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福岡市美術館蔵の彝のこの作品における平行に走る硬い構築的な筆触や、赤いリンゴなどのフォルムに加えて、その壁紙のモティーフを画面の中に描きこむという特徴は、明らかにセザンヌ的な特徴とその影響と言ってよいのではないか。(現在、所在不明の枇杷の木を描いた彝の風景画もセザンヌ的な構築的な筆触を窺わせる。)
もちろん容器類などの歪んだフォルムや黄と青の色彩対比はゴッホ的な特徴としてよいだろう。
すなわちここには、セザンヌ的な要素とゴッホ的な要素の混交が認められると言えるのではないか。
かつて私は明治45年の彝のこの静物画における特徴的な壁紙に関連して、ニューヨーク近代美術館蔵のセザンヌの静物画(V.338)を例示したことがある。
最初は、ゴーガン旧蔵の有名な静物画の方を例示しようと思っていたが、彝が制作した翌年発行の『現代の洋画』にその図版を見つけたので、それに替えたような記憶がある。
確かに『フュウザン』や『現代の洋画』に掲載された図版は、彝の作品が太平洋画会展に展示されたあとに公刊された。
が、当時の複製画が持っている価値を想像すると、彝がそれらの公刊前にこのカラー図版を既に面識のあった北山清太郎などの関係者から見せられていた可能性も、かなり大きいと思うのである。
それだけ、1枚の複製画が人々に実に大きな感動を与える時代だったのだ。
さらに、このセザンヌの作品でなく、より有名なゴーガン旧蔵の壁紙のある静物画についてなら、1906年(明治39年)のデュレの本『印象派画家たちの歴史 ピサロ、クロード・モネ、シスレー、ルノワール、ベルト・モリゾ、セザンヌ、ギヨーマン』にも掲載があり、彝がこの本を丸善や何処か、あるいは有島ら帰朝画家などの所持本情報から見知っていた可能性も当然あったろう。(因みに有島は僅かにデュレの本に依拠して『白樺』に書いたのだった。)
周知のように、中原悌二郎が書いている通り、彝たちは、明治42年には荻原守衛からロダン、ムニエ、画家ではセザンヌの名を聞かされ、その写真も見せられていた。
そして守衛がセザンヌを高く評価していたことは、彼がロンドンで高村光太郎に会ったときに、セザンヌ展の話を持ち出したことからも分かる。
こうした事実から、彝や悌二郎は早くからセザンヌの名前を守衛から聞かされ、「(複製画などの)写真」も見せられ、兼ねてからセザンヌには注目していたと考えられる。
ここで再度、論点を整理すると、私がかつて例示したセザンヌの複製画(V338)は、大正2年の『フュウザン』と『現代の洋画』に掲載されていた。
しかし彝の静物画(福岡市美術館蔵)は、確かに『フュウザン』や『現代の洋画』公刊前に制作された作品である。
大正10年には税所篤二の『ポール ゼザンヌ』の巻頭図版にもそのセザンヌの静物画は現れた。
税所や、『現代の洋画』の北山清太郎が、このカラー図版をどこの誰からどうやって入手、または借用したかはまだ分からない。
が、北山について言うなら、彼は大正2年の公刊前に問題の静物画の複製(カラー版)を知っていたことは間違いない。
もし彝が北山や税所がカラー版で利用した複製を、福岡市美術館蔵の静物画を制作する前に見る機会がなかったとしても、ゴーガン旧蔵のセザンヌの静物画なら、T.デュレの『印象派画家たちの歴史 ピサロ、クロード・モネ、シスレー、ルノワール、ベルト・モリゾ、セザンヌ、ギヨーマン』(1906)などに既に載っているので、セザンヌの静物画における壁紙については、明らかに気づいていたと思われる。
さらに言うなら、この1906年版には、セザンヌの同時期の静物画(エルミタージュ美術館蔵)で、やはり壁紙の文様のある作品も掲載されていた。