適正体重を目指すなら理解もできるが、それを超えてなおスリムになろうと涙ぐましい努力をする女性が多かった。背を高くすることは不可能だが、痩せることは、その気になれば誰でもできる。かくして、痩身術の本が書店の棚を埋めた。
さてその甲斐あって、晴れてスリムになってみたら、また新たな欠点が目に付いた。それまでより顔が大きく見える。痩せるまでは気にならなかったのに・・・
それはそうだろう。身体のボリュームが小さくなれば、頭骨で大きさが定まっている顔は相対的に大きく見えるはずだ。しかし飽くなき美への執着は、原因を顧慮せず結果に拘泥する。かくてはならじと、今度は小顔になることを目標にした。どっこい、これは顔の構造上甚だ難しい。勢い髪型、化粧法で小顔に見せる工夫が発達し、彼女らはその修得に憂き身を窶す。
思うに幕末の急な開国と維新後の欧化政策とは、当時の日本人に白人に対する容姿コンプレックスを植え付けてしまったようだ。さらに対米戦争の敗戦と被占領が重なる。当時の進駐軍の将兵とその家族をカッコイイと思わなかった日本人は、ひとりもいなかっただろう。かくして、容姿の美の標準は欧米人となった。
ある世代に固着した観念や意識は、後世代に伝播するもののようだ。親世代の固定観念は子、孫へと受け継がれる。以来、表面には出さないものの、男女共に背が高くなることが民族の願いといってよいほど切実なものになった。幸いにも国民所得の向上と栄養知識の普及による戦後の食生活が、日本人の体位を向上させ、平均身長は著しく伸びた。特に女性の平均身長の伸びがめざましい。戦前の食生活に欠陥があって、あるべき身長まで伸びきれていなかったのだから、伸び率が大きくなるのも当然だ。
今日では、欧米女性との平均身長の差は随分縮まっているし、当然、手足も長くなっている。もうそれで十分ではないかと思うのは男性の考えで、女性にとって美の追求に限度はない。完璧な美しさを求める妄執は、背が伸びたぐらいのことでは満足しない。何しろ容姿美の標準は欧米女性にある。追いつき追い越すまでは、手を緩められない・・・
半世紀ほど前には、八頭身と言う言葉があって、身長が顔面長の約8倍というのが美しいプロポーションだと云われていた。顔面長とは、正面から見たときの頭のてっぺんから顎までの長さだ。
戦後一貫して平均身長が伸びたから、丸顔が多い日本女性はたちまち八頭身をクリアした。今日では八頭身は珍しくない。終戦直後から見ればたいしたものだ。娘、孫達は皆自分達の母親を見下ろす身長に育った。
さて八頭身が珍しくなくなってコンプレックスを意識しなくなり、グローバル化が進んで日常的に学校や職場で白人女性と間近に接触する機会が増えてみると、それまで気にならなかった彼我の違いが顕らかになってきた。欧米人をスタンダードとし、それを目標にする固定観念が、嫌でもそのことを気づかせる。
今度は顔面の幅の相違が目に付くようになったのだ。同じ身長で同じ八頭身でも、顔の幅が広く見える。顔面長が短い丸顔は必然的に顔面幅がある。頭蓋骨が長頭なら顔は立体的で小顔・短頭なら顔は平面的で大顔と定まっている。進化の過程では脳の容積を減らさないことが最優先されたからだ。短頭(正確には中頭)は東北アジア人に共通する特徴だが、これを「カッコ悪く見えるからイヤだ」ときた。
古代ローマ人の主人公に、日本人を「平たい顔族」と云わせるヤマザキマリの漫画「テルマエ・ロマエ」は、日本女性の意識下にあった本音を明るみに曝けだし、大ヒットした。タブーを破ったのだろう。爾来、女性達は小顔への憧れをおおっぴらに表明できるようになり、小顔のモデル、タレント・女優・歌手に憧れ羨むことを隠さない。しかし、憧れの的の彼女たちの大半は、栄養不足のネオテニー(幼形成熟)か白人との混血であり、この国では稀少な存在である。
欧米女性を美の基準としてひとつひとつ彼女らにより近づくことを求め、ついに事ここに至った。さあこれからが大変だ。難題でもある。事はモンゴロイドとかコーカソイドとかの人種的特徴を決定づける頭骨の問題だから・・・。
人種が違うのだから仕方がないと諦めてはくれない。とにかく現代の女性美は欧米がスタンダード、なんとしてもそれに近づかなければならない。かくして「もう少し顔が小さかったら、小さく見えたら」と、ふたたび涙ぐましい努力が始まった。
それぞれの人種によって、頭骨の形状には環境への適応の過程で獲得した差異がある。更に我々モンゴロイドにとって不利なのは、顔の皮下脂肪がコーカソイドより厚くできているらしいことだ。どんなに頑張っても、人種を特徴づける遺伝形質は変えられない。生まれながらの顔を小顔にするのは不可能なのだ。それでも小顔になりたいと願うのは、もう病気、シンドロームでしかない。敢えて顔面の投影面積を小さくしようとすれば、両頬の骨を削るしかなく、実際にその特徴がより顕著な韓国の整形美容の世界では、その様な手術が普及しているらしい。美しくなる?ために、こんな不自然なことが行われて良いのだろうか?いくら異人種のほうが自分達に較べて美しい容姿をしているからといって、自らの人種的特徴を人工的に改造するのが、果たして人間として倖せなことなのかどうか?
女性達は、いったいどこまで彼女らの憧れる美に近づけば満足するのだろう。頭骨の形、目の色と目の形、瞼の形状と眼球の位置、鼻の形と鼻根部の高さ、唇の形と厚み、肌の色、髪の色、耳の位置の高さ、顎の形、等々・・・、際限なくより美しく見える素材・パーツとその配置を手に入れようと追い求めることになるのではないか?美容整形医の収入は際限なく増加するだろう。もし日本の女性が、これらの整形対象を当人達の満足がいくまで整形したら、彼女らは間違いなく日本人には見えなくなってしまうのではないかと惧れる。既にTVの画面に毎度出る歌手、タレント、女性アナウンサーや気象予報士たちに、その兆候が見え始めている。容貌の酷似が始まっている。韓国や中国では、男女共に容貌のランダム性が崩壊し始めているかも知れない。
改めて日本人が1万年以上もの間培ってきた美意識に思いを致し、日本女性の美の本質が何処にあるかを根底から考え直さないと、この国の混乱はますます酷くなるだろう。女性は母になる可能性をもつが故に、美よりも智慧を優先する存在であって欲しい。完璧に整形した女優たちをテレビで観ると、胸が悪くなって視聴意欲を喪う。原因は彼女らの無表情すなわち感情表現の喪失にある。手術によって感情が表情に現れなくなった不自然さは、如何ともしがたい。
日本人は体位がまだ向上しているから、全体では小顔化に向かっていると思う。因みに明治時代に来日したモースなど欧米人が撮った写真を見ると、当時の日本人は、現代人と比べ驚くほど大顔に見える。
成長期にある日本の女性は、ダイエットなどしないで、身長に見合う体重になることに専念すべきだ。無理なく自然に小顔化を実現できる筈だ。身長が170センチあって体重60キロの女性の顔が大きく見えるはずがない。身体が大型になれば、相対的に頭は小さく見える。どう考えても、スリム化と小顔化は矛盾しているように思われる。健康な女性に具わる天然の美に反するものではないか?
某野球選手の息子さまなどホントにのけぞるほど気味が悪い。
白人を美のスタンダードと考えるところに、落し穴があります。
人類の形質獲得の神秘性を考えれば、多様を尊重して自然に逆らう真似は