美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

11月29日(日)のつぶやき

2015-11-30 03:25:32 | 日々の呟き

@tikarato
ではこうした人たちに文学や美術はなかったのかと言えば、そうではない。
まだ書かれていない文学、日々の暮らしの中に発見された美術が無限にあったはずだ。
生きていくこと自体の中に文学や美術があったのだ。
ただ、それを文学とか美術とか呼ばなかっただけだ。


モネは睡蓮の画家。だが、どの睡蓮ですかと言われるとちょっと困る。それは19世紀の終わりごろから描かれ始め、ほとんどの睡蓮は20世紀のものだ。オランジュリー美術館のは集大成の睡蓮。これを相当に早く見た日本人の文学者がいる。横光利一だ。その頃来館者は非常に少なく静謐な雰囲気があった。


ジヴェルニーの観光ツアーが実現されている。1970年代では商売にならないと笑われたろう。そもそもジヴェルニーと言っても何のことかわかる人はあまりいなかった。オランジュリー美術館の観光もあるかもしれないが、今日では人が多いから案内するには、ジヴェルニーのほうが好都合かもしれない。


1976年に初めてパリを見た。その頃オルセー美術館はなく、オランジュリー美術館に並行して印象派美術館があった。どちらもまだ入館者はそれほど多くなく、オランジュリーの睡蓮の間など十分に堪能できた。楕円形の空間に包み込まれ陶酔し西洋的な空間をしばし忘れた。横光もそう感じたのだろうか。


娘が団員の地方オケ演奏会へ。ドボルザーク9番。私の中学時代、第5番。第2楽章家路、文部省必修、誰でも知っている曲。地方オケもない町に住んでいた私の父母も今や亡くなり、昔を思い出して感傷的になった。やはりナマで聴くと地方オケ演奏の名曲でも気づかなかったフレーズや音が聞こえて来る。


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11月28日(土)のつぶやき

2015-11-29 03:26:57 | 日々の呟き

午前中に庭仕事をした。庭仕事をしながらいつも考えることがある。「人の美的感性はどのようにし育まれるのだろう?」物の配列、バランス、例えば庭を箒いたあとの清浄感、そういったことが案外大事だ。学芸員にも仕事が忙しいためか机の上をめちゃくちゃにしている人がいるが、私には理解できない。


@tikarato いや、理解はできるが、自分の机上の世界が乱雑になっているとやはり落ち着かない。一方文学者の書斎の写真を見ると乱雑極まりないようなものがあった。だが、これは憧れの世界、一つの宇宙でもあった。そこに何かしら精神的なもの、芸術があると思えたからかもしれない。


@tikarato 純粋に美的なものと純粋に芸術的なものとは必ずしも同じではない。美しくとも芸術では無いものがあるし、芸術ではあっても美しくないものがある。芸術には何らかの精神性が含まれなければならないのだ。精神性はいかようにも主張できるから、昨今、美的でない芸術は多い。多すぎる

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文学は美術に比べたら美的なものと言うよりは精神的な芸術と言えるだろう。しかし精神的な芸術は、必ずしも立派な人格の人から生まれるものではない。立派な人格の人でも文学などとは一生無縁のまま死んでいく人もいる。私はむしろ最近ではそういう人に魅力を感じる。文学はおろか美術にも無縁のまま。

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この名画、何十億と聞くと多くの人は呆れたり、びっくりしたりする。いや何千万、何百万円単位でもいい。その感覚は重要だ。美術の学芸員が、呆れたり、驚かなかったりする感覚の方が間違っている。


ある外国美術展の時、盗難事件があった。警備員が責任を感じて自殺したが、責任はもちろん警備員1人が負うべきものではないし、人の命よりも大切な美術品などない。また人が死んで償われるような芸術作品の価値も存在しない。そもそも芸術品の精神的な価値と人の命とは別個の次元の話なのだ。

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トリミングした小生のプロフィール画像とほぼ同じ。ツイート内容とは関係ありませんが、、、 twitter.com/cversailles/st…


新聞の見出しは、記事内容を読んでみるまで行為の主体が誰なのか、形容語句がどこにかかるのか明確には分からないことがありますね。短かすぎる見出しを目にした誤解により、意図せずとも偏見を植え付け、先入観を助長する心配もありますね。 twitter.com/pentaxxx/statu…


@tikarato 小津の「東京物語」を初めて見たとき、何だか少し退屈だったが、半ばを過ぎたころから涙が止まらなくなって困った覚えがある。人生というものが自分でも少しわかってきたように思ったころだった。「晩春」「麦秋」も確かに素晴らしかった。佐藤忠男氏の『小津安二郎の芸術』は良書


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11月27日(金)のつぶやき

2015-11-28 03:25:49 | 日々の呟き

私の総コレステロール値は250、LDLが179、いずれも基準値より高い。処方された薬はリピトール。これは飲んではいけない薬という本でその低下作用が強すぎるために危険とされていた。この本の著者は、コレステロールは280を超えるまで薬を使うなと言っている。免疫力が衰えるからだ。


@tikarato 免疫力が衰えると感染症やがんになりやすいという。また著者は総コレステロールが240から260の人が最長寿という。私が前に処方されていた薬はゼチーア、リバロ。これは心筋梗塞の危険が著しく高く、280以上の人以外は危険と評価されていた。それで医者を変えたのだが、、


総コレステロール値は、ある基準では128から219までが良い。しかし浜六郎医師はメバロチンのような、氏が限定的に使用を認めている薬でも、値280までは、ほとんどの人に不要としている。下げるにしても、免疫力の低下を招くので220以下には下げない方が良い、と例の本で述べている。


私は、浜六郎医師から見れば「心筋梗塞の危険が著しく高く、コレステロールが280以上の人以外には危険」とされている薬を前に飲まされ、今回は「コレステロール低下作用が強すぎるために危険」とされている薬を処方されたことになる。さて私は心筋梗塞も狭心症もないので、この薬を飲むべきか迷う。


多くの人には臨床的に見つからない程度のガンが既にできている。コレステロール値が180未満だと免疫力が衰えてそれまでおとなしくしていたガンが暴れだすとも浜医師は述べている。日本では値が220から280の人が1番長生きだとも。薬によって免疫力が衰え神経や筋肉が傷付けられたら嫌だな。


私が学生時代のとき、児島喜久雄が読んだ美術書を何冊も見たことがある。すべて洋書だが、セピアのインクで本のあちこちに頻繁にメモ書きがあった。図版の脇にはその一部を素早くあるいは丹念にコピーしたデッサンがあり、その見事さに驚嘆した。アルファベットの筆記体も素晴らしく憧れた。


東京駅のステーションギャラリーのある展覧会で児島喜久雄の油彩画が展示されたことがある。まさに印象派の真髄をつかんだ作品でシスレーやピサロに比肩するような絵だった。これは決して誇張ではない。だがデッサンはオールドマスターなみと言ったほうがよいほどうまかった。何もかも圧倒された。


私はジャポニスムを研究していたことがある。しかし、児島喜久雄がパリで気取らぬ老人となっていたテオドール・ デュレと遭っていたことがあることは、その頃知らなかった。児島も現地での美術研究に忙しく、じっくりとデュレの話を聞かずに過ごし、折角の機会を逃したことに後で気づいて後悔した。


私は「印象派の肖像画」という卒論を書いて村田潔先生にちょっと褒められたことがある。マネの「テオドール・デュレの肖像」にも触れた。が、もちろんその頃も知らなかったのでデュレと児島喜久雄がパリで出会ったことに言及できなかった。エピソードに過ぎないが、書けなかったこと今頃後悔している。


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11月26日(木)のつぶやき

2015-11-27 03:22:04 | 日々の呟き

原節子さんが亡くなりましたか。この人が出ている映画の中で女性たちが話す日本語と現代の映画やTVの中の女性たちが話す日本語とは、もちろんいずれも現実の女性たちが話すナマの言葉ではないけれども、ずいぶんとその日本語としての醸し出す雰囲気が違うなぁという気がする。合掌


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11月25日(水)のつぶやき

2015-11-26 03:21:58 | 日々の呟き

録画したテレビ番組で原田マハさんが、モネをハンターと言っていたが、確かモーパッサンもモネをハンターと言っていた。


「美術館を手玉に取った男」という映画が、美術館学芸員にも評判らしい。
寄贈作品、特に一括寄贈や同一人物からの寄贈に危険が潜んでいることは、大いに有り得ることだ。


@tikarato
原則として、寄贈だから作品調査が甘くなることは、学芸員の名誉に関わる問題だから有り得ないはずだけどね。
大きな問題は、いったん寄贈を受け入れてしまうと、後で何かしら気づいても、今度は館内外で本物だと言い張る力が働くことだ。


@tikarato
誰が斜線を引いたかについては、争いがないから裁判上の論点にはなっていないだけなのだろうか?
しかし公正な判決のためには、この問題はしっかり究明されるべきと思うが。


原田マハさんがTVでモネをハンターと表現していたが、やはりモーパッサンが1885年エトルタでの彼の制作の様子を見てこう言った。「私はモネが印象を捕まえに行くのについて行った。彼はもはや画家ではなく、真実、ハンターであった。」子供たちに5,6点の画布を持たせ必死に自然と格闘していた


美術館を手玉にとった男という映画が評判らしい。寄贈、特に一括寄贈には注意。寄贈者もそれと知らずに問題作品を含んだコレクションを寄贈することがあるからだ。学芸員は、そうした寄贈者のご機嫌を損ねられないし、作品数が多くてつい調査が甘くなりがちだから。


美術館への資金提供者にも注意。ドキュメンタリー「偽りの来歴」の詐欺師も美術館への寄付金をちらつかせて有名美術館に出入りするようになりそのアーカイブのファイルを「汚染」した。


学芸員はもっともらしい来歴を持つ作品に注意。ミケランジェロの専門家Fハートや担当学芸員が騙されたのは、作曲家のオネゲルの遺族が偽りの来歴作りに利用されたからだ。なぜならオネゲルは「ダビデ」を作曲しており、その美術品はそのとき彼の手元にあったなどと説明されたからだ。


作品の来歴が作者本人に近いところまで行ってもまだ安心できない。立派な来歴の作品は作者本人に非常に近いところから出てくるものだ。こうした作品は時代的にも近いものであるから、科学的検証から偽物であることを証明することが難しいことが多いので注意。


@Lumiere1874
基本的には当該美術館の学芸員の調査によります。非公式に大学の先生や他の美術館の学芸員の協力を得ることもあるでしょう。その後、たいてい資料収集委員会などにかけられます。しかしいずれにせよ、当然のことながら最終的な責任は寄贈を受け入れる美術館にあります。

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一般論ですが、一括寄贈作品に問題作品が見つかると、寄贈者の名誉と美術館自身の名誉や権威を守るために、一定期間その作品の存在を見えないようにする振る舞いがとられる傾向が見られます。しかし本当はそうした作品を隠すのではなく、まずは研究し、報告書にまとめることが大切だと思います。


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