白井何某の靖国批判書籍をもとに靖国を貶めステマまでする。しかも小学館という今まで政治から距離を置いていた印象の出版社から靖国の批判本を安倍首相の真榊奉納に合わせて出版してます。
このことが何を意味するのか?
安保法案に伴う安倍おろしで左派言論界が共闘したためエンジョウトオルなどとカタカナの仮名を使って身元を特定されない形の書籍宣伝、所謂ステマではないか?というのが第一印象です。
《ここで白井聡氏のwikiをコピー》
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早稲田大学総長を務めた白井克彦の子として東京都に生まれる。浅野中学校・高等学校を経て、2001年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。2003年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。2006年一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。2010年一橋大学博士(社会学)。論文の題は「レーニンの政治思想 比較思想の試み(The political thoughts of Lenin : toward comparative inquiries of ideas)」。
文化学園大学服装学部服装社会学科助教(民族文化論、哲学担当)を経て、2015年京都精華大学人文学部総合人文学科専任講師。
2013年『永続敗戦論――戦後日本の核心』で第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞。それまでは主にロシア革命の指導者であるレーニンの政治思想をテーマとした研究を手掛けてきたが、近年は現代日本政治史の分野でも発言している。
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以上が白井聡氏の来歴ですが特筆すべきは論文であの靖国神社廃止論の石橋湛山賞を晴れて受賞されていることでしょう。
こんな分かりやすい方の書籍をしかも小学館から出版し安倍首相の間接的批判をすることで思い出しました。富田メモです、本来なら朝日新聞がやることを日経新聞から出した違和感です。「天皇陛下が不快感、天皇陛下が行かない」
全て靖国神社を貶めるロジックです。
今回の白井氏の書籍が全く新しい観点から靖国を捉えたなどと書かれておりますが、歴史的観点から靖国には大義ないなどとその本質を"売り"にされているようですが、これも昔からある本質論を単に言い方を変えただけで、書籍を読まずして内容と企みのわかるものであると言えます。
以上がツイートと紹介文の私の個人的な感想ですが皆さんも理解されていることでしょう。
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《以下コピー》
【靖国神社の本質に気鋭の政治学者・白井聡が切り込む! 問題はA級戦犯合祀や中韓の反応ではない、靖国に歴史的大義がないことだ!】
今日から、靖国神社の秋の例大祭だが、予想通り、安倍首相は参拝を見送った上で、真榊を奉納した。メディアや識者の反応もいつもどおりで、右派からは「参拝できないのは中韓の内政干渉のせい」という反発の声があがり、リベラル派からはA級戦犯合祀問題や中韓への配慮がないというやや腰が引け気味の批判が聞こえてくる。
だが、そんな状況を〈心底ウンザリする〉と切り捨てるのは、気鋭の政治学者・白井聡だ。国際問題や政治的問題としてのみ語られている靖国論争を、白井はまず、〈「日本人にとって、日本の歴史において、靖国神社とは何であるのか」という問いを完全に欠いている〉として、こんな本質論を突きつける。
〈靖国神社に世界普遍的な大義が仮に存在するのであれば、どれほど強い非難があろうとも、私人であれ公人であれ、堂々と参拝すればよい。極端に言えば、世界中の人々がそれを非難し、「靖国を愛する日本人など皆殺しにしてしまえ」と思われ、実行されるとしても、本当に大義があるのであれば、実行するべきなのである。〉
そのうえで、白井はこう断じるのだ。
〈歴史的事実を冷静に追っていけば、靖国神社には世界的な普遍性を主張しうるような大義を見出すことはできない。〉
白井の靖国論が掲載されているのは、『「靖国神社」問答』(小学館文庫)。同書は少国民シリーズで知られる児童文学作家の山中恒が、膨大な資料から靖国神社とは何かを一問一答形式で丹念に検証した一冊だが、その文庫化に際した解説文で、白井は山中の靖国批判が「自虐史観」とはまったくちがうものであり、むしろ伝統的な視点から靖国の文化的・宗教的欺瞞を暴いたと評価。山中の検証によって、上記のように、歴史的大義がないこと、〈近代的な国家カルトの施設にすぎない〉ことが明らかになった、と結論づけているのだ。
たしかに、この『「靖国神社」問答』には、これまであまり指摘されることのなかった靖国神社の非歴史的な成り立ちが書かれている。
同書によると、靖国神社はもともと、戊辰戦争での戦没者を弔うために建立された東京招魂社が起源となるのだが、この時に合祀されたのは官軍側の戦死者だけだったという。
〈当然のことながら彰義隊や会津・白虎隊は誰一人祀られていません。東京招魂社は幕末から明治維新にかけての勤王派や尊攘攘夷派の殉難者、戊辰戦争の官軍側戦没者のための招魂社です。つまり明治政府と朝廷のために死んだ人だけを選んで祀ったのです〉(本文より)
しかも、賊軍の戦死者には極めて冷淡な扱いで、〈敗者の死者は、まさに犬死に同然で、なんの配慮もなされなかったばかりか、一時はその供養さえも許されませんでした〉(同)
結果、戊辰戦争で英雄となったものの、のちの西南戦争で逆賊扱いとなった西郷隆盛も靖国には祀られていない。
この「勝てば官軍」だけを祀る靖国原理を、白井は〈古くは菅原道真や平将門といった敗者を、その霊を慰撫するために「神」として祀った日本の伝統から、大きく逸脱するもの〉だと分析。敗者=賊軍を排除する靖国原理に倣えば、先の戦争で犠牲になった日本兵は、靖国に祀られる資格がないというパラドクスに陥ってしまうことを指摘。親米保守の自称愛国者たちに〈彼らが拝んでいるのは、あの戦争で亡くなった連合国の死者ではないのか〉という皮肉をつきつける。
たしかに、この事実だけをとっても、靖国神社が、祖先信仰や死者の霊を敬うなどの日本の伝統にならった神社では全くなく、大日本帝国がひたすら戦意を煽るために恣意的に作り上げられていった、非常にいびつな存在だったということがよくわかるだろう。
白井のいうように〈靖国によって象徴されるものは、日本の周辺諸国民にとって厄災であっただけでなく、大部分の日本国民自身にとっても厄災でしかなかった〉のだ。
だが、参拝を肯定する政治家たちはこのパラドクスにまったく無自覚なまま、平気で「国のために尊い命を捧げた方々に追悼の意を表するもの」などといった、妄言を垂れ流す。
「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」(安倍首相 参拝時の談話から)
しかし、繰り返すが、靖国に祀られている英霊とは戦前の大日本帝国のご都合主義から選ばれたものであり、たとえば数十万人にも及ぶ空襲や原爆の死者などの戦災者は一切祀られていない。靖国神社を参拝するということは、先の大戦に対する反省や、多くの国民を犠牲にした贖罪を伴った行為とは真逆の行為なのだ。
白井も、これについて次のようにその欺瞞を指摘している。
〈「政治家の靖国参拝は平和の誓いをするためなのだ」というレトリックは、神社の来歴からして到底通用し得ない。仮に、靖国神社を戦没者追悼のための公的な施設として使い続けるのであれば、靖国は過去の戦争神社としての在り方を公的に自己否定しなければならないし、政教分離の観点からして神道から切り離される、つまり神社であることをやめなければならない〉
その上で、靖国の今後について、こう提言する。
〈してみれば、われわれが目指すべきは靖国の「自然死」である。多くの人が、靖国の原理を理解すること——すなわち、そこには普遍化できる大義がないことを知り、「勝てば官軍」の矮小な原理を負けた後にも放置しながら、あの戦争の犠牲者たちに真の意味で尊厳を与えるための施設としては致命的に出来損ないであり続けているという事実を知ること——がなされるならば、誰もがこの神社を見捨てるであろう〉
白井の言うように、靖国はまさに自然死こそがふさわしい。だが、そのためには、国民が靖国問題へのリテラシーを上げていく必要があるだろう。
(エンジョウトオル)
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