天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

慰安婦、南京、731の嘘

2016-11-19 10:35:12 | 歴史


時間が経過すればするほど傷みは柔らぐものです。戦争の記憶も少しづつ忘れ去られ、残るのは楽しい記憶と目に見える古傷でしょう。

慰安婦の強制連行は嘘。人権を叫ぶ国連の委員会、反日左翼と挺対協。日本人の慰安婦は問題になりません。

愛国婦人会、国防婦人会、大日本婦人会へと変化し1900万人以上の日本の女性達は銃後活動を行なって戦っていたのです。

戦線布告をせず、戦争へと拡大しないように、ハーグ陸戦条約に沿って和平工作まで行いましたが、巻き込まれてしまいます。


森村誠一の悪魔の飽食は共産党のプロパガンダであり嘘、また人体実験など無かったも嘘なのです。

戦後行われた体験者の聴き取り調査は軍国主義を否定する為に行われた調査であって聞き手と話し手双方が戦争を否定し、日本軍を否定的に見ることは当たり前であり、否定的に喋ったことをより否定的に聞き取る訳です。

森村氏は事実に添いながらも創作で脚色した小説であって大江健三郎の沖縄ノートとほぼ同じ役割をはたしているのです。

この様に戦争を否定する為に過去の軍国主義を否定し、戦争の責任を必要以上に押し付けるあまり、反省とは名ばかりの日本軍は悪であった、との歪んだ歴史観と創作でまるで敵国を蔑むように歴史を修正してきたのです。



次官の通達(南京戦までの道程)

2016-11-17 08:22:09 | 歴史
陸軍次官

23 梅津美治郎 11.3.23-13.5.30
24 東條英機 13.5.30-13.12.10
25 山脇正隆 13.12.10-14.10.14
26 阿南惟幾 14.10.14-16.4.10


昭和12年南京攻略の12月

『8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠し、とし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行った。』とWikiにある。

上海事変で約1万人南京攻略で約1600人の戦死者を出している。単なる伝達系統の食い違いが、前線兵士の心理状態に少なからず影響を与えた。

南京大虐殺の虚構が創り上げられ、米国の意のままに支那大陸深く引き摺り込まれ、日米開戦に至ったのかは南京を知ることによって明確に理解出来る。

【梅津美治郎】は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」と云われるエリート中のエリートであり、陸軍次官時代に行った軍部大臣現役武官制や陸軍の政治的進出強化は、梅津の措業であると言われている。

昭和12年7月7日、盧溝橋事件により支那事変勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の【松井石根】に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。

8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。


参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。(陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれる)


8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。

11月5日、【柳川平助中将】率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。

しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。


松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。

松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。


松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。


12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。


12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。

13日、南京陥落。

17日、松井、南京入城。
このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。

翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。

松井は
「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」
「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」
「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。

松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。

後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。

一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。

しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。

だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。

【トラウトマン和平工作】

日本のソ連牽制を望むドイツとの支那和平工作
首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政であり、和平工作打ち切りの当事者である。


【南京の歴史】

南京は清朝時代には天京(太平天国)と呼ばれており、江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていた。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らの藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」とある。つまりキリスト教が深く浸透し、暴徒化していた。

南京は事実上傀儡都市であり、辛亥革命により中華民国が成立すると、明治45年には一時的に臨時政府が置かれた。この様な過程で英米やドイツの武器市場になっていたことは周知の事実である。

ドワンゴVS宮崎駿

2016-11-16 21:50:25 | 時事
『NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」』が、大きな反響を呼んでいる。



この番組をただの宮崎ファンやアニメファンが見れば巨匠に教えを乞う弟子、或いは若者を嗜める老人、の様に見えるかも知れない。

NHKは何を見せたいのか?

確かに構図は若者VS巨匠、門下生VS会長、つまり、ネットVS既存メディアなのだろう。


【宮崎駿】
「毎朝会う、このごろ会わないけど、身体障害の友人がいるんですよ」

「ハイタッチするだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と僕の手で、こう、ハイタッチするの。その彼のことを思い出してね。僕はこれ、面白いと思って見ることできないですよ」

「これを作る人たちは痛みとかそういうものについてね、何も考えないでやってるでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ちの悪いものをやりたいんなら勝手にやってればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません」

「極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます」

【川上】
「あの、でもこれってほとんど実験なので」
「世の中に見せてどうこうとそういうものじゃないんです」

テレビカメラの前でこれをやられてしまっては
ドワンゴの株はガタ落ちだろう。

これは単に若者を教え諭す老人である。

人工知能の動画(冒頭写真)を見て友人の身体障害者を想起するとは宮崎氏の勝手な主観の押し付けであり、明らかに新しい技術、若者の思想を弾圧している様にも写る。

ドワンゴは2014年末に「在特会」の公式チャンネルを設立したが、批判を浴び、翌年の5月には事前のアナウンスなしに突然閉鎖している。

川上氏はツイッターにおいて「日本社会のあるタブーへの議論のきっかけとしての社会的役割を果たした事実は認めるべき」とツイートしている。

この背景があってジブリにプロデューサーとして
弟子入りしている川上氏を利用して若者の右傾化、排外主義?差別主義?を抑制しようとしている。

NHKで全国に放送される言論弾圧、思想改造に川上氏は反省の弁を語っている。


《川上》
『今回の炎上で本当に傷ついたことがひとつあることを告白する。

月曜日から糖質制限を始めた。今回の炎上で改めて、人間は外見でそのひとの人間性を判断するということを確認した。どうやらデブは醜い心の現れであり、人間性を否定するに十分な根拠らしい。そう考えている人間が多いことは認めなければいけない事実だろう。

今回は本気で糖質制限をしようと思う。』



私には人間的に川上氏の方が一枚上をいっていると思うのだが?

南京事件の正体

2016-11-16 00:46:58 | 歴史
『暴支膺懲』

「暴虐な支那を懲らしめよ」

大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンだ。

昭和12年の盧溝橋事件、通州事件以降は頻繁に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。

同年南京入城前の8月に陸軍次官名でハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知している。この時の陸軍次官は8年後のミズーリ号で降伏文書に調印する梅津美治郎である。



『日本の進歩的文化人は日本の「中国侵略」を強調したいあまり、「日中戦争」の起源を昭和6年9月の満州事変までさかのぼらせて「日中十五年戦争」と呼ぶようになった。日本では柳条湖事件(昭和6年9月)に始まる戦争を「満州事変」、盧溝橋事件(昭和12年7月)に始まる戦争を「支那事変(日華事変)」、マレー半島上陸や真珠湾攻撃(昭和16年12月)に始まる戦争を「大東亜戦争」と、それぞれ別個に呼んでいたが、支那政府はそれが気に入らない。「15年戦争」と呼びたがるのには、戦争の連続性と一貫性を強調し、日本の「侵略の野心」を誇張したいという意図が露骨に見えている。』

参考資料「日中戦争は侵略ではなかった」黄 文雄




南京事件は暴支膺懲で始まった支那事変に鬼畜米英が加えられ大東亜戦争へと続く8年戦争の最初の年に発生している。

この南京事件が東京裁判で裁かれたが、ジョン・マギーは証言台に立つとともにマギーフィルムを昭和13年に持ち帰り5月には雑誌ライフに掲載されている。



何者かによって惨殺された遺体、暴行、怪我の動画、写真に日本軍の蛮行としてのキャプションを付け世界に発信した。

つまり、日本の暴支膺懲鬼畜米英のスローガンよりも何歩も進んだ映像という視覚に訴える手段で残虐日本兵、憎き敵日本とすることで米国市民の戦意高揚を狙った。戦時プロパガンダと判断するのが妥当であろう。

抗日運動の被害者や通州事件の鬱積と暴支膺懲鬼畜米英のスローガンとで戦闘行為が行われ、1500名の日本兵が戦死している。

南京攻略の前段階としての空爆で南京市民の400名が死亡し、中国敗残兵・便衣兵のうち、、約12,000を銃殺など「処断」したことも明らかになっている。

米国の戦時プロパガンダが日本の戦闘行為と内戦に巻き込まれる形でその背後で操る米国との戦いに大義名分を奪われながら突入して自らを裁く大罪の証拠となるのだ。

ドイツに対してのアンネは日本に対してのアイリス・チャンや夏淑琴となる。

ポリコレとサンクチュアリシティーの限界

2016-11-13 09:40:28 | 時事
ポリコレとは政治的中立のことですが、その現象を否定的に捉えて「言葉狩り」と言われたりしています。

日本会議事務総局勤務、江崎道郎氏によれば、現在の民主党政権下では、キリスト教の主の祈りである「天にまします我らの父よ・・・」と唱えただけで、「何故母でないのか・・・」とレイシスト、差別主義者のレッテルを貼られる、それくらいポリコレが浸透しているそうです。

つまり、今やアメリカでさえ国旗国歌に忠誠を誓うのは時代遅れであり、その原因が日本の日教組にあたる組織の、要するに日本における反日活動と同等の反米活動が多少の時間のズレはあるもののシンクロしていたのです。

江崎氏はコミンテルンが大きく関与していると指摘されていますが、大東亜戦争、太平洋戦争は、日米共に敗者であったことが痛感されます。

サンクチュアリシティーとは直訳で聖域都市ですが、その実情は不法移民にとっての聖域で、地元アメリカ人も不法移民であることを認知しつつ放置してきた結果、移民の方が力を持って問題化しているようです。

これに拍車をかけたのがポリコレであり、アメリカサヨクメディアであり、民主党政権であったわけです。ヒラリーのメール問題は軍事機密を中国に売った売国的事件だったのです。

トランプの当選は、まさにリベラルなポビュラリズムの崩壊を意味し、東京裁判史観で日本の軍国主義を否定していたアメリカが自らも同じ現象で
白人としての歴史認識で自分の首を絞め続けてきた結果なのです。

次にアメリカのポビュラリズムに影響を受けた日本がこれを繰り返すようにLGBTなどのマイノリティーの人権を訴え移民を受け入れようとしています。

奇しくもトランプが当選した直後の12日熊本でレインボーパレードが行われました。日本はアメリカの属国状態のまま何処へ向かおうとしているのでしょうか?