ご存知の方が多いのだろうがこの硫黄島は[イオウトウ]と読む方で位置はこちらである。
だから同じく硫黄島と書いて[イオウジマ]と読む島がこちらの方になる。
イオウトウからの手紙としても有名な激戦となり、熾烈な戦いを強いられた島であることも話すまでもない。
太平洋の島々を逆流するように次々と陥落されていくのであるが、
サイパンの戦いが昭和19年6〜7月
グアムの戦いが昭和19年7〜8月
硫黄島の戦いが昭和20年2〜3月
フィリピンの戦いが昭和19年10月〜昭和20年8月
そして沖縄の戦いが昭和20年4月〜6月であるので硫黄島の陥落の翌月には日本軍はフィリピンで戦いながら沖縄で県民と共にアメリカを迎え撃つこととなる。
沖縄の戦いは4月からとしてあるが、正確には3月26日からである。硫黄島の陥落が3月26日なので
陥落と同時に沖縄への艦砲射撃が始まったことがわかる。つまり、硫黄島と沖縄を攻撃した部隊は別であるが、陥落させてから沖縄を間を空けずに攻撃している。
昭和19年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧したアメリカ軍はこの時点で本土攻略にむけた作戦は立案されていない。沖縄か台湾を決めかねていた。
アメリカ海軍太平洋艦隊司令部では既に昭和19年9月にレイモンド・スプルーアンスは台湾攻略は意味がないと判断。
陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。
東京大空襲を立案実行した陸軍航空軍のヘンリー・アーノルド
は日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となっている。従って硫黄島が陥落しない限り沖縄への上陸は遅れるということだ。
日本の守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死、一方アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けている。
2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が開始され、4日後の23日星条旗が立てられている。
日本の大本営は3月17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表するが、その後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行している。
よく沖縄は捨て石にされたと言われるが、栗林中将は日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。
紛れもなく沖縄は日本本土である。
だから同じく硫黄島と書いて[イオウジマ]と読む島がこちらの方になる。
イオウトウからの手紙としても有名な激戦となり、熾烈な戦いを強いられた島であることも話すまでもない。
太平洋の島々を逆流するように次々と陥落されていくのであるが、
サイパンの戦いが昭和19年6〜7月
グアムの戦いが昭和19年7〜8月
硫黄島の戦いが昭和20年2〜3月
フィリピンの戦いが昭和19年10月〜昭和20年8月
そして沖縄の戦いが昭和20年4月〜6月であるので硫黄島の陥落の翌月には日本軍はフィリピンで戦いながら沖縄で県民と共にアメリカを迎え撃つこととなる。
沖縄の戦いは4月からとしてあるが、正確には3月26日からである。硫黄島の陥落が3月26日なので
陥落と同時に沖縄への艦砲射撃が始まったことがわかる。つまり、硫黄島と沖縄を攻撃した部隊は別であるが、陥落させてから沖縄を間を空けずに攻撃している。
昭和19年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧したアメリカ軍はこの時点で本土攻略にむけた作戦は立案されていない。沖縄か台湾を決めかねていた。
アメリカ海軍太平洋艦隊司令部では既に昭和19年9月にレイモンド・スプルーアンスは台湾攻略は意味がないと判断。
陸軍のダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。
東京大空襲を立案実行した陸軍航空軍のヘンリー・アーノルド
は日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となっている。従って硫黄島が陥落しない限り沖縄への上陸は遅れるということだ。
日本の守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死、一方アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けている。
2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が開始され、4日後の23日星条旗が立てられている。
日本の大本営は3月17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表するが、その後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行している。
よく沖縄は捨て石にされたと言われるが、栗林中将は日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。
紛れもなく沖縄は日本本土である。