行われない。
幸いにも経済発展の恩恵に浴したわが国や中国・韓国では、国民の教育期間が長期化している。L/C比は増加傾向にあるから、現状に問題はあっても、政治制度は徐々に良い方に改善されるのではないか?
この東北アジア三国が、L/C比で欧米先進国に追いつく日は、果たして来るだろうか?
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