美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

ドガと清長

2015-09-29 12:44:26 | 西洋美術
ドガはダンサーの画家として最も有名だが、女性が入浴し、体を洗い、タオルで身体を拭く姿をパステルで描いた多くの作品も残している。これらは19世紀後半における傑出した裸体画だ。

人体を捉えるドガの素描の力強い的確さ、パステルを何層にも重ねた比類のない色彩世界、これらはむしろ少数の美術愛好家と職業画家とを唸らせるものかもしれない。

ドガが描いたこうした女性たちは、同時代の人たちには、これまでに<理想化>されてきた女性の<優美>なポーズが感じられなかったようであり、あまりに<日常的>な、それゆえに殆ど<美しくない>、むしろ<醜悪>な、あるいはそれらの裏返しの感情として<猥褻>なものと感じられたようである。

だが、ドガが描いた浴室での女性のポーズは、日常的で、現実の姿に近いものではあるが、醜悪でも、猥褻でもない。

それはむしろ清長の浮世絵における女湯の場面に見られるような日常的なリアリズムの視点に親近性を持っている。

ドガが清長の名前を知っていたことはよく知られている。そして清長の浮世絵も実際に所有し、見て、研究していた。その1点が上述の「女湯」である。

ただ、下図のようなポーズの清長の柱絵は、実際に彼が見ていたかどうかはまだ知られて
いないと思う。     

このポーズは彼の彫刻の中でもちょっと特異な感じがする「右足の裏を見るダンサー」のポーズにそっくりだし、ドガ以外の芸術家にも同様なものが見られるので、かなり前から私には気になっていたものだ。

ドガ以外の芸術家、例えばブールデルの小さな彫刻にも、宮本三郎のパステル画にも見られる。また、小森邦夫の等身大の彫刻にも見られる。

これらは、あるいは、ドガの「右足の裏を見るダンサー」のポーズからの影響かもしれない。モデルにとってこのポーズは3分と持たない姿勢であると私は小森氏から聞いたことがある。それは、現実の女性に、稀に、瞬間的にみられる姿勢と言ってよい。

清長の柱絵に見られるこのポーズは清広の下図のような作品の左側の女性にも見られる。(作品右上に書いてある文字は「子を持たぬ内が女房の初桜」と読める。)

腰をひねらせたポーズに女性の魅力を感じている芸術家の眼が反応しているのは明らかだろう。

(ただし清長と清広の浮世絵では、このポーズの女性は、より自然な形でゆったりと縁側に軽く座っているところからの動きである。これに対してドガ、ブールデル、宮本、小森の作品では、よりダイナミックに立ち姿からのムーヴマンとなっている。)

清長、清広からドガの彫刻やパステルの多数の裸体画へ、またドガの彫刻からブールデルや小森邦夫の彫刻へ、あるいは宮本三郎のパステル画へという時間軸での歴史的な影響関係は、まだ考えなくともよいだろう。

今のところ影響関係の問題として論じることができないとしても、清長の浮世絵に見られるこのポーズが、多くの芸術家の美的感受性を共通して刺激してきたことは間違いないことを確認しておきたい。



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「アルフレッド・シスレー展」練馬区立美術館

2015-09-20 11:45:22 | 西洋美術

今日から11月15日まで、練馬区立美術館で「アルフレッド・シスレー展 印象派、空と水辺の風景画家」展が始まった。
日本国内にあるシスレーの作品を努力の限りを尽くして集めた良い展覧会だ。
中村彝の弟子筋鈴木良三の初期作品など、シスレーが描いた場所に関連のある日本の洋画家の作品も見られる。

昨日、内覧会に行ってその展示の概要を見てきたが、近年の展覧会にありがちな作品数が多すぎてかえって疲れてしまうということがなくて、私などには大変好ましい数的内容の展覧会だった。

印象派の作品を、「テクノロジーと描かれた河川」という観点から見るという新機軸もある。
最初どういうことかと思ったが、研究上の新しい成果もいろいろ出ているようだ。

まだ図録をゆっくり読んでいないが、一例として茨城県近代美術館が持っているシスレー作品「葦の川辺、夕日」について言えば、作品タイトルの変更を迫るほどの刺激的な解説がある。

すなわち、この作品のタイトル"Le Gué de l'Epine,soleil couchant"の  l'Epineは、詳しく調べ上げられた結果、特定の地名であることがはっきりし、これは「レピーヌの浅瀬」と訳すべきものであったようだ。
そして、運河と違い船が通れないような浅瀬がまさにLe Guéなのだという。

このようにタイトルの原題を明らかにしたのは、新しい視点から作品を考察した成果の一つに違いない。
もちろん「葦の川辺」であることは間違いないようだが、描かれた場所が特定されたということはきわめて重要だろう。

さらに茨城県のシスレーと鹿児島市立美術館のシスレーが関連作品ではないかという指摘もなされている。
これは、茨城県にとっても鹿児島市にとってもこれからの作品解説や研究で大変有意義な指摘になるものと言ってよいのではないか。

美術作品の貸借は、借りる側ばかりでなく、貸す方にもこういうメリット(研究成果の新しい享受)があるとあらためてわかるようなよい事例ではなかろうか。鑑賞者にとっても、もちろん有益な情報である。



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『偽りの来歴』からのメモ(2)

2015-09-12 10:32:04 | 美術の真贋
ハンガリー人エルミール・ドゥ・ホリーはマティス、モディリアーニ、ピカソなど1000点ほどの贋作を20年間にわたり描き、1968年に逮捕。
クリフォード・アーヴィングの伝記小説『贋作』は彼を主人公とする。
この作者はハワード・ヒューズの想像上の伝記を書いて投獄された。
『贋作』はオーソン・ウェルズの1975年の偽りのドキュメンタリー映画『フェイク』のベースとなった。
ウェルズは1938年に火星人来襲のニュース放送を流していた。

修復家トム・キーティングは1976年、2000点以上の贋作を告白した。
自叙伝『贋作者』
死後、オリジナルが売れた。

過去10年、オークション会社はドゥリューの痕跡のある作品を少なくとも200点以上扱ってきた。
1996年1月ドゥリューの捜査 p272

刑事事件の証拠物件の数
デュビュッフェ財団理事長は贋作18件を本物とした。p274

聖マリアの下僕修道会に入るとミドル・ネームにマリアを入れる。元のミドル・ネームは入れない。p277

1950年代の活版印刷でなく、化学的プロセスのリトで印刷した。p283

1992年スーラ展で借用をメットが取り止めたら訴訟となった。後、示談となる。p285

serifの部分に傷 p299

紙の分析:現代の紙は紫外線の下で輝く蛍光増白剤を含んでいる。p300
発光の明暗度の違いを基に小さく破られた紙片から元の1枚の紙を再構成する。

ドゥリューの動機と努力の源:人々を愚弄する喜び、専門家に対する軽蔑心、金銭 →6年の刑

「美術界全体が腐っているのになぜ僕にだけ目をつける?」

2000年夏、釈放。

ドゥリュー:1960年代~80年代初頭まで何の活動記録もない。医療・納税の記録もない。正規の雇用記録もない。前科もない。

オリガミスト:自分に与えられなかった注意や称賛を探し求める。
自分が想像した自分像によって「おりたたまれ」ている。病的虚言癖の人
前頭葉前部の皮質が平均より25パーセント多く白質を含んでいる。⁇
白質:因果関係の理解を司るルーティングシステムの機能を果たす。⁇

アート・ビート班の警官:学芸員や美術史家を警官として雇い、逮捕の権限も与える。2007年以後。p326
バーモンジーのアンティーク・マーケット
ケンジントン・チャーチ・ストリート、ボンド・ストリートの画廊街
カムデン・パッセージのマーケットなどのパトロール

美術品犯罪の記録を世界的に網羅するデータ・ベース:ALR(アート・ロス・レジスター)p327
英国の警察は偽物の現物破壊を禁じられている。フランス、ベルギーでは禁じられていない

美術特捜班はV&A美術館で贋作展を組織した。

ジャコメッティ協会とジャコメッティ財団

ジョン・マイアット、メアリー・ライザ・パーマー、P.ネイハム、バーガー、フォックス=ピット、ブース



















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『偽りの来歴』からのメモ(1)

2015-09-11 12:50:39 | 美術の真贋
L.ソールズベリー、A.スジョ著、中山ゆかり訳
2011年9月発行

贋作者と被害者との間にはしばしば微妙な共犯関係がある p51

フランスにおける「著作者人格権」は遺産相続人の権利であり、法的拘束力を持つ;最終的な裁決者となりうる

ハノーヴァ・ギャラリー:25年の存続期間中に扱った作品の写真を記録したアルバム→ジャコメッティなど p100

贋作は1点あれば他にもある。p114

写真の印画紙には時代性がある

写真には画廊独特の参照番号がある

アーカイヴ用語:ファイルが<汚染>されている p115

第三者の専門家の公式証言を基に贋作の判定が下れば裁判所は作品を破棄するか、原告の管理下に置くかを決めることができる。p122

告訴の手続きを開始すると脅かした。p124

古書を用いた策略 p125

本の中に水彩画が挿入されていたことにし、その証明書を書かせた。p130

写真家のスタンプ p134
光沢のあるRCペーパー:1970年代後半以降

サザビーズ:紳士の皮を被った商売人p151
クリスティーズ:商売人になろうと必死になっている紳士たちの砦

BBCのアンティーク・ロードショー、ピーター・ネイハム、1981年来、サザビーズ17年の経歴を持つ。p150

フォートナム&メイソン ターコイズブルーのバック p152

  *

プロヴナンスの確立 p13
アーキヴィスト

ランナー:店舗や在庫を持たない流動的なタイプの美術品ディーラー。個人宅、アンティークショップ、オークション会社から目を引きそうな作品を探し出す。p38

油彩画のヒビ:大半は最初の5年で生じる。完全に硬化するには約50年かかる。硬化すると細かい網状になる。p168

競り札(パドル)p179

ヨーロッパの全殺人事件の98パーセントは配偶者、近親者によるもの p173
放火魔は連続して事件を起こす傾向がある。同じ手口
放火 別の犯罪を隠すためということあり

代理ミュンヒハウゼン症候群 p186

詐欺の立証責任 告発側にある p196

エリック・ヘボーン 20世紀の最も悪名高い贋作者 p210

鋲の錆 塩水で人工的に p211

テートにハノーヴァギャラリーとオハナギャラリーのファイルがある p221
そこに関連作品の図録や受領書、手紙類がある

Mark Jones,ed. "Fake? The Art of Deception" 1990

古代ローマではギリシャの古代彫刻がステイタス・シンボルとなった。
オリジナルとされるギリシャ彫刻の90%がローマ製。p259

16,17,18世紀の工房ではミケランジェロ、ティツィアーノ、リベラの作品を製造した

若きミケランジェロはギルランダイオの贋作を造った。眠るキューピッドを古代彫刻として売った。

コローは他人が描いた模写に自分のサインをした

1990年にR.ヒューズが「コローは800点描いたが、4000点がアメリカにあると言われている」と書いている。

贋作はその時代の文化的痕跡を持っている。18世紀まで発見されていなかった青でそれ以前の作品が描かれていたとか

ベレンソンは来歴に左右されないように注意した。p260

ベレンソンは手数料のためわざと違う判定をしたという批判も

メ―ヘレンは1939年代後半から40年代に10点ほどの贋作
アナグマの毛の絵筆を使用
ライラック油で溶く
2時間オーブンで焼いた
ナチのゲーリングが買った→逮捕→贋作の自白

専門家はある作家や時代について先入見を持っており、その自身の考えがまれに見る発見によって証明されるのを待ち望んでいる。p263

ブレディウスはフェルメールの宗教的主題に未発見作品がまだあるかもしれないという説を唱えていた。→ミッシングリンクがあると予測している学者の危険。

歴史家や画商たちは失われた宝は自分たちに発見されるのを待っているという考えに常に魅了されている。だからそれらしきものが出てくると、調査の基準を下げてしまう。

ユーゴスラビア ザグレブ美術館、1987

修復家・画家のエリック・ヘボーンはティエポロやルーベンスの贋作を100点を描いたと告白→ワシントンNG,大英博、NYのモルガン・ライブラリー&ミュージック

ヘボーンは1996年ローマで殺された

どんな絵もそれ自体が嘘をつくわけではない。人を騙しうるのは専門家の意見だけである。ヘボーンの言葉p264

もしその絵が優れたものなら、それ自体固有の価値を持つのではなかろうか。鑑定家アリーヌ・サーリネンの言葉

ピカソは偽物でも本当によいものならサインすると言った。



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『平気でうそをつく人たち』を読む(5) 私のメモ

2015-09-09 14:26:10 | 個人的なメモ
17世紀の後半、ガリレオ事件が科学と宗教いずれにとっても有害なものだとされて以来、科学と宗教は、互いにかかわりを持たないという不文律の社会契約を結んできた。宗教は、自然界は科学の領域であることを認め、科学は精神的なもの、価値観とかかわりあうものから身を引くことに同意したのだ。p52

悪の問題は宗教的思索家が管理すべきものとされた。p52

フロムの言う屍姦症的性格の人間とは、他人を支配したいという人間の欲望、他人を支配可能なものにし、その人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたいという欲望をもつ人間のことである。p56

このタイプの人間は、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重し、これを育成する人間のタイプとは反対。p56

悪の心理学は治療のための心理学でなければならない。p57

真実に対する愛のみならず、生命に対する愛、温かさと光と笑い、自発性と楽しさ、奉仕と人間に対する心遣い…p58

自分たちの学んできた教訓を神話の中に取り入れてきた。神話の実体はそうした教訓の膨大な貯蔵庫であり、今もその中身を増やしつつある。p58

J.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』のゴラムの性格。p58

私の経験によれば真に邪悪な人間はごくありふれた人間であり、通常は表面的に観察する限り普通の人間のように見えるものである。p59

自分の親しくしていた人が自殺するようなことがあれば、その最初のショックに続いてわれわれに生じる反応はその自殺した人に自分が何か悪いことをしたのではないかと不安になることである。p82

人間というものは、互いに相手に対して何らかの感情を抱くものである。心理療法家が患者に対して抱く感情は「反対転移」と呼ばれている。p89

彼は自分に生じた「反対転移」が適切なものかどうか見きわめなければならない。p89

健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することが多い感情が嫌悪感である。p90

この嫌悪感はほぼ即時に生じるものである。p90

この種のネガティーブな反応はどちらかと言えば心理療法家の自己像を脅かすものとなる。p91

邪悪性を精神病の一形態として規定できないか…これを科学的研究の対象にすべきではないかp92

   + + + +

以上で標記の本からのメモを終える。
この本の筆者は精神科医、心理療法カウンセラーでクリスチャン。(43歳の時、無教派の洗礼を受けている。p6)
自分の療法がしばしば効果を上げなかったかもしれないと、本の中で時折語っていることも印象に残った。

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