初めて〈瀬田の唐橋〉を徒歩で渡り、橋の架る瀬田川の風光を愉しんだ。
琵琶湖との間にはその先二本の橋が
架かり、手前500m先が国道1号線の〈瀬田川大橋〉、さらに200m先には東海道線の鉄橋がある。琵琶湖はその橋の北300m辺りから先ということになる。
架かり、手前500m先が国道1号線の〈瀬田川大橋〉、さらに200m先には東海道線の鉄橋がある。琵琶湖はその橋の北300m辺りから先ということになる。
この橋の名を知ったのは、高校の頃に読んだ井上靖の〈風林火山〉だったと記憶している。
“信玄は今際の際に、宿将山県昌景を枕辺に呼び寄せ、「その方明日は瀬田に旗を立てよ!」と命じた”
この場面は甲陽軍鑑に拠るものらしいが、上洛を望みながら病に仆れた信玄の心情をよく伝えている。
その当時の橋は、現在の橋の位置より80mほど下流にあったらしい。さらに昔の〈壬申の乱〉の決戦場となった時の橋の位置も、そのあたりにあったようだ。上代から中世まで、橋の位置は変わらなかったということになる。
瀬田は京の東の入口で、瀬田川を越せば洛中に入ったも同じである。宇治と並んで古くから、京師防衛の軍事的要衝だった。
元亀3年12月、武田信玄は浜松の三方ヶ原で徳川家康に大勝したが、持病の結核が悪化したため、台地の北麓刑部で休養し年を越した。
翌元亀4年1月、小康を得た信玄は軍を西進させ三河に侵入、豊川の段丘上に在る〈野田城〉を包囲攻撃し、城は2月に落ちた。
信玄は野田城攻略中に重体に陥り、軍を返して甲州へ帰還の途に就く。途中、奥三河または南信濃の何処かで、死去したと伝えられている。
没年53歳。譜代の家臣きっての猛将山縣昌景に後事を託した信玄の胸中は、想像するに余りある。
運命の女神は信長に微笑んだ。しかし、その信長もわずか9年後には、本能寺で同じ女神に見捨てられた。享年47歳。稀代の英雄も、天運には逆らえなかった。
瀬田川をわたる五月の風は、人の世の野望や執着を吹き払うかのように、爽やかだった。
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