道々の枝折

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源範頼の別邸跡

2020年05月09日 | 歴史探索
街中に出ることと、集まって人と話をすることを封じられてしまったので、人文考察の種が減っている。こんな時には、町内の史跡にでも目を向けてみるしかない。

浜松市の歴史案内地図に載る源範頼(1156〜1193年)の別邸跡に、初めて行ってみた。頼朝の3歳年下の異母弟の別荘跡は、何と自宅から1キロほどの近さに在った。
「灯台下暗し」、当地に住んで45年にもなろうというのに迂闊だった。範頼は、異母弟の義経と比べると、その人気に極端な違いがある。
木曽義仲と共闘した平家追討では、弟義経と共に車の両輪のような活躍をした。頼朝の代官を務める総大将でありながら、その行動は地味で、義経と比べ華が無い。動の義経に静の範頼、共に頼朝に滅ぼされる運命を辿ったが、活動期のキャリアは対照的だった。

現地はなかなか見当たらなかった。
佐鳴湖北岸のとある住宅の庭の奥に、〈源範頼別邸御茶屋跡〉という説明板があった。これでは史跡とわからない。個人の住宅地になっていては、史跡としての調査をできないのだろう。

そこは佐鳴湖を南に望む南垂れの小高い斜面の一画、おそらく当時の屋敷は、この団地全体の、湖岸までを含む広大な敷地だったと思われる。

往時の佐鳴湖は、浜名湖にも劣らぬ景勝の地だったようだ。範頼の青年時代は、兄頼朝の流人の悲哀も知らなければ、弟義経の都落ちの艱難辛苦も知らない。温暖な遠江にあって、有力な豪族氏の庇護のもと、別荘で湖畔の風光を愛でる余裕に恵まれていたようだ。

源氏の御曹司の眺めた風光は、このようなものだったか?


保元の乱(1156年7月)で平清盛と共に勝者の側に立った河内源氏の棟梁源義朝(1123〜1160年)は、乱後の王朝内の複雑な権力構造の変化に身を処しきれず、政治的に平清盛に後れをとった。3年後には賊軍として追討を受ける身となり、官軍の清盛と戦って敗れる。これが平治の乱(1160年1月)である。

敗軍の義朝は僅かの家の子・郎党たちと都を脱出し、勢力圏の関東目指して逃れようとする。近江から美濃に入り、柴舟で〈杭瀬川〉を下って伊勢湾に出、亡き妻の父が大宮司を務める〈熱田神宮〉に向かった。だが悪天候に祟られ、知多半島西岸の知多郡美浜町内海の海岸に漂着した。同行していた股肱の家人、鎌田正清の舅長田忠致の館(美浜町野間)に入り、夜を日に継ぐ逃避行の疲れを癒した。

その夜、長田忠致景致父子は、義朝逃亡の幇助を清盛から糾弾されることを惧れ、義朝を浴室で騙し討ちにした。婿の鎌田正清も景致に酒に酔わされ殺害された。

義朝には、上は20歳から下は当歳の息子たちが10人もいた。もちろん同腹・異腹の混じる兄弟たちである。年長義平朝長頼朝(13才)の3人は京で父と行動を共にした。義朝が敗北後、武勇抜群の長兄悪源太義平は清盛を狙って捕えられ刑死、次兄朝長は父義朝と逃れる際に、追っ手の襲撃で受けた傷が因で〈美濃青墓〉で死去している。
義朝に同行していた当時13才の頼朝は、逃避行中に一行とはぐれて後捕らえられ、〈京の六波羅〉に送られた。その後伊豆の韮山へ流罪の身となる。

遠江国長上郡の蒲御厨(かばのみくりや)に在った当時10歳の範頼には、中央貴族で彼を庇護する勢力が在り、平氏の手は及ばなかった。以後頼朝挙兵までの14年間を、遠江国で平穏に暮らすことができた。

〈遠江国蒲御厨〉で成長元服して蒲冠者と名乗った源範頼は、義経の6才上の異母兄である。伊勢神宮の神領蒲御厨(かばのみくりや)を経営する豪族蒲(かば)氏の保護を受けることになった経緯は詳らかでない。当時武人は母方で養育されるのが常だったから、生母が蒲氏と縁があったのだろう。頼朝も母の実家熱田神宮大宮司尾張氏のもとで生まれ、養育を受けている。

範頼が生まれたのは義朝26才の頃、南関東に勢力を拡張している最中の時期だった。東下・西上の都度、蒲御厨または隣接の池田宿に逗留したことだろう。

御厨(みくりや)とは、神や天皇の(食物)を供出する荘園である。当時はその土地の開発領主が国司からの徴税を免れるため、有力な神社に自領を名目的に寄進し、荘官として御厨を経営した。蒲御厨は名目上〈伊勢神宮内宮〉に寄進されていたが、実質の領主は古代以来〈蒲神明宮〉の祭祀権をもつ名族(かば)である。蒲氏は伊勢神宮を通じて中央の有力貴族との関係が深かったようだ。

当時遠江の国府は現在の磐田市見付に在った。蒲御厨と遠江府中は、天竜川を挟んで相対する位置にあった。その中間の池田宿は当時は天竜川の西岸(現在は東岸磐田市内)に在り、東海道及び天竜川の水陸交通の要衝だった。因みに磐田には、鎌田御厨(かまたのみくりや)があって、義朝と共に尾張国知多の野間で謀殺された鎌田正清は、この〈鎌田の荘〉の出身である。

範頼の本邸は蒲御厨内(現浜松市東区)にあった。若年の身で、5里(20km)ほど離れた風光明媚の地に別荘を構えることができたのだから、相当に手篤い保護を受けていたと想像できる。流人として北条時政の監視のもとで伊豆に在った頼朝や、遠国陸奥の藤原氏の庇護を求めねばならなかった義経よりは、恵まれた青年期だったと推測される。

頼朝が伊豆国で挙兵すると、範頼は呼応して遠江・駿河の源氏勢力の結集を図る。現地に勢力をもっていた甲斐源氏の武田氏や安田氏に支援と協力を求めた

平家滅亡後、頼朝に謀反を疑われ反旗を翻した義経と違って、頼朝に忠実だった範頼が、最終的には甲斐源氏と組した謀反を疑われ、伊豆修善寺に幽閉の後殺害されたという史実は、暗澹たる思いを呼ぶ。修善寺という場所が時政の関与を疑わせる。背後に策謀家だった舅、北条時政とその血を承けた正室政子の謀略の影を想わずにはいられない。









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