美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、つぶやきやメモなど。

中村彝のブルーズの「自画像」と「椅子によれる女」

2015-10-27 10:36:58 | 中村彝
今のところ最も図版(白黒)が多い日動出版の『中村彝画集』の「作品目録」番号92と98番の標記の作品は、制作年が、それぞれ大正9年頃、大正10年頃とされている。

しかし前者の「自画像」(下図)は大正8年の未完成作品と思われる。
また、後者の女性人物画は大正9年頃の制作である可能性が出てきたことは、ChinchikoPapaさんがそのブログで紹介している


で、今回ここに書くのは、これら2点の作品のもう一つの共通性である。

前者の自画像が未完成で彝が着ている白いブルーズの下層に赤と緑の植物文様が透けて見えることは、既にこのブログでも指摘したが、後者の「椅子によれる女」の背景にもこれと同じ文様が見える。

しかし、後者は、古い作品にあった文様を新しい作品の背景文様として生かして描いたものかどうかは肉眼で見ただけでは確認できない。

ただこの種の文様は俊子を描いた大正初期の作品(下図=部分)に比較的多く見られるから、この2作品ともほぼ同じ時期に大正初期の未完、もしくは塗りつぶしたかった作品を再利用して描いた可能性はあるかもしれない。

その際、過去の作品の表層が新しい作品の地塗りとなったり、一部、多少手を加えて新しい作品の背景となったりすることはあり得る。ブルーズの自画像は明らかにそうした作品だが、「椅子によれる女」にもこの可能性を探ってよいだろう。

ブルーズの「自画像」のように地塗りとして生かされても、もともと未完成なためか、あるいは時間の経過による顔料の透明化も加わったためか、もしくはその効果がかえって面白いと画家自身に感じられたためか、その部分が肉眼でも認められることがあるのだ。(こうした下層部分のモティーフの認定は真贋鑑定にも役立つことがある。)

こうして見てくると「エロシェンコ」と「女」が姉妹のように生まれた作品とするなら、サイズは違うがこの「自画像」と「椅子によれる女」もそのように考えられるかもしれない。いずれにせよ幾つかの俊子像に認められた同じ植物文様のモティーフが共通していることは確かなのである。

※大正8年頃とされる「静物」(日動出版の作品目録に載っていない作品で、「中村彝の全貌展」図録86の作品)にも上述の植物文様に似たモティーフが見られるが、ここには過去の作品のモティーフを再利用して描いた形跡はなさそうだ。少なくとも肉眼では認められない。上述の植物文様における筆法のリズムや色彩の組合せともやや異なる。この作品のモティーフは、むしろ、ある時期まで現存していたこの植物文様のモティーフ(下図)に一見いっそう忠実な色彩の組合せで描かれているように見える。


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中村彝『芸術の無限感』掲載アトリエ写真の撮影年、初版本が正確

2015-10-24 18:14:36 | 中村彝
以前このブログで論じた下図の写真(新装普及版掲載)は、やはり大正6年撮影ではありえないことが、『芸術の無限感』初版本(1926年刊)の掲載写真との比較からも裏付けられることに気づいたので報告したい。



すなわち初版本では大正8年撮影となっていたのである。

もちろん、いつも初版本が正しいとは限らない。
むしろ後の研究の進展により、新しい本において、撮影年が訂正されたのかと思う人もいるだろう。

しかし、この場合明らかに推論の通りと言ってよいから、初版本の撮影年の方がより信頼できると考えていい。

今や多くの人は、この本については新装普及版で読んでいるだろうから、あらためてこの点について注意を喚起しておく。

もともとこの写真の撮影年に疑念を持たない人はそのまま信じてこの本を読んでいるだろう。

仮に初版本との異同に気づいても、どちらを信じてよいかは、そこに興味を持って、ある程度考察しなければわからないことだ。

なお、新装普及版では、初版本にない書簡が加えられたりしているので、もちろん良い面もある。




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中村彝の「エロシェンコ」と「女」

2015-10-21 21:46:01 | 中村彝
彝の福田久道宛書簡(大正9年10月2日)にある「お嶋の延長である―『エロシェンコ』の肖像」、これはどういう意味であろう。

なぜ彝(または福田の原稿)は、裸体ならぬエロシェンコを「お嶋の延長」と呼んだのか。

本当は「お島をかいた『あの裸体』を一層徹底」して、そして、それよりもだいぶ大きな80号の裸体画を描きたかったはずだ。これこそ内容的に「お嶋の延長である」べき作品のはずだ。(因みに裸体はF40号であり、同年の田中館博士の肖像はF20号である。)

「あの裸体」は茨城県近代美術館にある上記の「裸体」に相違ないが、お島を描いたその作品の「延長」が「エロシェンコ」というのはどうも飛躍しすぎだろう。

しかしお島を描いた別の作品があるとしたらどうだろう?

すなわち大正11年の金塔社第2回展に出品された「女」(下図)、



この作品が「エロシェンコ」以前に、もしくは並行して、描かれていたと考えたらどうか。

実はこのように考えてみると多くのことが、筋が通って非常によく理解できるようになる。

彝は「(あの絵では色数を出来るだけ節約し殆んど二三色でかいた)」と「お嶋の延長である―『エロシェンコ』の肖像について」の言葉に続けて括弧内に書いている。(ここで言う「あの絵」とはお島を描いた作品を指すのか、「エロシェンコ」を指すのか曖昧だが、福田久道は、「エロシェンコ」と捉えて自らの彝論である「人及び芸術家として」にこの彝の言葉をほとんどそのまま取り入れ、「挿入」した。ただしこの彝論では「お嶋の延長である」の言葉は見られず、単に「今度のエロシェンコ氏の肖像に就いて」となっている。)
そして、次のように続けている。

「方法と材料とは簡単な程いい。思想が充ち、効果を見る眼が明らかになり、腕が相当熟練して来さえすれば、方法や材料は如何に簡単でも充分雄弁に、且つ『堅牢不壊』の感じを与えうるものである」。

実際「女」も、その大きさ、色彩(殆んど二三色)、筆触が「エロシェンコ」とほぼ同一である。

さらに、この作品の額縁も、以前このブログでも書いたように、同一であることが確認しうる。

実に「女」と「エロシェンコ」とは様式的に見れば、双子の姉妹のように生まれた作品なのである。

ただ前者が、後者よりも早く描かれたとする説はこれまでに聞いたことがない。

「女」のモデルがお島であると同定している解説も、これまでの展覧会図録にはなかったように思う。

モデルについては、それが誰であるか、はっきりとは分からないから、彝の展覧会図録の中ではおそらく誰も言及していなかった。

茨城の「裸体」のモデルは、書簡に明示されているから、お島であることは明らかであるが、それ以外に彝が描いたお島は、実は明確には知られていなかった。

そうした中で、ChinchikoPapaさんのブログ「落合道人」の<小島キヨが見た中村彝>の記事や<宮崎モデル紹介所の物語>の記事は、「女」のモデルをお島=新島シマと同定している。これはきわめて注目に値しよう。

もし「女」のモデルがお島であり、この作品が「エロシェンコ」よりも早く、もしくはほぼ並行して描かれていたとすれば、後者はまさしく「お嶋の延長」としての作品となると言ってよい。

急遽、必死に「エロシェンコ」を描いていた時、「女」がまだ未完成であったとしてもよい。
それでも「エロシェンコ」は、確かに「お嶋の延長」としての作品には違いない。

このように考えてみると、10月23日の中村清二宛て書簡はきわめて重要である。

「私はこの九月十六日、丁度あの『エロシェンコの肖像』を描き終わったその晩から倒れて臥たきりになって居ります。・・・午前モデルを描き午後エロシェンコを描いてほとんど一日続け様にやったので、それが障ったらしいのです。」

彝は「エロシェンコ」と同時に、午前中は確かに「モデル」を描いていたのだ
そしてこの「モデル」が誰で、何の作品なのかは実はまだ誰も語ってはいない。

すなわちこの「モデル」こそが後述のモデル斡旋所から来たモデルであり、それを描いた作品が「女」(もしくは「椅子による女」)であると考えるのが残された作品の可能性から考えれば最も相応しい。

というより、それ(ら)以外には、見当たらない。(失われてしまった作品があるとはっきり言えるなら別だが。また、裸体の群像作品である「泉のほとり」は、実際にはまだ「計画」段階と思われるが、その準備のための作品として、「モデル」を描いていたことは考えうる。)

実際「女」も大正9年作とする説も以前から少なくなかったのだ。
森口多里や鈴木秀枝は、この作品を大正9年作としている。

「女」は、「エロシェンコ」と並行して描かれ、後者の完成後に、つまり大正10年になって再び手を入れたということも考えうる。

モデルがお島(「椅子による女」の場合は小島キヨ)であることを裏付ける書簡として興味深いのは、彝の9月2日の洲崎宛て書簡だろう。

僕はどうかしていいモデルを見つけねばならない。…早速宮崎(モデルの周旋屋)へ多分の手数料を封入して周旋方を依頼しておいた。・・・」

やはり、<宮崎>に依頼して、エロシェンコ直前にお島、または小島キヨを描き始めていた可能性が大きいと言えるだろう。

いずれにしても、彝が言う「お嶋の延長」としての「エロシェンコ」は、かくして納得のいく言葉となる。単に技法や様式的な面で「延長」と言っているのではない。

あるいはこうも言えるかもしれない。逆にこの言葉があることによって、午前中に描かれていた「モデル」をとった作品とは、(小島キヨというより、むしろ)お島がモデルであったのではないか、と。

このように考えていくと「女」の制作年は今のところ、大正9年から10年としておくのが最も妥当であるように思う。

※モデルとともに「女」を描いている途中の彝の写真がある。この写真、『芸術の無限感』では大正10年としている。





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彝の「椅子によれる女」のモデルと制作年

2015-10-20 21:37:59 | 中村彝
中村彝の「椅子によれる女」のモデルと制作年について、ChinchikoPapaさんのブログ(『落合道人』)が、早くも2008年に書かれた「小島キヨが見た中村彝」という記事で重要な見解を披露している。

それによればモデルは後に辻潤の妻となる小島キヨという女性だった。そして制作年も大正10年(頃)ではなく、大正9年7月と述べている。

この優れた作品についてモデルが誰であるかは、私の知る限り、これまでの展覧会図録では言及がなかったように思う。
制作年についても、Papaさんが指摘しているように、9年あるいは10年(頃)とされる場合がある。

モデルと制作年について、このように明確に書いてある作品解説が他にないとすれば、この記事はかなり参考になるだろう。

ChinchioPapaさんは、主に倉橋健一氏の『辻潤への愛』に依拠しつつ、この記事を書いている。

ただ、注意しなければならないことがある。

Papaさんが依拠した倉橋氏が大正9年7月18日の彝の書簡としているものは、実は大正5年7月18日の彝の手紙である。(こうしたことを考えると、小島キヨが彝のモデルを務め、この作品が描かれたとしても、それが果たして大正9年7月のことであったかどうかは、彝の資料側からの裏付けがどうしても弱くなってしまう。)

倉橋氏に直接確かめたわけではないが、おそらく氏は鈴木秀枝著『中村彝』に依拠してこれを大正9年のものとしてしまったのだろう。この本は好著であるがその66頁を見ると鈴木氏がこの手紙を大正9年としているのが分かる。(おそらくこれは鈴木秀枝氏の書簡日付の確認ミスであろう。)

倉橋氏が『辻潤への愛』を書くにあたって依拠した小島キヨの日記帳は、2冊あって古い方のそれは大正12年7月2日から始まるようであるから、大正9年時のモデルの話は、当日の日記には書かれようがない。そうすると、それは後年の回顧として、これら日記帳の別のどこかに出てくるのだろうか?

キヨは、昭和48年11月15日、家族と日動画廊での「中村彝展」を見に行って、「椅子によれる女」の横に立ち、カメラにおさまったと倉橋氏は書いているから、この辺のオリジナルの日記帳に、彼女が大正9年7月ごろにモデルになった話でも書いてあるのだろうか?そうだとすればそれは遠い過去の話ではあるが信用性はかなり増す。

それとも倉橋氏は大正5年7月18日の書簡を大正9年7月18日の書簡と誤解したまま、その中に出てくる「モデル」(「先週女のモデル雇って半身像を描いてみましたが、・・・」)を小島キヨと同定したため、その作品の制作年月を大正9年7月中旬のこととしているのだろうか?そうだとすれば、これは再考しなければならない。

だが、いずれにせよ、倉橋本に掲載されている広島県立三原女子師範学校時のキヨ(大正9年、18歳)とされる年齢以上に見える写真やキヨ38歳ころの写真を見ると、「椅子によれる女」(「婦人像」とも呼ばれることがある)のモデルとそのふくよかな相貌がかなり似ていることも確かだ。
だから、キヨ自身が彝のモデルになったとどこかで証言しているなら、それは否定すべくもないだろう。しかし、そうだとしても、少なくともそれが彼女が上京した年の7月であったのかどうかは、さらに検討が必要になると思う。




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「エロシェンコ」以前の構想

2015-10-16 19:53:19 | 中村彝
中村彝の代表作エロシェンコ氏の像は大正9年に生まれたが、この作品は短期間で制作されたもので、実は、この年の8月30日時点では、帝展に何を出品するか、何を描くのかまだ決まっていなかった。

大正6,7,8年と官展に不出品だったので彼は相当にあせっていたはずだ。
前年は署名も年記もきちんと入れた優れた作品が比較的多く見られ、特に静物画などにおいて、意外な収穫期だった。が、官展に出してもいいと彼自身が認めた作品はなかったようだ。

大正9年8月30日の洲崎宛て書簡では「今度の風景と去年描いた未成の自画像」の出品も考えていたが、あまり「気乗り」はしない。

「然しこの秋には是非『モデル』を使って、八十号位に裸体をかいて」みたいと思っていた。

8月30日の書簡で述べられている「今度の風景」はどの作品を指すのか明らかでないが、残されている作品から判断するなら、前年12月から描かれた目白の冬以外にはそれらしい完成作は見当たらない。

また「未成の自画像」とは、ブルーズを着た「自画像」のことではないか。この作品(下図)は、このころの未完成の自画像であり、他に該当する作品もない。
この作品は大正9年ころの作とされることが多いが、こうして考えてみると、その前年の作としてもおかしくはないし、著者や編者により8年作とされたこともある作品だ。(※前にこの作品を大正9年頃としておいたが、むしろこの記事以降、私はこの作品の制作年を大正8年と訂正したい。)

80号の裸体画の構想は、実際には実現しなかったが、「三年前にお島をかいたあの裸体を一層徹底さして、も少し流動的なものにし度い」と願っていた作品である。

「三年前にお島をかいた作品」とは、現在、茨城県美術館にある裸体だろうから、実際には4年前に描いた作品だ。これをさらに「流動的」にして、ルノワール晩年の裸体画のような作品を描きたかったのだろう。おそらく様式的には、現在ポーラ美術館にある「泉のほとり」のような作品をイメージすればよいかもしれない。

9月に入っても彝はますますルノワールに夢中になっており、何とかして「モデル」を見つけ、裸体画を描きたく思っていた。

実際、9月4日の書簡でも彼は「来週からは『モデル』を雇って裸体の研究を」始めてみたいと明確に述べている。

ところが、「エロシェンコ」を描いた後の10月2日の書簡では、「お嶋の延長である―『エロシシェコ』の肖像」と言っている。

これはいったいどういう意味なのだろう?
いささか奇異に聞こえないか?
なぜ、裸体ならぬ「エロシェンコ」が「お嶋の延長」なのか?






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