道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

重要伝統的建造物群

2005年11月17日 | 人文考察

10110011 

福島県会津若松市に近い、標高600m余りの小盆地にある「大内宿」を訪れた。会津若松と日光今市を結ぶ会津西街道(下野街道)の宿場として戸時代の初期に創設され、元禄の頃最も栄えたという。

会津西街道は当時江戸と会津を最短距離で結び、藩主の参勤交代の経路でもある主要街道だった。しかし、険阻な山越えの続く難路が多く、後に白河を経由する会津街道が整備されると脇街道となり、それ以後大内宿に昔日の賑わいは戻らなかった。
更に、明治17年に川沿いの新道が整備されると、宿場はまったく廃れ人々から忘れ去られてしまった。それがかえって建物群を旧のまま遺すことに幸いした。今では、国選定の「重要伝統建造物群」保存地区として、年間100万人もの観光客が訪れる観光名所となっている。

寄棟の茅葺屋根が整然と妻を揃え、街道を挟んで対面して建ち並ぶ様は、他では見られないものだろう。整列美という言葉があるのなら、まさにそれに該るかもしれない。
300年前から維持されてきた建物群の美しさに感嘆しながらも、ふと疑問が湧いた。(戦後の日本は、300年後の子孫に感動を与えるような建造物群を造っているのだろうか?)


江戸時代の封建制下にあっては、庶民の建築物に対する規制は、現在から想像できないほど厳しかったという。建物の規模や意匠を意のままに決めることが出来、その建物個有の美を誇示できるのは、権力者にのみ許される行為だったようだ。それ以外の者は、それぞれの封建的身分と建築物の目的や機能に応じて、幕府や藩で定める意匠と仕様で建てる外は無かった。規制は建築材料、構造、間取りにまで及び、その規制の結果がここ大内宿を始め、全国に多数ある「重要伝統建造物群」の景観の美しさを生みだしている。

建物など人工の集合物の景観を美しく保つには、規制による秩序と統一が不可欠であると思う。建築の意匠が設計者や建築主の任意で放縦に行われると、個別の建築物としては美観や芸術的価値に勝れていても、建造物群全体としては見るに耐えない景観を生むことになる。
戦後のこの国の建築行政は、ゾーニングと防火、耐震(?)など住宅の品質と安全性に対する規制は極めて厳格に実施されてきたが、反面、景観保全に対する建築規制は緩かったように思う。

戦災復興直後の都市部の市街地景観の酷さは、当時を知る者なら誰もが認めるところだろう。質よりも量の充足を優先せざるを得なかったと言う弁解もあるが、同じ敗戦国のドイツの、特に旧西ドイツでの復興の状況と較べると、素直に頷けないものがある。復興再建するにも、民族、国情によって仕方の違いが生ずるのは致し方ないが・・・・。洵に残念ながら、彼我の差は、建造物群の景観美に対する意識、感覚の違いに因るものと思わざるを得ない。

現在でも、建築基準法さえ満たしていれば、いかに周辺の既存建造物群との景観上の調和を乱そうとも、あまり問題視されていないようである。
我々は、環境保全に較べると景観保全への意識が低く、切迫感があまり無いように思う。日照権への鋭敏な反応とは大きな違いだ。景観に問題が及ぶのは、歴史的景観保全地区や自然公園地区などに限られている。

全国の市街地において施工を終えたり、現在進捗している都市改造や再開発なども、建造物群として調和のとれた美しさを念頭に計画されたものはどのぐらいあるのだろう。たかだか3・40年でそれらの建造物が所期の用途や機能を失い、他の用途への転用が効かず、ただ解体撤去して新たな建物を建築するしかないとしたら、それは後世にツケを回すものだ。償却と言う概念は、このようなスクラップアンドビルドを助長する面があるように思う。
 
一方で、全国60余りの国選定「重要伝統的建造物群」の何れかを巡ってその都度昔の景観に感嘆し保存の周到を望んでいる私たちが、他方で自身の住む街や身の周りに「未来の重要伝統的建造物群」が造られているかどうかに無頓着であってはいけないと思う。
300年後の人々が感動する建造物群が、この国内で新たに造られているのかどうか、改めて検証してみる必要がありそうだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チイトイベツ | トップ | サルナシ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿