道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

惻隠の情

2018年11月28日 | 随想

人は年齢を累ねると、かつて見えていなかったことが見えてくる。若い人とは視力で問題にならないものの、人間を見る目は40歳を過ぎる頃から年ごとに進歩する。老人に年の功があるとすれば、確かなものはこれぐらいであろう。

男性に有って女性に欠けている心、それは惻隠の情ではないかと、漸くこの頃解ってきた。誤解されないよう理っておくが、女性が男性より薄情だと言う訳ではない。相手の心に感情移入して、その心の裡を思い遣る素質が、女性には生まれつき備わっていないのではないかと考えている。

女性に母性本能といわれるものがあることは、誰もが承知している。その中でも、出産した後の育児本能というものは極めて強力で、利己的かつ排他的なものに違いない。そうでなければ、わが子を無事に護り育てることは叶わないはず。男性の闘争本能と相対するものと言えるかもしれない。女性の育児は、ある意味自然や社会との闘争である。

夫の保護のもとで、その利己的な育児本能を遺憾無く発揮するためには、惻隠の情という情動は妨げにこそなれ有用なものではない。男性が社会生活においてそれを必須としているのとは、大きな違いがある。女性は初めから、その心を持ち合わせないよう、神に創られた存在ではないかと思う。

自分の仔犬たちの群に他犬の仔犬が紛れ込んで誤って乳を求めて来たら、容赦なく咬んで遠ざけるのは雌犬の正しい本能行動である。善悪理非を超える動物としての自然な反応だろう。我が仔の乳が不足することを育児本能は許さない。知性・理性を備えた人間であっても、母性の本能という点では、動物と些かも変わるところはないはずだ。

どんなに情愛が豊かで慈愛深く、社会性があり洞察力に優れ、福祉の観念を豊かに備えた女性であろうとも、惻隠の情が生来的に欠けることは避けられない。この心は躾や教育で得られるものでもない。もしそれを示す女性がいたら、おそらく擬態であろう。

定年退職した男性諸氏が、その夫人たちに蔑ろに扱われ、家庭内において不遇をかこつ例が多いのは、おそらく女性に惻隠の情が欠けているところから来ていると推測できる。これもけっして妻君の人間性に非があるわけではないから、夫君たるものその必然性を理解し、境遇に甘んじてもらわなければならない。

夫婦愛というものは、たゆまぬ更新が欠かせないもののようだ。愛情は本来新陳代謝を伴うものであるのだろう。更新のない夫婦愛、空気のような愛情は、炭酸ガスの抜けたビールのようなものかもしれない。その上に胡座をかいていれば、早晩不遇を託つ身になるのも致し方ないだろう。我が身を省察してみて、それに気づくのが遅すぎた。

もうひとつ、男と女との間に友情が育たない決定的な要因も惻隠の情に帰すことができるのではないか?たとえ男女共学の場に長く身を置いても、男と女との間に真の友誼は生まれない(と思っているのは私だけかもしれないが)。これは友になるための必須の要件が、一方の側に生まれつき欠けているからだと思う。魂が相寄るためには、この心は欠かせない。

女性は「現在(いま)が全てで、過去も未来もない」と、男性の側からよく言われる。これも、本能との関連で考えると理解できる。

育児という大業を女性に託した造物主は、女性に現実をひと時も見失わせない集中力を、付与したに違いない。「今が一番大切」こそ女性の本質であり、勁さの淵源であろう。

男性にも、惻隠の情の欠けている人は居る。恵まれた環境に育つと、人は惻隠の情が育たないことがある。

男性の世界において惻隠の情の欠落は、社会的諸関係の上で大きなハンディとなる。したがって惻隠の情を持ち合わせない彼らは、反動形成によって鼻持ちならない擬態を身につける。過剰なまでの思いやりすなわち忖度である。彼らには、惻隠の情忖度の違いがわからない。そのことによって彼らはすぐに見分けがつきそれと判る。惻隠の情を持ち合わせない男性には、真の友ができないのもその指標である。

他方女性の世界に於いては、惻隠の情の欠落は社会的に何ら不利益はない。それは女性の特性のひとつである。些かも偽善を装う必要はない。女性は神がそのように創り、それを容認しているから、化ける必要がない。自然体ということである。


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