美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術、美術の真贋問題、個人的なつぶやきやメモなどを記します。

中村彝『藝術の無限感』の中のフランス語(続き)

2024-04-29 14:28:40 | 中村彝

 前回は標記の本の中で彝が「物の主眼となるべきレピュテ」と表記しているところ(84頁)の「レピュテ」は、想定されるフランス語の単語が私には思い当たらず、そこで、それは「ピュレテ」または「ピュルテ」の誤植ではないかと述べた。後者の意味だと文脈上、芸術の「純潔さ、純度」を表す言葉となる。そして、これはまさに中原悌二郎の芸術を語るにもふさわしい語句と思うのである。

 今回は明治45年7月27日、彝が相馬リチヤアト(すなわち良・千香子・安雄・愛蔵・俊子の)家族宛てに出した若々しい書簡(153頁)に見られるフランス語を見てみよう。

 旅行先の2番目の宿屋、長野県青木村沓掛の「おもとや」から出したものだ。初日に泊まった「ます屋」はどうやら相馬家から紹介されたものらしいが、彝は「悲惨な部屋に案内されて」しまった。

 「まっくらな、ヒポコンにでもなり相な、カビ臭い室へポツネンと独り取り残された時には、まるで牢屋へでもたたき込まれた様で、息苦しさと、せまくるしさとで怒鳴り出したいくらい苛立ってしまいました。」

 そして翌朝、彝が見つけた「おもとや」は彼の気に入った。

「涼しい六畳の座敷に寝そべりながら、…灰色の雲の影がそろそろとはうて行くのを見ていると、心の底から悠(ひ)ろびろと愉快になって、静かなるもの、ゆるやかなるものに対する極度の多感が、『ラ・ラント・エ・ボー』『ラ・ラント・エ・ボー』と言っている様な気がします。」

 ここで使われている何かフランス語の詩句のような「ラ・ラント・エ・ボー」「ラ・ラント・エ・ボー」というフレーズは、おそらく正確なフランス語ではなく、単にフランス語の響きと意味を借りてきたものと思うのだが、もちろん意味は伝わってくる。すなわち「ゆっくりとした…(女性形名詞に続く)」と「美しい…(同じく男性形名詞に続く)」を単に繋いでいるだけで、その意味と響き(最初に「ラ・ラ…」の響きが欲しかったので女性形となったのだろう)を楽しんでいる。

 ちなみに今日のTwitter(X)で"le lent et beau"で検索してみると、"Le lent et beaux réveil de dame nature…"(「大自然のゆったりとした美しい目覚め」)という、まさに彝が自然の中で味わったであろうような記事が出てくるが、"la lente et beaux"では、何も出てこない。

 次に見るのは「感想その四」(49頁)に出てくるフランス語の一文である。

 Une petite somme est parfois un grand réconfort.

 これは一般には読み違えることはないのだろうが、私には彝がいつも病に臥していたイメージが強く、そうしたことを書いた書簡文も多く読んでいたので、ここに出てくる"une petite somme"を「わずかな眠りでも」の意味に解していた。

 しかし、"un petit somme"なら、それでよいかもしれないが、先の文は女性形なので、「少しのものでも大いなる慰めとなる」の意だろう。

 ひょとしたら、彝も私と同じように「わずかな眠りでも」の意味で書いたのかと思ったが、それは私の勝手な無知な思い込みに過ぎないものと分かった。

 なぜなら、そのフランス語文の前の、4月15日付の断章にはこんなことが書かれていたからだ。

  ただ静慮に依りて、涼味を得よ、

  ただ節食(正食)に依りて滋味を得よ。

  甘味を外に求めて真味を失うこと勿れ。

 このうち、特に「ただ節食(正食)」ではっきり示されているように、これらの語句はすべて"une petite somme"に関連した断章なのだ。すなわち、このフランス語の一文は、その前の4月15日付断章をおそらく要約したもの、もしくはそれに通じたものとして彝が掲げたものであり、本来繋がっているべきものということが分かった。

 

 

 

 

 

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中村彝『藝術の無限感』の中のフランス語

2024-04-28 18:40:21 | 中村彝

 中村彝は、生涯の終わりの頃にテーヌの『藝術の哲学』を和訳した原稿を残しているが、これは公刊されるに到らなかった。(この原稿は、現在、茨城県近代美術館にある。)

 またルノワールが序文を寄せたヴィクトール・モッテ仏語訳のチェンニーノ・チェンニーニ『藝術の書』も訳したが、これは後年、藤井氏による和訳文が補足されて、出版されることになり、今日でも読まれている。

 これは彝が敬愛するルノワールが序文を書いているので、彼は興味を抱いたのかもしれないが、ルノワールが一度古典回帰したように、彼自身も西洋絵画の古典技法を基礎から学んで置きたいと思ったのかもしれない。

 彝のごく若いころのフランス語に関するエピソードでは、後に学者となった多湖実輝が語っていることが思い出される。

 すなわち、明治39年12月、彼は彝とともに静岡県興津の亀島楼に遊んだが、その頃のことを、こう言っている。

 「彝さんの仏蘭西語の力は驚くほど達者なものであったが、此の頃も毎夜私のためにレ・ミゼラブルを訳してくれた。又ミレーの伝記の仏語の本を持って来て読んで聞かせてくれた。」

 さらに大正8年彝が茨城県の平磯に滞在したときには、7月3日の福田久道宛書簡で、「本箱の中のゴーホと和仏辞典(エビ茶色の)」を、チャブ台と一緒に至急送ってくれと述べている。

 このように彼は、留学こそできなかったが、生涯にわたってフランス語には親しんでいたようだ。

 アナトール・フランスの『聖母と軽業師』も読んでいたが、これは原語で読んでいたかどうかは分からない。しかし、特にユーゴーの『レ・ミゼラブル』などはそうとう愛読していたことが分かる。

 実際、彝のこんな断章(新装普及版『藝術の無限感』97頁)がある。

 「心は制し得ても顔色を制することは難しい。眼を制することは出来ても口もとを制することは出来ないものだ。ユーゴーのブルジョン(ブリュジョン)は優しい愛撫的な眼差しを持っていた。然し残忍な微笑を拭うことは出来なかった。」

 しかし、彝が書いている『藝術の無限感』の文章や書簡の中には、その意味がよく解らないようなフランス語もある。

 例えば、中原悌二郎の「女」と「若きカフカス人」を論じた一節に出てきて、そこでの大切な概念となっているカタカナ語「レピュテ」とは何だろう。

 このフランス語風のカタカナ語は、このような文脈に出てくる。

 「物の外観を徹して真の関係を洞察し、物の主眼となるべきレピュテ、例えば距離、深み、密度、融合状態等の如きものを表現しても、そこに何らかの文学的な意味のない限り、彼等にとってはついに単なる写実に過ぎないのだろう。・・・現実の核心に突込むこと、そこに芸術家の全努力と全目的とがあるのではないか。自然を静観し、これらの必然法の中に、美と力と慈光とを認めて、それを渇仰しつつ、僅かにリズムの方法によってそれを表現せんとしても、その作品が完全なる外観を具えない限り、彼等にとっては遂に理想なき写実的努力に過ぎないのである。」

 彝はここで、中原の芸術が、生きた現実に「単に、突込み過ぎた」ものか、理想のない単なる「習作」ようにしか見えない人たちに対して大いに弁護しているのだが、どうも「レピュテ」の意味が分からない。

 確かに「距離、深み、密度、融合状態等の如きもの」は、造形芸術にとって「物の主眼となるべきもの」だが、「レピュテ」をどう訳すべきか分からない。ひょっとしたら、これは誤植か彝の書き間違いではないのか。そこで、一応『藝術の無限感』の初版に当たってみたが、やはり「レピュテ」となっていた。

 しかしながら、今の私に考えられることは、これはやはり初版以来、これを読んできた人たちが、意味曖昧のまま放置してきた誤植ではないかと思う。

 すなわちこれは、「レピュテ」ではなく、「ピュレテ」の誤植か、もしくは今日のカタカナ表現なら「ピュルテ」と書くべきところではないのだろうか。

 というのは、「レピュテ」なる語が出てくる少し前で、彝は「若きカフカス人」について、「手法の明浄、様式の至純」とか「現実を凝視し、実相の本質を啓示して、早くも古典に見るが如き至純なる完璧と渾一に到達した」などと述べているからである。つまり、芸術における「至純さ」、「純潔さ」が強調されており、そこに「芸術の純度」という意味での「ピュルテ」という語が来ても決して不自然ではないと思うからである。(続く)

 

 

 

 

 

 

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中原悌二郎の友人・雨宮雅郷

2024-04-17 11:17:21 | 中村彝

 中村彝や中原悌二郎の文献に掲載されているある写真を見ると、そこに雨宮雅郷なる人物が親しい友人として紹介されていることに気付く。しかし、この人物について、私のまわりの美術に詳しい人たちに訊いてみると、誰も知らなかった。

 そこで、私は少し前にこのブログで「雨宮雅郷とは誰」という記事を書いた。しかし、それ以上のことは分からなかったし、他の人から何の情報の提供もなかった。だが、今回、以下のことが分かったので、報告しておこう。

 雨宮雅郷は、前の記事で書いたように、彝というよりも、悌二郎の初期の日記にその名が見られる友人であり、一方、彝の友人の雨谷美文と混同されることがあった。

 確かにこの二人は混同されやすいのかもしれない。

 実際、悌二郎関連の文献に、雨宮雅郷とすべきところを雨谷美文などと写真の解説などに記されているものがあった。

 雅郷というのは、なんだか日本画家の雅号のようにも見え、日本画も描いていたのかと想像させる名前のように思えるかもしれないが、どうもそうではなさそうである。

 雨宮雅郷は、少なくとも明治44年までは油彩画を描いていたことが、やっと分かった。たとえば、そのころある展覧会に、「荒磯」「自画像」「夕日」といった作品を出品している。が、その画像までは分からない。

 そして、この展覧会に雨谷美文も「冬光」等の作品を出品しているが、その「冬光」では彼が雨宮美文と誤植されていた。

 そのほか今回分かったことは、同姓同名の別人でなければ、雨宮雅郷が、大正元年ころには、四谷区新宿で菓子商を営んでいたことである。その時その菓子商店は開業以来、31年ほど経っていたというから、開業したのは、彼の父母の代であろう。その雅郷氏は、少なくとも大正年間、菓子商であったらしい。

 もし、その菓子商の雅郷氏が、悌二郎たちの友人であるなら、そこに彼自身や、悌二郎らとの交流の何らかの貴重な資料などが見つかるかもしれない。そうした意味で、こうした探究も意義のないことではなかろう。

 

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中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって(2)

2024-04-13 01:41:34 | 中村彝

 小林秀雄が依拠しているドストエフスキー全集は、主に米川正夫の訳文に拠るものらしいので、米川氏と交流があった悌二郎が引用した下記①②③の典拠を、最初はそこから探し求めて確認したかったが、まだ見つからない。

 「①余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。②余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。③多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。」(中原悌二郎「空想的に迄で進んだ写実主義」、引用冒頭の数字はこのブログ筆者によるもの。また、中原の原稿では③の部分が改行されているが、ここではブログ形式の都合で続けて表記している。)

 上記の内容は、ドストエフスキー芸術の本質に関わるもので、彼の芸術における《空想的リアリズム》と呼ばれている特徴を示しているものだ。

 これはもちろん全体として一つのまとまりのある文章としても読めるのだが、三つ別々の出典があるものとしても読める。または、③で改行されているところから、二つの典拠があるものとしても読める。

 中原悌二郎が中村彝の「エロシェンコ氏の像」について、ドストエフスキーの言葉を引用しながら語ろうとした未完の原稿では、①に加えて②の文の途中の「あり得ようか」までが続けて引用されていた。

 そして、小林秀雄の『白痴』に関する最初の論考では、ドストエフスキーの同じ言葉を引用しているが、それは①の部分のみであった。

 先のブログ記事で私は③の部分がドストエフスキーの比較的よく知られているある書簡から取られていることを述べた。そして、その書簡には、①と②の部分はないとも書いた。

 それなら①と②の部分はどこから取られたのだろうか。そこで調べてみると、ドストエフスキーの厖大な『作家の日記』の中のある箇所に次のフレーズがあることが分かった。

 「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」、これである。

 そしてこのフレーズの少し前に「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」というフレーズがあることも分かった。(訳文の引用は、新潮社版の『ドストエフスキー全集』に拠る。)

 だが、果たして、これらは悌二郎が引用した①の部分の典拠なのだろうか。

 因みに、上の訳文での「幻想的」と「空想的」とでは、明暗の違いが著しく、日本語のイメージではかなり異なるが、(英語で言えばおそらくファンタスティックで)、これは文脈によって翻訳者がどの語彙を選ぶかにかかっている。であるから、ここでは取り敢えずは問題なかろう。「美術」と「芸術」の語も同様であるが、先の新潮社版では芸術一般というよりも明らかに美術を指しているので、訳者は「美術」としたのだろう。

 しかし、『作家の日記』のこれらの部分が、悌二郎が引用した①の典拠であると考えるのは、やっと探し出したのだが、かなり躊躇われる。

 なぜなら、「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」から「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」までの間には多くの文が入っているし、「まぎれもない云々」は、実は括弧内に見出されるフレーズなのである。しかも②の部分へとは繋がっていない。

 それなら、それはひとまず措いておき、先に悌二郎が引用した②の部分はどこにあるのかを探ってみよう。

 すると、これも調べてみると実は、『作家の日記』のそれより以前の個所(1876年3月)にこんな部分があることに気づく。

 「現実は退屈で単調であるといつも人は言う。気晴らしのために人は芸術や空想(ファンタジー)に頼ろうとし、小説を読むのである。私にとっては話は逆だ。ー現実よりもファンタスチックで、意外なものがあり得ようか?時には現実よりもさらにもっと途方もないものがあり得ようか?」(訳文は同上)

 上記の後半部分は確かに②の趣旨とほぼ合致している。ほぼ合致しているが、もちろん同一でなく、しかも①とは繋がっていない。むしろ、『作家の日記』ではこちらが先に出てくるのである。

 それなら、悌二郎は『作家の日記』のそれぞれの部分を自分で自由に繋ぎ合わせて先の小論「空想的に迄で進んだ写実主義」に、①②として、引用したのだろうか。

 だが、悌二郎が厖大な『作家の日記』を読んで、そこから部分と部分を繋ぎ合わせて①と②の文章を作ったとまでは、想像できない。しかし、いずれにせよそれらは、バラバラではあってもドストエフスキーの言葉であるから、その思想は通じてはいよう。が、それらの幾つかの部分をわざわざ繋いで悌二郎の引用部分の直接の典拠とするにはかなりの無理がある。

 やはり、更にドストエフスキーに関する他の文献に当たって探すべきではなかろうか。

 すると、シュテファン・ツヴァイクが、その著でドストエフスキーを引用したこんな文章に出会った。

 「『①私はリアリズムを、空想的なものに達するほどまでに愛している。というのは、②私にとって現実以上に空想的なもの、思いがけないもの、現実以上に非現実なものが、いったいあるだろうか』とドストエフスキー自身が言っている。」(冒頭の数字はブログ筆者のもの。訳文の引用はみすず書房版の『ツヴァイク全集5』に拠る。)

 このツヴァイクの引用における①の訳文の文法構造は、問題の引用における①とは、若干異なって見えるが、意味的には本来、同じものと見てよいであろう。しかもこれは、先の悌二郎の引用部分における②とも完全に繋がっている。

 こうしたことから、悌二郎が引用した部分の少なくとも①と②とはもともと繋がっており、別々のものではなかった、ということが言えると思う。

 悌二郎は、ツヴァイクが引用したのとおそらく同じドストエフスキーの文章、すなわち①と②とが繋がっているドストエフスキーの文章を何かで読んで、かなり気に入り、自分のノートにメモしていたのではなかろうか。

 そして、ストラーホフ宛の書簡から取られた③も、改行して、そのノートに書いたのではなかろうか。

 いずれにせよ、①と②の文とが繋がって書かれているドストエフスキーの文章は、確かに別に存在すると見てよいだろう。

 つまり、先に見た『作家の日記』における諸部分からのものは、悌二郎の引用の直接的な典拠とまでは無理して言う必要はない。(続く)

 

 

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中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって(1)

2024-04-11 09:12:33 | 中村彝

 中村彝の代表作「エロシェンコ氏の像」(大正9年作)について、親友の彫刻家である中原悌二郎がドストエフスキーの言葉を借りながら語ろうとした未完の原稿がある。しかし、これは、彝の研究者たちにはあまり知られてないようである。文献等に引用されることも、きわめて稀である。ただし匠秀夫の中原悌二郎についての基本文献『中原悌二郎 その生涯と芸術』には、彝のこの作品を語るに当たって引用されている。

 そのドストエフスキーの言葉とは以下のようなものである(旧漢字、仮名遣い等は改めた)。

 「余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか」(『彫刻の生命』「中村彝氏の『エロシェンコ氏の肖像』を見て」より)。

 実は悌二郎、このドストエフスキーの「空想的にまで進んだ写実主義」という言葉を「実に面白い」と感じていた。

 というのも、ロダンの芸術を語る際にも、悌二郎はこの言葉を好んで引用しているからである。しかも、そこでは他のフレーズも付け加えられている。

 「余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。ードストエフスキー」(上掲書「空想的に迄で進んだ写実主義」より)

 大正期の芸術家である悌二郎は、彝の代表作とロダンの芸術を語る際に、今日、ドストエフスキーのリアリズムの本質を語る際に極めて重要な概念となっている「ファンタスティック・リアリズム」の概念を好んで用いていたのである。それが重要な概念だということは、例えばマルコム・V.ジョンズの"Dostoyevsky after Bakhtin"(1990)などの著書を見ても分かる。

 悌二郎のこの引用は、日本におけるドストエフスキー受容史の中でも注目されることと思われるが、それは本稿の目的ではないから、ドストエフスキーの研究者に任せるほかはない。

 しかし彼は、そもそも先の引用をドストエフスキーの如何なる文献から取ってきたのであろうか。そのことだけでも確かめたいと思って、いくつかの文献を探ってみたが、まだその完全な解決には至っていない。ただ、悌二郎がドストエフスキーの言葉として掲げたこと、そのこと自体には誤りがないことは確かめられた。どういうことか?

 何しろドストエフスキーの文献資料は厖大で、今なお新たなドストエフスキー全集の編纂がロシアでも進んでいるような状況らしいので、日本語訳の「全集」にその出典が見つかるという保証はない。しかし悌二郎がロシア語の文献などからこれらの言葉を見出したとは考えられないから、日本語文献からの引用とするなら、彼が活動していた時代の評論、翻訳などを含む何らかの文献にこのような言葉が載っているはずだ。

 もしくはここで忘れてはならないのは、彼が旭川出身で、元来文学好きでもあり、旭川でロシア文学者の米川正夫と出会い、親交が古くからあったことである。すなわち米川氏から悌二郎がドストエフスキーの言葉を直接に教示されている可能性もあるのだ。もしそうだとすると、なお厄介である。確かめる手立てがなお困難となるからである。しかし、前者の記事で悌二郎は「何かの本で・・・読んだことがある」と言っているので、やはり文献から探し出すのが順当だろう。

 今のところ私に分かったのは、先の引用のそれぞれ異なる部分、部分の出典に過ぎない。すなわち、それらの部分、部分をつなぎ合わせると、悌二郎が掲げたドストエフスキーの言葉になるという程度で、完全な解決には到っていない。もちろん、匠氏の文献にも悌二郎が引用した出典は示されていない。

 「①余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。②余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。③多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。ードストエフスキー」

 私が最初に分かったのは上記のうち③の部分だ。これは、ドストエフスキーの書簡の中に見出せる。すなわち、1869年2月26日のストラーホフ宛書簡にこの一節がある。ただし、それは①と②に繋がっているわけではない。

 次に私が見出したのは小林秀雄がドストエフスキーの『白痴』を語るに当たって引用している①の部分だ。しかし、その典拠は示されていない。小林は米川氏の『ドストエフスキー全集』に依拠しているらしいから、そこに手懸りがあるのかもしれない。(続く)

 

 

 

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