美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

仙台の喫茶店「無伴奏」(3)

2023-06-18 20:37:00 | 個人的なメモ
「無伴奏」は、バロック音楽を中心に聴かせる喫茶店だったが、モーツァルトだけは例外だった。

中でも第20番以降のピアノ協奏曲はよくかかった。お客さんの中でも、20番、21番、23番、24番、27番などが、人気があった。それから若い頃の第9番。
クラリネット協奏曲、バイオリン協奏曲の第3〜5番。

クラリネット五重奏曲、弦楽五重奏曲ハ長調やト短調。
当時の私の好みだった弦楽四重奏曲ハイドン・セットの第1番と、第2番ニ短調。

あの時代らしく、いつも来るたびにレクイエムをリクエストする人もいた。そして、それはモーツァルトが書いたLPの片面だけで終わるのだった。
一方、第1楽章が最も流麗で華やかなイ長調のピアノ協奏曲第23番もかかった。その第2楽章の孤独な哀しみは、やはり、第21番の第2楽章に劣らず心を抉った。そして、このピアノ協奏曲第23番をいつも決まってリクエストする人もいた。実は私もピアノ協奏曲ではこの23番の第1楽章と第2楽章が最も好きだったが、その人と言葉を交わしたことはなかった。

ホ短調のバイオリン・ソナタ、イ短調のピアノ・ソナタやロンドイ短調。なぜか、私はロココ的に過ぎる長調作品よりモーツァルトの短調作品を好んでいた。

カール・バルトや海老沢敏さんのモーツァルトの短調作品に関する言説を読んでいたからかもしれない。しかし、カール・バルトが示唆するように本当は長調作品やオペラを理解してこそ真のモーツァルトへの愛なのだなどと、あくまで頭で「理解」しようとしていたのだった。(もちろん、モーツァルトのオペラなどまだ一回も見たことがないのだから無理はないのだが。)

それから、「無伴奏」で最もよくかかる曲としては軽快なフルート四重奏曲があった。
もちろん交響曲第39〜41番。これも中原中也、小林秀雄らの言葉を頭に思い描いて聴いていたのだ。

この喫茶店には、仙台モーツァルト協会の事務所が置かれていた。そのころの仙台通産局長さんや東北電力の課長さん、東北大工学部の藤井先生(シュワルツコップが好きだったらしい)のような方がモーツァルト好きで結成され、学生の私なども、会員となりお手伝いした。そして、カワイホールなどで、演奏会や講演会が開かれた。
講演会には遠山一行さん(後で素朴極まりない無理な質問をしたら、三大オペラではフィガロがいいと笑いながら応えてくれた)なども来たし、著名なピアニストも演奏してくれた。
もちろん、地元のピアニストも喜んで来てくれ、演奏会が終わると、演者を囲んでモーツァルトについて語ったり、お酒を飲んだりした。
地元の二人の女性ピアニストだったが、流麗、豪華、軽快に2台のピアノのためのソナタを懸命、真摯に演奏するのを眼前で聴き、その後この曲が好きになったりした。

そんな会があったとき、私は通産局長さんに「なにか困ったことがあったら来て」と言われたことがあった。
実際、私は本当に就職に困った時期があったのだが、どういうわけか社会的に力のある局長さんにお願いには行けなかった。だが、そんな言葉をかけられたことは他にあまりなく、今ではかえっていい思い出となったと思っている。





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仙台の喫茶店「無伴奏」(2)

2023-06-11 19:16:31 | 個人的なメモ
「 無伴奏」でよくリクエストされていた曲として、グールドが弾くバッハのゴールトベルク変奏曲があったが、もっともポピュラーな曲としては、パッヘルベルのカノンやアルビノーニのアダージョ、もちろん、ヴィヴァルディの四季や調和の幻想(霊感)などもあった。

バッハの無伴奏チェロやバイオリン曲はもちろんだが、お金も教養もない貧乏学生が、この喫茶店で何より学ばせてもらったのは、バッハのカンタータだつたかもしれない。140番、147番、78番、82番、それから4番、106番など。
あまり有名は曲ではないが、あるドイツ語の教授の推薦だと言われたカンタータの198番、「候妃よさらに一条の光を」も友人に教えられ、導入部の演奏には特に魅せられた。

バッハの有名な曲はどんなジャンルの曲でも、殆んど何でも聴けたが、マタイ受難曲やクリスマス・オラトリオなどはそれらにふさわしい特別な日にしか全曲はかからなかった。
リクエストがあっても、他の客のリクエストもあるので、LPの第1面だけで済まされた。
友人たちもアンナ・マグダレーナ・バッハの『バッハの思い出』などを読んでおり、マタイの導入部や終曲部などの素晴らしさをよく語り合ったものである。
もちろん、リヒター指揮のヨハネ受難曲における不安に満ちた劇的な導入部の演奏を知った歓びも忘れられない。

私は、グールドの弾くピアノ協奏曲第3番、5番、そして誰の演奏だったかバイオリンとオーボエのための協奏曲は頭が撫でられるような心地よさがあって、好きだった。ブランデンブルク協奏曲の第4番、5番、6番や、バイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番、音楽の捧げものなども時々リクエストした。
最後にぷっつりと切れて、宇宙空間に投げ出されたように感じたオルガン演奏のフーガの技法も良かった。

バッハのオルガン曲と言えばパッサカリアが好きだと言っていた友人は、もう鬼籍に入ってしまった。(続く)



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仙台の喫茶店「無伴奏」

2023-06-05 20:21:38 | 個人的なメモ
仙台に「無伴奏」という名の喫茶店があった。私が出入りしていたのは1970年前後の学生時代で、経営者は木村雅雄さんという方だ。

店は藤崎デパートから数分のところで、東北電力ビルの裏手にあった小さなビルの地下1階にあった。階段を螺旋形に降りていくと、店は学校の教室ほどで、正面に大きなスピーカーが、両隅に据えられており、J.S.バッハのある肖像画を模した白黒の木炭画が額縁に入れられて掛かっていた。

その「教室」の右手には、学生アルバイトなどの店員さんがコーヒーをいれたり、LPレコードを回す細長いスペースがあった。
テーブルとシンプルな4人がけのソファは、スピーカーに近い前方とお店の後方だけにあり、あとは、まさに教室の机と椅子のように皆、前を向いて座っているという感じだった。
多少のお喋りは許されていたが、真剣に音楽を聴く若い人もいた。
地方オーケストラのメンバーのような人や、仙台のいろんな大学の大学生や高校生、そして浪人生、自称詩人というような人なども来ていた。

現在、小説家、文筆家として活躍している仙台にゆかりがある人たちも若い頃ここに来ていたことは、後に彼らの作品やエッセーなどから知った。

私が最初に「無伴奏」に来たのは、ある雨の日の午前中だった。店の名に何となく惹かれ、躊躇いながらドアを開けた。
薄暗い空間に客は殆んど居らず、静かにチェンバロ曲が流れていた。今思うと、おそらくバッハのフランス組曲かイギリス組曲だったのではなかろうか。
後に、私は仙台の学生時代が懐かしくなったときは、このあたりの曲やラモーやクープランの曲を聴くことにしている。

この喫茶店は、バッハの音楽を中心にバロック音楽専門の店だったのであるが、ここに初めて入った頃は、まだ殆んど耳慣れない曲が多かった。

「 無伴奏」という名は、もちろんバッハの無伴奏バイオリンのソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲を連想させるものとして名付けられたのだろうが、何となく寂しそうな孤独な学生の気持ちを惹きつけるものがあった。

グールドの弾くゴールトベルク変奏曲(茶色と黒のデザインによるLPジャケットの旧版)は、当時、よくリクエストされていた。
無伴奏では、ドアの脇に小さな黒板があり、そこに客がリクエスト曲を書き込むことになっていた。

グレン・グールドと言えば、彼が実に軽快に弾くピアノ協奏曲、特に3番、5番はいつ聴いても気分が良かった。これも実にリクエストが多かった。バッハのチェンバロ協奏曲としてより、ピアノ協奏曲として聴くほうが格段にいいと思ったものである。いや、今でも私などはピアノ協奏曲として聴きたい気分になることが多い。(続く)



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2019-08-10 14:44:50 | 個人的なメモ




画像は、ヴェルサイユ宮殿の庭園。
若い頃、ヨーロッパの美術館巡りの旅をした。パリにも行ったが、近くのヴェルサイユには行かなかった。
すると、ある人から「君はパリに行って、ヴェルサイユにも行かなかったの」と言われた。
その後、10年ほど経て、数度そこに行った。それももうかなり昔のことになった。
そんな小さな縁だが、ヴェルサイユ宮殿の庭園をプロフィール画像とすることにした。
特に王宮が好きなわけではないが、ラトナの噴水から、緑の絨毯を経、大運河に向かう庭園の眺めは気に入っている。
晴れた日なら、きっと水路に向かって歩き出したくなるだろう。
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読書メモ シュテファン・ツワイク著『ジョゼフ・フーシェ』

2016-09-04 20:41:13 | 個人的なメモ

「有徳と不徳との間に差別を設けず、人間の意志の価値と情熱の強度だけをはかる・・・」

この世の中を実際に動かしている人間はいったいどのような種類の人間なのだろう。

こうした疑問が沸き起こってきた時期があった。そのころ読んだのが、ガルブレイスの『権力の解剖』やシュテファン・ツワイクのこの特異な伝記本である。

しかし、この本の苦い味わいが解るようになるには、しばらく後に再読する必要があった。

「優れた人物、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演ずることはまれであって、はるかに価値は劣るが、さばくことが巧みな人間、すなわち黒幕の人物が決定権を握っている」といういう一節は、この本のテーマを語っており、私の政治的軽信を戒めた。

                    ***

上記の記事は、あるタウン誌の「わたしの1冊」という字数のきわめて限られたコーナーに、2001年に書いたものである。

これを書いたずっと前の若いころの私は、人間の価値を多分に知的なものに求め、美的なものに憧れ、芸術的なものを愛した。スポーツはあまりせず、人と交わることもあまり好きではなかった。自然を見つめるよりも人間が創りあげたものに関心があった。旅行にもあまり出ず、世の中に生きている多くの人を俗人と見做して敬意を払うことが少なかった。

そんな私に「有徳と不徳との間に差別を設けず、人間の意志の価値と情熱の強度だけをはかる」などという人間観はあまり縁がないものであった。

若い私は人間の意志の力というものにほとんど関心を持たなかったし、そこに価値を与えることなどほとんど考えもしなかった。

まして「有徳と不徳との間に差別を設けず」に純粋に意志や情熱の強度だけで人間を見たり、評価するなど思いもよらなかった。

有徳な人間は別として、不徳な人間の意志の力や情熱の強度に何の価値があるというのか、そう思う単純極まりない若者だった。だから、本当は文学や芸術なども解っていなかったのだと思う。

実に私は単純、素朴な人間だった。あくまでも「有徳な」人間や「優れた人物、純粋な観念の持ち主」の正義が実現されなければならないし、いずれそれは自然に実現されるだろう、少なくとも世の中は少しずつそうした方向に向かっていくだろう、単純にそう信じて、自らは何も活動しないタイプの人間に見えたに違いない。

だが、21世紀になっても世の中はそうは良くなっていないし、むしろ反対に終末的な様相が世界の各地で見られるようになった。

私は、この本を読んで、人間の意志の力や情熱の強度というのは、この世の中を生きていく人間にとって非常に重要なものだと確認したような気がした。そして、長い間、私にかなり欠けていたのは、有徳であろうが不徳であろうが、これだったのではないかと感じた。

もちろん芸術家にとっても必要なのは何よりも意志の力と情熱の強度なのだ。それこそ有徳不徳に関わらず、その絶対値は決して侮ってはならないものである。

この本の味わいはあくまでも苦い。だからこそ私にはフーシェのような人間の存在をもっと早くから知っておく必要があった。

今、年齢をさらに重ねて、私の政治的軽信は以前にもましてなお一層深く戒めなければならないと思っている。
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