北海道函館市に、今は一支所としてその名を留める戸井という地区がある。昨年12月1日、隣接町村と共に同市と合併したが、それまでは〈渡島支庁亀田郡戸井町〉という、域内に11もの町を擁する、歴とした地方公共団体だった。
函館の人は、西の松前半島の海岸を上海岸、東の亀田半島のそれを下海岸と呼ぶ。上海岸は旧幕時代の松前藩をはじめ、名所旧跡や風光地が多く、道南観光の定番コースに組み込まれているが、下海岸は歴史に登場する名所や景勝地も少なく、どちらかというと地味な印象を免れない。
浦々を分断する岬の尾根が陸路の交通の障壁となって、下海岸は陸の孤島状態であった時代が長かった。トンネルで道が抜けるまでは、函館へは海路を往く方が陸路を行くよりはるかに速かった。戸井はこの下海岸に沿った漁業の町である。
函館でレンタカーを借り、空港への分岐点を通過してしばらく、段丘上の国道から岐かれ海岸に沿う旧道に入る。人影も行き交う車も稀な旧道を、津軽海峡を右に見てひた走る。
防波堤が途切れるとそこは漁港で、係留された漁船や陸置きの小舟が防波堤の切れ目越しに見えた。埠頭に干された漁具の周りにカモメが群れ、喧しく騒いでいる。
車から降りて護岸壁から海峡の彼方を見ると、正面に下北半島がうっすらと青く見えていた。港のすぐ脇から左手東の方向に、砂浜が美しい弧を描いて遠い岬に連なっている。その先端に戸井のランドマーク「武井(ムイ)の島」が浮かんでいる。
・・・聡明で美しく健康な彼女は、この景色を朝な夕なに眺めて成長したに違いない・・・あの伊勢湾台風さえ襲来しなければ、彼女の幸せは約束されていたはずだった・・・
数日前に去った台風の余波で、浜にも磯にも白い波がうち寄せていた。
浦の家々は段丘崖を背に、海に南面して一列に建ち並び、道路を隔てた海側に玉石敷きのコンブの干し場、乾場(カンバ)を備えている。それぞれの家の前には、集荷を待つコンブの段ボール函が高く積み上げられていた。
戸井の地名は、アイヌ語のチイトイベツ(chi-e-toy-pet)から転訛したと言われている。
チイトイベツとは「食べる土のあるところ」の意で、この「食べる土」とは珪藻土を指すらしい。珪藻土とは、海水や淡水中の植物プランクトンの珪藻が堆積して化石化したものだそうだ。この珪藻土を粘土状にしたものを、アイヌの人々は山菜に加えて調理していたらしい。江戸中期から明治初期にかけて北海道を探検したり調査した人達が報告している。
珪藻土は、現在ではビールの濾過剤として、また粉末食品の固結防止剤として多用されている。アイヌの人達は珪藻土のもつ脱臭、吸着などの作用を経験的に知っていて、食材のアクとりや山菜の毒消しその他の目的で調理に利用していたのだろう。
戸井に11もの町があるのは、大昔からそれぞれの浦里ごとに共同体が成立していたことを示すものだ。浦々は崎の断崖で区切られ、浦ごとに津(湊)があった。浦々はトンネルで道が抜けるまでは、隣の浦里へ行くのに崎の尾根を越える道を辿るかしかなかった。舟で行き来する方が遥かに早い。
古くからこの地の海は海産物の豊庫で、コンブ漁・マグロ漁・イカ漁などの伝統がある。別けても暖流と寒流が流れ込むこのあたりのコンブは優れ、遠く鎌倉時代から京・大坂との交易の重要海産物であったらしい。戸井の浦里の歴史は、漁撈と昆布交易の歴史でもある。
戸井の歴史は縄文時代早期に遡る。漁撈・ 狩猟そして採集の時代、北海道の渡島半島南部と本州青森県の津軽・下北両半島とは、5000年以上前の大昔から津軽海峡を挟んで一体の生活圏、経済圏を形成していたようだ。海は人の移動と交流を妨げない。
漁港で会った漁師らしい老人は、昔からよく海峡の向こうと往来していたと話してくれた。その口調には、下北半島の津々浦々とそこに住む人々への親近感が籠もっていた。対岸には親戚も居るという。移住や海峡を越えての通婚も古くからあったことだろう。平成の現在でも、対岸の青森県大間町へ行くには、八戸や青森からより函館からの船便が早いという。
段丘の上の道端には、北海道花のハマナスの実が赤く色づいていた。
合併前の戸井の町花はエゾカンゾウ(=ニッコウキスゲ)だったとか。「武井の岬」がエゾカンゾウの花で覆われる頃、再び訪れてみたい。
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