道々の枝折

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大谷崩れ

2019年09月24日 | 自然観察
県西部の〈青崩れ〉について記事を書いたので、県中部の安倍川上流〈大谷崩れ〉にも触れないと片手落ちになる。

静岡県には大規模な崩れ、つまり崩壊地が3つある。
トップは富士山の〈大沢崩れ〉。
これは新幹線の車窓からも見えるので、広く世に知られている。火山噴出物が堆積した斜面は崩れやすく、富士山のような美しい円錐火山ができたのは、あの崩れる作用が大きい要因となっている。

残る2つのうちの1つは既に投稿した〈青崩れ〉で、もう1つが本題の〈大谷崩れ〉。どちらも、列島を縦横に切る大断層の活動によって出現した崩壊地である。前者は〈中央構造線〉、後者は〈静岡・糸魚川構造線〉と関係している。

プレートの強い圧力を受けて断層が動くと、地層の岩体が破断し細かく破砕される。重力が働いている山は崩落する。その山体崩壊があった痕が〈大谷崩れ〉だと聞いている。

安倍川は流程が短く河川勾配が大きい。極言すれば滝に近い。〈大谷崩れ〉は、その安倍川の源流部にあたる。静岡からは車で1時間、梅ヶ島温泉に近く、春は新緑、秋は紅葉、山旅の好適地である。
昔は駿府からの道が無く、遡行は困難だった。安倍奥は峠越えで来た採金の甲州人たちによって開かれた。

当県は西に〈中央構造線〉が走り、東はフォッサマグナの西縁、〈糸魚川・静岡構造線〉が通っている、日本列島を縦断する大断層と、横断する大断層が県内の地層を断ち切り、岩石を破断している。大きな断層には、中小の断層が枝沢のように支脈で繋がっている。そこへ、伊豆半島が衝突しているから、当県は断層線が網の目のように入り組んでいるに違いない。

地震の怖い人は当県に移住しない方が良いと思う。東海地震・南海トラフ地震想定地域などと云われて半世紀、枕を高くして眠ったことがない(とは言葉の綾)。静岡とは、実に皮肉な県名だ。

1707年の〈宝永の大地震〉(マグニチュード8.4とか)で、甲駿国境の〈行田山〉(現大谷嶺2000m)の駿河側南半分が山体崩壊した。

標高差にしてほぼ800mの山の岩石が崩れ落ちた。崩壊土石の量は膨大で、1億2000万㎥(東京ドーム97杯分)の土石流が安倍川に流れ込んだ。土石は川を堰き止め、2年後の幕府への報告では、下流の梅ケ島地内に幅1km、長さ4kmの堰き止め池(ダム)が出現したという。現在池は無く、その時の残存地形として滝〈赤水の滝〉が遺り、紅葉の名所となっている。

下から見上げると、〈大谷崩れ〉は稜線に向かって開いた扇を凹型にした形をしている。
扇の要にあたる登り口が落石の止まる安息点で、そこまでは樹林に覆われている。
作家の幸田文(幸田露伴長女)は縁あって現地を訪れ、この地点から崩壊を望見し、後に「崩れ」を著した。観望地点に記念の石碑が建てられている。
その先は岩石累々の崩壊地であるが、300年の歳月が植生を復活させつつある。

遷移の途上にある岩礫地は、多様な植物の進出を招き、生育領域の争奪戦が生々しく繰り広げられているに違いない。私は南アルプスでよく見た高山植物タカネビランジを、此処で見つけたことがある。エンレイソウ、サンカヨウ、ツバメオモトなども生育していた。風と鳥獣が種を運ぶのだろう。

岩塊と転石だらけの裸地の斜面を、〈新窪乗越し1850m〉という名の鞍部(峠)に向けてジグザグに登る道がつけられている。この県境の峠を越えて山梨県早川町へ下る道は、上りと違って深い針葉樹林の中を行く。

私が歩いた10年ほど前には、峠に近い稜線北側(山梨側)に見事なイワカガミの群生地があって、斜面一面数10mにわたって咲いていた。

峠から崩壊地の縁を東にひと登りすれば、崩落を辛うじて免れた〈行田山〉(大谷嶺)の山頂(2000m)に着く。
山頂南側の直下はオーバーハング気味の絶壁で、遥か下に岩塊で埋め尽くされた荒涼とした光景が広がる。その先に緑濃い安倍奥の山並みが続く。








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