道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

であい橋

2018年08月07日 | 随想
早朝の散歩にも慣れてきた。佐鳴湖までは苦にならない。
新川河口に架かる橋上から、川中を
泳ぐ小魚や鯉を見ていたら、通りがかった同年輩の男性に、何を見ているのかと声をかけられた。見た顔だと思ったがすぐに誰だったか思い出せない。相手もそうだったようで、去り際に確かめられて、10年以上会っていなかった知人と分かり、互いに奇遇を欣んだ。「であい橋」の名に相応しい邂逅だった。
その人は、8年前に大病の手術をして、その後毎日のように佐鳴湖周りを歩いているらしい。昨年は345日周回したと云う。しっかりした足取りで遠ざかる姿は、健康を取り戻した欣びに溢れていた。

こちらは「であい橋」から帰路を辿る。「しののめ橋」まで戻って来たら、自分よりかなり年配の男性に、いつも歩いているのかと訊かれた。
それが始まりで、自宅まで歩きなが
ら、会話を交わした。先に私の年齢を訊いてきたので、答礼のつもりでお齢は?と訊ねて見た。当ててみるよう云うので、90歳近い80歳台では、と答えた。
この人は、終戦時17歳のとき特攻隊
員だったと応えた。今年92歳の前の戦争を知る人、亡くなった私の母と同年齢で、しかも終戦で危うく死を免れた幸運な元特攻隊員に会えたのは、終戦記念日を前にして、天の配剤と言うべきか?

出撃することなく終戦を迎えたその人は、戦後間もない頃の、激変した社会に適応するのが困難だったことを、訥々と話し始めた。ちょうどお互いの帰路の分岐点に差し掛かったので、惜しかったが会話は終わった。

いつかその人の話を改めてじっくり聴きたいと思う。歴史の真実は、その時代を生きた人々の、生の言葉を聴くに如くはない。時を経れば、事実はその時々の権力の意向を受けて、歪み飾られ抹消される。 
かつて30代の頃、日中戦争の時に上
海に駐留していた陸軍の元将校から、当時の支那での軍隊の話を聴いたことがあった。戦地で彼が撮し、検閲の目から隠れて自宅に送った写真を大量に保有していた。迫真性のある写真と回想の談話は、紛れも無い史料である。一個人の体験であっても、当時の時代状況の断片は、確実に伝わってきた。教科書に決して載らない歴史の真実は、通史とか正史とかに漏れ隠れてしまっても、何処かに糸口を残すものと知った。

もっと過去に遡る中学生の頃、実家の改築に出入りしていた人の好い大工さんは、陸軍の元騎兵隊員で、好奇心の塊の私に、よく戦地での話を聞かせてくれた。

日本の騎兵隊は、満州の馬賊・匪賊の討伐が主任務であったのか、下馬しての射撃戦が多かったようだ。明治の陸軍は、司馬遼太郎の想像に反して、コサック騎兵と遭遇しても決して戦わないよう指示されていた。大正・昭和の騎兵隊員も、コサックの騎影を見ると、一目散に逃げたと語っていた。明治から敗戦まで、日本軍はコサック騎兵と一切交戦していない。実力の差を知悉していたのかもしれない。

期待した騎兵同士の華々しい戦闘の話は、ついぞ聴くことはなかった。馬の世話の苦労話の方が多かった。何よりもその人が騎兵隊員であったことを強く印象づけたのは、馬も顔負けの長い顔だった。

毎朝散歩に出ていれば、いろいろな人との出会いがあるだろう。自然観察に勝るとも劣らない愉しみである。

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