連日の異常な高温を適時・的確に予測できなかったのに、後付けの早期警戒情報などを発しても意味がない。警報と警戒情報とでは、きっと意味が違うのだろう。気象庁だけに通ずる、妙な用語の遣い分けは、徒に情報の受け手の私たち国民を惑わせる。
このところ気象庁はむやみに警報を流す。注意を呼びかけるようになった。警報を発しておいた、注意した、だけでよいのだろうか。不思議なことに、今も福島第一原発から放出されている放射性物質の注意報や、PM2.5濃度の警報はあまり聞いたことがない。
私たち国民は、気象庁に「情報」や「警報」を期待しているだろうか?否である。情報では早過ぎ、警報では遅過ぎるのだ。気象の情報とは蓋然性の説明に過ぎず、気象の警報とは切迫した予報の言い換えだ。私たちが切実に欲しいのは、対応準備できる程度に時間的な余裕のある「予報」なのだ。この20年、気象庁は観測システムが充実するにしたがって予報に消極的になっている。
気象庁の予報官はいったい研究者か官僚かどちらが本当の顔だろう?両方の顔をもつと答えるかもしれないが、それでは困る。背反する面のある職能だからどちらも中途半端になりがちだ。記者会見で、人ごとのような解説に終始するのはそのせいだろう。海上保安庁や消防庁の職員ような緊張感、責任感が感じられない。
気象庁が気象予報士制度を定めたとき、この役所はそれまで専管していた気象予報の分野から巧妙に離脱する舵を切ったと理解した。本来官僚は所管する業務を手放さないものだが、こればかりは違った。自分達の幸福には役立たない仕事と見極めをつけたのだろう。
予報には当たり外れがつきまとう。当たって当たり前。誰も褒めない。外れれば国民やマスコミから叩かれる。予報士制度が出来るまでは、予報が外れる度にメディアに叩かれていた。予報という、地味で責任が重く、それでいて報われることの少ない分野から逃れたい、責任を追及されたくない、それが本音だったのだろう。気象予報士制度は、その本音から生まれたものと言えるかもしれない。報われないことに頑張っているから、気象予報官は尊敬されていたのだが・・・・。
ともかく天候の観測(気象庁)と予報(予報士=マスコミ)との分離は成功し、今のところうまくいっている。女性予報士の予報が外れたところで、いちいち目くじらをたてるテレビ視聴者はもう居ない。気象庁の国民に直接触れる仕事は、もっぱら「注意を呼びかける」だけになっている。昭和20年台から30年代の、迫力ある気象予報が夢のようだ。
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