神武は奈良時代、第43代元明天皇以降に付けられた名であり、古事記には
カムヤマトイワレビコノミコト
神倭伊波礼毘古命
とある。
つまりこの人物が後に初代神武天皇となるのである。
初代神武天皇に関してその存在を否定するものと肯定する説があるが代表的なものをウィキった。
〈否定派〉
大正時代に、津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。
このため津田は「皇室の尊厳を冒瀆した」として出版法違反で起訴され、有罪判決を受けた(津田事件)。
〈肯定派〉
神武の実在性を主張する論者もいる。安本美典は神武東征を邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)であるとする。
古田武彦も神武天皇の実在を主張するが、神武天皇が開いた大和朝廷を邪馬壱国/九州王朝の分家だとしている。
田中卓は初期天皇の皇后の出自伝承の素朴さが寧ろ帝系譜の信憑性を高めるとしている。
宝賀寿男は『記紀』が古代の地理事情を残している点や、古代氏族の系図やトーテム・習俗、年暦に関する研究から天照大神から神武天皇までの皇統譜を実在のものとした。
田中や宝賀、古田は神武東征の出発地を北部九州とする点で安本や戦前の通説とは異なる。久保田穰は初期天皇の実在を直接示唆するのは『記紀』であるが、ほぼ同時期の万葉集や風土記、その他史書や各種系図・神社伝承などが『記紀』の内容を支持するとした。
志賀剛は神武天皇の実在を認めつつ、宇陀郡出身の人物として想定し、東征の前半部分を虚構とする。
武光誠は西方文化集団の畿内への到来と銅鐸消滅時期が一致することから神武天皇的な存在を認めている。
【なお現在神武天皇の史学的立ち位置は「神武天皇の史的実在は、これを確認することも困難であるが、これを否認することも、より以上に困難なのである」であるとされる】
このようにウィキはお茶を濁しているが、どんな物にも最初があるのは当然であり、その論争こそが不毛であるとも言えるが、津田左右吉が有罪判決を受けたことに関しては『時代ダネ』とだけコメントしておく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/c4/d40d044560ea68f63745e27c206e8b8c.jpg?1601165929)
さて神武東征だが、上記地図のルートで進んだことが解っている。荒ぶる神や多くの豪族を服従させ、畝火の白檮原宮で神武天皇として即位したとされる。
荒ぶる【神】はさて置き、【服従】は荒ぶるものをも武力で屈服させたイメージが強いが、それさえもわからない。
武勇伝、伝記との意味合いを考えればある程度の誇張には耐性があるので、皇室の始まりが残忍とは思わない。
寧ろ神話だから神武天皇より数代はその存在が怪しいとの言説の方が私には堪える。
神話と言えども東征過程の地名は実際にそこに現在も存在する程正確であり、この神話が単にフィクションの絵空事でないことを物語っているのである。
農林水産省
米(稲(いね))の伝来ルートは
1.朝鮮半島(ちょうせんはんとう)経由(けいゆ)
2.台湾(たいわん)・沖縄(おきなわ)経由
3.中国大陸から直接(ちょくせつ)
という3つの学説(がくせつ)があります。
このうち、中国大陸から直接伝来(でんらい)したという学説がいちばん有力です。
大和朝廷は日本を『豊葦原の瑞穂の国』と今ではイメージの悪い瑞穂の国であるが、その意味は『神意によって稲が豊かに実り、栄える国』であり、国家運営の基礎に稲作を置いたことからも、神武東征は皇統と稲作の伝播を示しているに違いないのだ。
そこで冒頭のお田植えの写真であるが、昭和天皇が始めたお田植えの姿を見るに付け皇室祭祀と皇統、果ては神武天皇までに想いを馳せ本日も一膳の米を食すことに無上の喜びを感じるのであった。