美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

中村彝のアトリエとその内部写真

2025-01-06 20:04:52 | 中村彝

 
 上の写真は中村彝のアトリエ内部を撮影したもので、きわめて重要な写真なのだが、茨城県近代美術館の裏手に新築復元されているこのアトリエ現場を訪れた熱心な人々が戸惑う写真でもある。

 なぜなら、実際に アトリエ 内部に入って この写真が写された壁面はどこなのだろうと 探すのだが、どうもよくわからないからである。それは無理もないことである。

 なぜなら、この写真は大正8年頃に写されたもので(『藝術の無限感』普及版に大正6年とあるのは誤りである。そのことは、このブログでかなり前に論じている)、現在、復元されている アトリエ 壁面とは非常に異なる壁面が写されているからである。

 この写真の中で 中村彝が背にしている壁面は、多くの人が当初予想するように北側の壁面と思われるかもしれないが、そうすると写真 右側に写っている ドアがないので不思議なことになる。

 実は彼が背にしている 壁面は 東側の壁面 だと私は思う。しかし 東側の壁面には写真に写っているような 窓はない。現在、復元されている 壁面にはドアはあるが窓がないので戸惑うのである。
 実は東側の壁面は、彼が亡くなる 1、2年前に建て増しされ、そこに、これまでなかった玄関が設けられたのだ。しかしこの玄関はほとんど使われることなく物置となってしまったようだ。そして、その物置に俊子を描いた大きな「婦人像」が、画布が巻かれて、秘められたように残されていたのだ…

 それはともかく、鈴木良三氏の文献によると建増しされたところは、ベッドのある「応接間」(居間と言ったほうがよいかもしれない)の東側のように図面で書かれているけれども、そうすると、写真のような壁面がどこにも見出されなくなってしまう。

 鈴木良三氏の文献にある図面はおそらく勘違いによるもので、写真にある壁面はアトリエ空間の東側の壁面であるはずだと思う。

 東側の壁面には鈴木良三氏も図面の中に書いているように、鎧戸のある窓があったのだ。そしてそこには、大きなカーテンがかかっており、上の写真に写っているようなドアが右手にあったと思わざるを得ない。
 実際、茨城県近代美術館発行の現在のパンフレットを見ると、その窓は、鎧戸になっているのが、かすかに分かる。

 東側の壁面にピンナップされている裸体女性の写真は、小論で以前から指摘しているように、ルノワールではなく、ドガによるパステル作品で、 現在プーシキン美術館にある作品の複製画である。その左側に寒暖計(「老母像」やドクロのある静物画などに用いられているモティーフ)が掲げられ、その下に現在、茨城県近代美術館が所蔵する静物画がカーテンの脇に置かれている。
 またこの写真のドアの右手の壁面に掲げられているのは、彝の絵画にも時々見かける帽子掛けのモチーフである。

(追記)建増し前、アトリエの東壁面に窓があったのではないかという説は、「落合道人」さんのブログ(https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-11-03.html)にも言及されています。

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中村彝のパトロン今村繁三の家族写真

2025-01-05 00:40:17 | 中村彝
 没後100年中村彝展(茨城県近代美術館)に今村繁三の家族写真が紹介されていた。この写真の存在により、茨城県近代美術館蔵の彝による小さな素描作品が今村家の少女を描いたものであることが明らかにされた。また、それに伴い、今回の展覧会によって、その素描の制作年も改められた。

 今村は、彝たちを経済的に支援したばかりでなく、ルノワール、シスレー、マルタンそしてドガなどの作品もコレクションした。
 ドガは、そのダンス作品(パステル)のコレクション(大正9年頃)だったが、先の家族写真を見て、私はもう一つ、驚いたことがあった。

 この家族写真(大正8〜9年頃)の群像構図を誰が指示したのか分からないが、ブルジョワ一家の主人たる人物が、あたかもドガの「ベレッリ家の家族」の主人と同様に他の家族からややかけ離れて煖炉の前の最深奥部に座っていたのである。その構図に驚いた。

 それに対して、今村夫人と子どもたちは、写真の前・中景部におり、そのうちの一人の少女の姿に彝の眼が行ったのだ。

 ドガの「ベレッリ家の家族」のように、当時の今村家に心理的なドラマがあったのかどうかは分からない(※)。が、この写真の構図には、ドガのその作品を想起させるものがあって興味深い。

 今村がドガのパステル画を購入した時期と写真撮影の時期は、かけ離れていないようだから、今村自身はもちろん、その恩義に与っている彝も、ドガの主要作品への関心は相当にあったものと想像してよいと思う。

 もちろん、今村家の家族を写した別の集合写真もあり、そこでは、繁三氏は、奥まった煖炉に座ってはいない。それは、同じ室内における一般的な集合写真となっている。

 ただ、彝がリボンを付けた少女を描いた写真では、このブルジョワ一家の主人が、夫人たちが構成する一団から離れて深奥部の煖炉前に座っている、その意図的に構成されたと思われるグルーピング、室内におけるモティーフ構成や道具立てがやや気になるのである。
 ドガの「ベレッリ家の家族」の少女が故意にスカートの中に片方の脚を隠しているポーズに倣っているわけではあるまいが、彝がこの写真からピックアップして描いた少女の片方の脚も、集合写真の中では、隠れて見えない。

 彝はこの写真を見て、単に一人の少女をピックアップして描こうとしたのに過ぎなかったのか、それとも、今村のこれまでの恩義に報いるため、彼はドガの「ベレッリ家の家族」のような群像構図の肖像画を構想しようとしていたのか、この写真の存在は、たいへん興味深い示唆をわれわれに与えてくれる。

 繰り返すようだが、誰がこの写真の集合構図を指示したのか、そこまでは分からない。が、彝の眼が少なくともこの写真を眺めていたことは、確かなのだ。

 ※ドガの「ベレッリ家の家族」における心理的なドラマについては小論「ドガの初期作品における『意味』の問題」(『茨城県近代美術館研究紀要 7』1999)を参照されたい。

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中村彝の「鳥籠のある庭の一隅」 消えた署名

2024-12-16 23:23:58 | 中村彝
 中村彝の標記の作品、茨城県近代美術館で開催されている「没後100年中村彝展」の展覧会図録の表紙になっている。

 この実物作品の右下を見るとペンで書いたようなアルファベットの"a"が認められよう。(このブログ記事の表紙からは確認不可。)

 それはまさしく"a"なのだ。それにしても、なぜこんなところに"a"があるのか。

 実はかなり以前にこのブログで「古い画集の大切さ」という記事で紹介したことに関連するのだが、これは、彝が作品中に書いた署名と年記の名残りなのだ。それは、彝の没後間もなく刊行された古い画集を見るとはっきり分かる。

 すなわち、筆記体で書いた"T.Nakamoura 1918"のうち、kの次の文字の"a"だけがなぜか残っているということである。(因みに、彝のアルファベット署名には、ローマ字表記のNakamuraではなく、Nakamouraというフランス語読みの表記もあり、ここでは、後者で書いていたはずである。)

 ただ、なぜ、2番目の"a"だけが消えないではっきり残っているのか、不思議ではある。長い時間が経って自然に消えていったのなら、全部消えてもよさそうであるが、2番目の"a"だけが、ここに残っている。

 いずれにせよ、この事実、古い画集に認められるこの作品の署名と年記が、現在では殆んど認められないという事実は、今展の図録の作品解説におけるデータ部分に書き留められた、そのことはよかった。

 実は彝の作品にはペンのようなもので書いた署名と年記が、殆んど消えてしまっているように見えるものが他にもあるからだ。
 が、全く消えないで残っているものもある。どうしてなのか。作品の洗浄(の技術)などの問題なのか。

 もし、自然に消えていく過程にあるものなら、赤外線写真などで写すと、殆んど消えているものも、あるいは肉眼とは違って見えることもあるのではなかろうか。

 もちろん、没後に刊行された画集ではあるが、作者生存中に撮影されたフィルムを使っているなら、彝自身が、撮影後、何らかの理由で(例えばそれを書き直そうとして)、署名と年記を消したことも考えられないことではない。

 
 
 

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中村彝とセザンヌ − 壁紙のある静物画(2)

2024-12-08 15:08:55 | 中村彝

 福岡市美術館蔵の彝のこの作品における平行に走る硬い構築的な筆触や、赤いリンゴなどのフォルムに加えて、その壁紙のモティーフを画面の中に描きこむという特徴は、明らかにセザンヌ的な特徴とその影響と言ってよいのではないか。(現在、所在不明の枇杷の木を描いた彝の風景画もセザンヌ的な構築的な筆触を窺わせる。)


 もちろん容器類などの歪んだフォルムや黄と青の色彩対比はゴッホ的な特徴としてよいだろう。

 すなわちここには、セザンヌ的な要素とゴッホ的な要素の混交が認められると言えるのではないか。


 かつて私は明治45年の彝のこの静物画における特徴的な壁紙に関連して、ニューヨーク近代美術館蔵のセザンヌの静物画(V.338)を例示したことがある。


 最初は、ゴーガン旧蔵の有名な静物画の方を例示しようと思っていたが、彝が制作した翌年発行の『現代の洋画』にその図版を見つけたので、それに替えたような記憶がある。


 確かに『フュウザン』や『現代の洋画』に掲載された図版は、彝の作品が太平洋画会展に展示されたあとに公刊された。

 が、当時の複製画が持っている価値を想像すると、彝がそれらの公刊前にこのカラー図版を既に面識のあった北山清太郎などの関係者から見せられていた可能性も、かなり大きいと思うのである。

 それだけ、1枚の複製画が人々に実に大きな感動を与える時代だったのだ。


 さらに、このセザンヌの作品でなく、より有名なゴーガン旧蔵の壁紙のある静物画についてなら、1906年(明治39年)のデュレの本『印象派画家たちの歴史 ピサロ、クロード・モネ、シスレー、ルノワール、ベルト・モリゾ、セザンヌ、ギヨーマン』にも掲載があり、彝がこの本を丸善や何処か、あるいは有島ら帰朝画家などの所持本情報から見知っていた可能性も当然あったろう。(因みに有島は僅かにデュレの本に依拠して『白樺』に書いたのだった。)


 周知のように、中原悌二郎が書いている通り、彝たちは、明治42年には荻原守衛からロダン、ムニエ、画家ではセザンヌの名を聞かされ、その写真も見せられていた。

 そして守衛がセザンヌを高く評価していたことは、彼がロンドンで高村光太郎に会ったときに、セザンヌ展の話を持ち出したことからも分かる。

 こうした事実から、彝や悌二郎は早くからセザンヌの名前を守衛から聞かされ、「(複製画などの)写真」も見せられ、兼ねてからセザンヌには注目していたと考えられる。


 ここで再度、論点を整理すると、私がかつて例示したセザンヌの複製画(V338)は、大正2年の『フュウザン』と『現代の洋画』に掲載されていた。


 しかし彝の静物画(福岡市美術館蔵)は、確かに『フュウザン』や『現代の洋画』公刊前に制作された作品である。


 大正10年には税所篤二の『ポール ゼザンヌ』の巻頭図版にもそのセザンヌの静物画は現れた。


 税所や、『現代の洋画』の北山清太郎が、このカラー図版をどこの誰からどうやって入手、または借用したかはまだ分からない。


 が、北山について言うなら、彼は大正2年の公刊前に問題の静物画の複製(カラー版)を知っていたことは間違いない。


 もし彝が北山や税所がカラー版で利用した複製を、福岡市美術館蔵の静物画を制作する前に見る機会がなかったとしても、ゴーガン旧蔵のセザンヌの静物画なら、T.デュレの『印象派画家たちの歴史 ピサロ、クロード・モネ、シスレー、ルノワール、ベルト・モリゾ、セザンヌ、ギヨーマン』(1906)などに既に載っているので、セザンヌの静物画における壁紙については、明らかに気づいていたと思われる。

 さらに言うなら、この1906年版には、セザンヌの同時期の静物画(エルミタージュ美術館蔵)で、やはり壁紙の文様のある作品も掲載されていた。

 

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中村彝とセザンヌ ー 壁紙のある静物画(1)

2024-12-03 20:36:57 | 中村彝
 中村彝より1歳若い小説家・長与善郎はヴォラールの『ポール・セザンヌ』(1914)を丸善で買った(長与善郎『生活の花』大正7年刊)。
 そして、大正6年5月1日にこの本に関する「感想詩」なるものを書いている(「ヴォラールの『セザンヌ』を買って、上掲書所収」)

 これを読むと、いかに彼がこの垂涎の的たる画集を欲したか、いくらで買ったか、買うまでにどんなに思い悩んだか、買ったあとどんな心持ちになったか、そして自ら買ったことの意義などを実に細かく書き綴っている。

 一冊の輸入本を買うのにどれだけ彼の心が震え、慄いたか、それがあまりに具に書かれているので、今日の眼から見ると何だか微笑ましくも見え、驚きもする。

 だが、これがその当時の美術雑誌や、本の中における美術作品の複製に対する小説家や画家たち、芸術愛好家たちの真剣な眼差しなのだと理解される。
 (実際、戦前の古本などを買うと、カラー図版のページが切り取られていることがあった。壁に留めて鑑賞していたのだろうか。)

 長与善郎がヴォラールの『ポール・セザンヌ』を買ったのは、大正6年のことだが、この頃は、まだまだ丸善の輸入本の画集コーナーは、ある意味で、画学生や文化人に意外なほど大きな勉強の場所を提供していたと想像されるだろう。
 (昭和戦後の生まれの私ですら、高校時代、学校帰りの列車待ち時間を利用して、駅近くの本屋で、美術全集などを立ち読み、立ち見していた頃を思い出す。その頃のカラー版図版は、今見ると色褪せているが、当時は印刷の新しい匂いとともに色彩も新鮮に見えたものである。)

 大正10年に中村彝の知人である税所篤二が、『ポール セザンヌ』を書いたころも、美術図版を集めるのに苦心したというようなことが書いてあり、自分の本にあるセザンヌの挿図は、日本ではあまり知られていないものを主にしたと述べている。

 だが、そこに載っている挿図は、既に中村彝が丸善から洲崎義郎に送らせた1914年刊の2冊のセザンヌに関する本と画集に、すなわちヴォラールの『ポール・セザンヌ』と、ベルネーム=ジューヌ刊のミラボー、デュレ、ヴェルトの『セザンヌ』画集、そしてこれらよりもやや早期のJ.マイヤー=グレーフェの諸文献などに含まれており、丸善でそれらの輸入本に接していたと思われる長与善郎や、有島生馬はもちろん、『白樺』の仲間たち、そして岸田劉生なども既に見ていたはずのものである。
 (彝が丸善から洲崎に送らせたセザンヌ本については、今回、茨城県近代美術館発行『没後100年記念中村彝展』図録中の吉田衣里さんの論文が言及している。)

 だから税所が日本ではまだ知られていない挿図を集めたと言ったのは、丸善などでこうした輸入本に親しく接することができない人々にとっては、という意味だろう。

 その税所本の巻頭図版には、しかし、上述のヴォラール本やベルネーム=ジューヌ刊の画集には掲載されていない複製画も載っていた。すなわち、『フュウザン』と『現代の洋画』に掲載された静物画(V338)である。

 この複製画には、セザンヌのある時期の静物画に見られる壁紙と同じような文様が描かれている。

 その静物画は、「ミルク缶とリンゴ」(V338)https://www.moma.org/collection/works/83370
などと題されるものであり、現在は、ニューヨークの近代美術館に収蔵されている作品である。

 実はこの静物画と同じ壁紙のある優れたセザンヌ作品は、日本にもある。すなわち損保ジャパンの美術館にある作品(V346)がそれである。

 そして、同じ壁紙のあるもっと有名な作品もある。すなわち、それは、かつてゴーガンが持っていたセザンヌ作品である。この静物画は、モーリス・ドニの「ゼザンヌ礼讃」の画中画になっているので知っている人も多かろう。

 このようにゼザンヌのこの種の壁紙のある静物画はきわめて重要であり、かつ特徴的なので、中村彝が明治45年に描いた壁紙の文様のある静物画(福岡市美術館蔵)は、ゴッホの色彩(特に黄と青)とフォルムにおける影響とともに、赤いリンゴが加わって(これで3色が揃う)、セザンヌの影響が予測されるものである。(続く)

 



 
 
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