ネットのことは可及的ドライに済ませたい考えで、メールが旧来の書簡の作法・形式に囚われず交信出来ることを何よりの長所と欣んで利用している。
筆不精の私が手紙好きに変われたのは、偏にメールのお陰である。ネットの恵みである。書簡の形式に囚われず自由に手紙が出せる解放感は、中学生の昔から願っていたものだった。
迂闊にも無知にも、SNSにフォロー返しという淳風があることを知らなかった。洵に愧しい。日本社会に在りながら、一度も自分のブログのフォロワーへのフォローのお礼=フォロー返しを意識しないで過ごして来てしまった。
それでも、今後も義理返しめいたフォロー返しはしない覚悟だ。
過剰な気働きと忖度で雁字搦めの日本的淳風?と距離を置いて、風通しの好い乾いた老後生活を営むには、ネットでの交際も乾燥気味にして措きたいと考えている。
日常の儀礼はともかく、どうも日本古来の有職故実や作法は苦手だ。
形式主義は権威主義の高みから流れ出るもののように思う。そういうものに精通することは、自他を幸福にしないと信じている。
礼儀と作法は生い立ちが違う。
礼儀は社会生活を円滑にするために多数の暗黙の合意によって自然に発生したものだが、作法は、少数の人間が満足する恣意的な所作・動作を、権力と権威によっ多数に押し付けるものだ。
本来なら、安易に執り行えることを、古式や伝統に則り、ルールでガチガチに縛って、それを知っていることを教養と考える因循固陋な人々は、まだまだこの国には数多い。
新しいものへの関心を喪失していることを自覚していないかまたは、無視しているのだろう。作法を知ってる側(エスタブリッシュメント)の一員たる優越感に安住して居たいのかもしれない。
古くても伝統であっても、悪しき弊習に対しては、後の時代の人々は積極果敢に整理する義務がある。そうでないと、時代が降るほど世の中が窮屈になり、閉塞した社会になるだろう。
三昔前のバブルの頃には、冠婚葬祭本がよく売れた。塩月弥栄子というこの方面のオーソリティーの著書が飛ぶように売れ、講演に引っ張りだこだった。経済的豊かさを実感できた人々が、教養で他者との差別化を図る目的のため、手っ取り早く形式主義に依拠しようと奔った時代背景がある。
その時代が終焉を告げ、今日では結婚式も葬儀も、あらゆる儀式が様々な事情から簡素な方向に向かっている。世の中は、少しづつ軽快になっていると思う。
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