多湖実輝に中村彝がしばらくぶりに与えたある葉書の終わりの方にこんなくだりがある。
「然し僕はこの頃声が出なくなって終ったから會っても愉快には話せない。(まことをは語らん日まで黙[もだ]せよと神の教かわれ声立たず)」。
この葉書は未刊行なので知る人は少いと思うが、かつて筆者はあるブログhttps://note.com/riki_72/n/ne49f4432ce5aで全文を紹介したことがある。
彝のこの葉書の前に、彼は久しぶりに親友から書簡を貰ったのだが、その内容は知られていない。せいぜいその返信であるこの葉書からおぼろげに推測するしかないだろう。
多湖は、彝に会って何事かを頼みたかったのだろうか。もし、そうだとしたら、「然し僕はこの頃声が出なくなって終ったから會っても愉快には話せない。(まことをは語らん日まで黙[もだ]せよと神の教かわれ声立たず」とあるのを読んだとき、彼はこれをどのように思い、解釈したろうか。
この葉書は、彝が今は悦んでは会えない、会えるような心身の状況にないと、言っているようにも読まれる恐れもあるだろう。
彝は、この葉書で多湖の手紙がしばらくなかったので、彼の病気が思わしくないのではないかと心配したうえで、自分の病状が非常に良くないことを書いた。
こうしたことから、多湖を今の自分に近づけないほうがよいともとれるが、何ともわからない。
この葉書に触れらているように彝は木村博士から死期が近いことを宣告されている。それはこの年の2月下旬のことであり、さらに3月28日には中原悌二郎の死を知らされた。
そして自分の病状の良くないことと突然の「ひどい変化」を案じて、7月11日には中村春二宛書簡で、自分の死後のことについての願いごと(遺言状)まで認(したた)めた。
したがって、この頃の彝にはきわめて大きなストレスがかかっており、彼は実際、一時的にせよ心因性の「失声症」に陥ることがあったのかもしれないと、今日では、読めるかもしれない。
さて、彝は実際どうして『聖書』からの引用とも思われるような括弧内の言葉を遣って多湖実輝にやや長めの葉書を書いたのだろう。
このことについて、筆者は別のブログ
に標記のような題で一文を書いてみた。興味のある方はご覧あれ。