彝の大島行を「死ぬつもり=自殺」と受け取るとそれ以前に決定的な破局があったように誤解され勝ちとなるが、そうではない。
また黒光は、静座の師岡田虎二郎に対する彝の態度を批判的に述べているが、彝が大島から帰ってきて引っ越したのは、本行寺わきの有楽館だから、大正4年の4月ごろはまだ彝は静座を断念してないことは明らかだし、4月3日の書簡でも「これから精一杯坐りぬかうと思つて居ります」と伊藤隆三郎に書いている。
大正4年の5月中旬には幼児の相馬哲子を描いているので相馬家との関係は良好とは言えないまでもまだ保たれている。
しかし8月14日の書簡では「例の事件が目下発展の真最中」と書かれている。そして「中原君がとうとう間に入って呉れる様になりました」とも書くのである。が、この時点では彝は俊子の愛を少しも疑っていないように見える文面もある。「最後の勝利は自分達に帰するに極つて居るのです」。
それが、9月6日の書簡では「吾々のラブは到底報告するに堪えない程悲惨なものとなつて終ひました」と大きく変わっている。彝は「狂人視」され、俊子は「監禁」されてしまったと同じく伊藤隆三郎に書いている。
この間の事情を黒光の方の記述から見るとこうなる。
夏休みが終わりに近づき、三保から皆…帰って来まして、家の中が急に賑やかになりました。けれども長女の俊子だけはなんとなく沈んで、元来無口な性なのが、いよいよものを言わないようになりました。
それには原因がありました。皆が三保に行っている間に、東京では彝さんから私たち夫婦あてに手紙が来ていまして、それには今まで親子の間柄のようにあったのに、急に喧嘩腰の調子で、俊子を自分に許せと、初めから終わりまで非常識の限りを書いてあるのでした。・・・
ところがある夕方、娘から「散歩に出かけましょう」と私を誘いまして・・・娘は声をひそめてこう囁くのです。
「実は今夜九時頃家出をしろと彝さんからすすめられているのですが、私はどうしてもお母さんに黙って家を出る気にはなりませんし、またそんな事が誰にも幸福ではないと思うのですけれど、彝さんは狂人のように荒っぽくなっているから、どんなことを仕出かすか知れないし、どうしたらいいでしょう。」
と、おろおろ声で打ち明けたのでございます。
その晩黒光は、夫と相談の上、俊子を桂井の家に預けたのであるが、翌朝、桂井から「昨夜たびたび何者かが石を投げたたり戸を敲いたりして悩まされた」と公衆電話で連絡がある。
こうして桂井は俊子を自分の家から二,三日、ある海辺に連れて行き静養させた。そして俊子が戻されると、次に彼女は大関女史に預けられることになった。
「一方彝さんは夫を殺すと言って長い日本刀を振り回したり、悪口雑言を書いてよこしたり、全く正気の沙汰ではありませんでした。」(相馬黒光『黙移』pp222‐225)