美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の洲崎義郎宛書簡、2通の手紙の共通性と連続性(訂正版)

2024-05-31 19:23:30 | 中村彝

 中村彝の洲崎義郎宛書簡において「おばさん」とか「をばさん」などは、岡崎きいを指すことが多く、「婆や」などに類する表記は土田トウを指すことが多い…

 しかし、大正9年1月21日の伊原弥生宛ての書簡における「去年いらした時に居た婆や」は例外的に岡崎きいを指しているように思えるかもしれないが、そうではない。すなわち「持病の腎臓病がひどくなって、十日許り前に倒れたので…一昨日…入院させました」と彝の書簡にあるのは、岡崎きいのことではない。おそらくは土田トウとも別人の婆やであるから、紛らわしい。(ただし新潟県立美術館の研究紀要では、これをトウとしている。)

 一方、先の同じ手紙で土田トウのことも「今明日中に越後の友人(洲崎)がばアやを連れてくる」と《ばアや》と述べている。

 このようにオバサンとかバアヤを巡る彝の手紙は時にややこしい。

 平磯滞在の時の手紙にも彼女らとは異なる《バアヤ》が出てくるが、これは場所が違うので誤解されることはないだろう。

 ところで、大正9年4月7日の書簡に「丁度今国から来る筈になって居る女中(御ばさんの身よりの人)があって」という記述がある。この「(国から来る筈になって居る)女中」は、洲崎が恐らく斡旋して知らせてくれた「小供(のような年端もいかない女中)」と勝ち合ってしまったが、翌々日の彝の葉書から推定されるように、結局は来なかったようである。それでこの時、彝は「小供」を「お願いします」と4月9日に洲崎に書いているのである。

 『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)で大正9年9月20日とされている書簡(このブログ記事では同年2月20日と推定する)に書かれている「水戸の女中は駄目になりました」と書かれている「水戸の女中」は、同年4月7日の葉書に書かれてる「丁度今国から来る筈になって居る女中(御ばさんの身よりの人)」と同一人物か否かは不明であるが、仮に同一人としても、結局何れの機会においても、彝の画室には来なかった。

 さてこの手紙(1)の日付が、大正9年9月20日でなく、大正9年2月20日に訂正されるべきことは、同年2月25日とされる書簡(2)との内容的な連続性から以下のように証明される。

 すなわち、(1)の手紙の後半部には次のようなことが話題となっている。

①福田(久道)君の誠意を信じて欲しい。

②婆ヤ(土田トウ)に暇をやることにした。彼女に自分の感謝を伝えて欲しい。

③明日から金平が来るはずになっている。

④水戸の女中は駄目になったので、女書生募集の広告を出すことにした。

⑤一昨日、塩井雨江の娘が弟子入りを申し込んできた。

 そして(2)の手紙にはこんなことが書いてある。

①バアヤはいなくとも、堪えられるだけ堪えてみる。

②金平はなぜか来ないが、病気かもしれないので置き手紙をした。

③大工の棟梁で画家志望の人が昨日からきて、勝手の方をしてくれている。

④女書生の広告を新聞紙上で見たが、これでは駄目だと「直覚」した。

⑤福田君に出した君の手紙は拝見した。彼が君の誠意に報いるに「軽浮なる『御座なり』を以てした」のは遺憾だ。それは君に対する遠慮や虚飾が禍したのかもしれないが、彼には自省を促したい。 

 以上、バアヤ不在のこと、金平のこと、女書生募集の広告のこと、そして何よりも福田久道と洲崎との関係について彝の心配と配慮が、これら2通の手紙の内容に共通しており、かつ、それらの連続性が認められるのである。よって、(1)の手紙は、(2)の手紙の直前、5日前に書かれたものと認められる。


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中村彝の洲崎義郎宛書簡、「小供をお願いします」とは?

2024-05-31 15:44:34 | 中村彝

 中村彝の大正9年4月7日の洲崎宛葉書に「小供は前々からの希望で実に結構ですが」とか同年同月9日の葉書に「小供をどうぞお願いします」というフレーズがある。ここに出てくる「小供」とはどういう意味だろうか。

 ここに出てくる「小供」とは、葉書の文脈から想像するほかない。

 「御手紙をありがとう御坐いました。小供は前々からの希望で実に結構ですが丁度今国から来る筈になっている女中(御ばさんの身よりの人)があって、今明日中に先方へ返事を持って決定する筈になって居る為めに早速御返事出来ないのを残念に思いますが遅くとも明日中には必ず返事がある筈ですからその上で早速御答致します。何時もこういう風にいい女中のある時には必ず運悪くぶつかるので弱ります。…」

 この葉書の文脈は、なんだかごてごてして混み入っており、漫然と読んでいると何を言っているのかよく解らないが、要するに言葉を補って読んでみると、こういうことだろう。

 「御手紙をありがとう御坐いました。小供【の件】は前々からの【私の】希望で実に結構ですが丁度今国から来る筈になっている女中(御ばさんの身よりの人)【の別件】があって、今明日中に先方へ【提示した条件などの】返事を待って(※「持って」というのは誤植だろう)決定する筈になって居る為めに早速【あなたに】御返事出来ないのを残念に思いますが遅くとも明日中には必ず【先方からの】返事がある筈ですからその上で早速【あなたに】御答致します。何時もこういう風にいい女中の【話が】ある時には必ず運悪くぶつかるので弱ります。…」

 こういうふうに文脈を補って読んでみると「小供」というのは「年端もいかない若い『女中』」を意味しているのだと思われる。

 すなわち彝は洲崎から「小供」(若い「女中」)の打診があったが、おばさん(岡崎きい)の身よりの人である「国から来る筈になって居る『女中』」からの明日の返事を待って、「小供」の受け入れを決めるということである。

 そして明後日の洲崎宛の葉書で彝は「小供をどうぞお願いします。なるべく早くお願いします」と書いているので、「国から来る筈になって居る女中」の話は不発に終わったことが想像される。

 因みに『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)において大正9年9月20日とされる書簡(84頁)で、「水戸の女中は駄目になりました」と言及されている「女中」は、同年4月7日に言及されている「女中(御ばさんの身よりの人)」と同郷と見られるが、同一人かどうかは不明である。また、『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)の大正9年9月20日とされるこの書簡は、先にこのブログで指摘したようにその日のものでは有り得ず、同年2月20日のものと考えられる。

 

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中村彝の洲崎義郎宛書簡、肖像画の本質

2024-05-28 12:05:53 | 中村彝

 中村彝の洲崎義郎宛書簡、新潟県立近代美術館の『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)で大正9年9月20日の書簡ーこのブログ記事では同年2月20日ではないかと前回に提示ーに、彝が描いた洲崎義郎の肖像画について、曽宮一念が「この肖像画は…昨日僕が見た洲崎さんとは少しも似て居ない様な気がする」と率直に批判したことまで前回の記事で書いた。

 この曽宮の批評については、これまで様々な解説書の類で取り上げられることはあまりなかったように思う。それは、なぜか。
 それは、曽宮の批評とそれに対する彝の反応がやや混み入っており、この作品への評価や解説を単純化できず、作品の質をうまく説明できなくなるからではないか。

 洲崎義郎を描いたこの肖像画に、曽宮は「あの寂しい女性的な優しさがこの顔には見られない」と遠慮なく彝に疑問をぶつけてみた。
 顔が似ているとか似ていないとか、これは一見絵を描かない素人の批評のように見えるが、肖像画の本質(肖似性)を考える上でこれは必ずしもそうではないのである。
 実際、それに対して彝は曽宮の言葉を否定しなかった。自分もその曽宮の言葉を聞いて瞬時に「涙の滲み」で眼が痛むのを感じた。

 「僕も亦その時、昨日見た君(洲崎)の眼を思い出して居たのです。そして…その幽欝と孤独の近因がどこにあったかを探し求めながら言い知れぬ悲しみに襲われて居たのでした。それで僕は(曽宮に)言いました」と述べ、彝の考える肖像画についてこう語る。(※「幽欝」は手紙の原文のまま)
 「肖像(画)は描く人の鏡のようなもの」で画家の心がモデルの心に投影して「それが又画面に写される」。「つまり実在が(画家の)心に色づけられる。なぜなら人の心は常にその接するものに従ってその色んな層を表すのだからあの人は結局かくかくの人であると限定することは出来ない。」
 しかし本当に偉大な作家は、「こちらの心を相手に投影する前に先ずその人の運命と性格とを深く洞察してそれに無限の同情と、敬畏とを持つものではなくてはなるまい」と。(※敬畏は手紙の原文のまま)

 そして彝はついに告白する。
 自分は以前から君の顔に「消す事の出来ない一種の悲しみがある」のを気にしていた。が、「描き出すや否や…君の顔に『かたく自己を信じ人間の《性と望み》とを信ずる血気な青年の生き生きした心』の躍る」のを見てしまった。実際それが彝にとってその時、彼に映じた洲崎の姿だったからだろう。
 すなわち彝は、洲崎の心に悲しみや孤独感があることを気にしながらも、また「真の人間的な接触を許されない」彼の運命を「絶えず考えていた」にもかかわらず、眼前の洲崎の「愛焔が雄々しく燃えさかる勢い」の中で、「丸で牡牛の様な君」を描いてしまったと言うのだ。

 「真の人間的な接触を許されない」洲崎の運命とは何なのか、この書簡からは定かではない。が、いずれにせよ彝は洲崎の肖像を、悲しみが宿る人間としてではなく、堅固な信念と血気な「牡牛」のような青年としてここで表現しているのだ。しかしそれは決して「真の見方」ではなかったと振り返っている。

 「君の絶えざる悲しみ、君の慈悲の涙、生きながら葬られ勝ちな愛の苦しみは、おそらく君の一生を通して避くべからざる重荷でなければならない。そうでなくて何でこの様に、この間の一寸した君の沈み顔が、この様に僕や曽宮君やの心を打つ筈があろう。…今度君を描く時には、どうかして君のこうした一面を強く、はっきりと描き表し度いと思うのです。」

 「君の絶えざる悲しみ、君の慈悲の涙、生きながら葬られ勝ちな愛の苦しみ」とは、彝自身の心の中を思わせる言葉でもある。ここに彝と洲崎の心が重なり合うのを見る。だが、次にそうした肖像画が描かれる機会は遂に来なかったのである。

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中村彝の洲崎義郎宛書簡、弟子入りした塩井雨江の娘

2024-05-28 11:48:46 | 中村彝

 大正9年9月20日の洲崎義郎宛書簡も1997年の新潟県立近代美術館での展覧会で紹介されたきわめて興味深い書簡である。だが、やはりその与えられた日付は、再検討しなければならない。
 この書簡には塩井雨江(1869‐1913)という「文学士」の名前が出てくる。そして、彼の娘(独身)を彝は「一昨日面白い人が弟子入りを申し込んできました」と書いている。「実は年四十を超え、絵を初めてから既に二十余年にもなろうと言う…迚も奇抜極まる、画狂です…」と紹介している。

 塩井雨江は、『於母影』の訳者・落合直文に師事し、日本女子大などの教授になっており、詩人・文学者として知られている。雨江の妹が、雨江の友人・大町桂月の夫人になった塩井長で、雨江の娘が彝に絵を習いに来た「塩井さん」である。

 さて、この手紙の末尾には確かに二十の日付が書かれているが、なぜそれが大正9年9月の20日になるのであろうか。

 「塩井さん」という名前は、すでに大正9年4月1日や同年5月3日の洲崎宛書簡に出てきている。従って、これら2通の書簡の日付が誤っていない限り、「一昨日」に当たる9月18日に雨江の40歳を過ぎた娘が弟子入りして来たと報告するのはおかしくないか。

 また、この手紙には明日から金平が来ることになっていると書いている。「水戸の女中」は駄目になったので、新聞に「取り敢えず女書生募集の広告を出す事にしました」と。
 そして「女書生募集の広告」に関連した事柄は、大正9年2月25日の手紙にも書かれているのである。

 更に問題の手紙には、「婆ヤは、実婦危篤との報によって急に暇をやる事にしました」とも書かれている。ここに書かれている婆ヤとは1月下旬に彝の所に洲崎が連れて来た土田トウのことと思われ、おそらく彼女は2月20日ころまでには柏崎に帰ったはずである。(※文中の「実婦」は意味不明であるが、「婆ヤ」の旦那となっている人の本妻ということか。)

 こうした事実を辿っていくと、この手紙はおそらく大正9年2月20日に書かれたのではないかと思うのである。
 
 ところで、この書簡の前半には彝が描いた洲崎義郎の肖像画についての曽宮一念の興味深い感想と、彝の考える肖像画論が書かれている。

 「君達が帰ると翌朝早く曽宮君がやって来ました。そして、あの君の肖像画をわざわざ引っ張り出して、何時までも何時までも、しげしげと見守って居ります。…すると突然曽宮君が言うには、『この肖像画は今まではよく洲崎さんに似ている居ると思ったがしかし昨日僕が見た洲崎さんとは少しも似て居ない様な気がする。あああの寂しい女性的な優しさがこの顔には見られない。』それを聞いた僕は『涙の滲み』で眼が痛むのを感じた。」(続く)
 

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中村彝の洲崎義郎宛書簡、その時の喀血と未完成作品

2024-05-27 18:59:12 | 中村彝

 今回検討するのは『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(新潟県立近代美術館、1997)で、大正9年7月5日とされている書簡である。

 これには、なぜかこの手紙の前に出した手紙の内容について彝は先ず書いている。前の手紙が届かなかったのであろうか。

 「多分一四日か五日の日に御手紙を差し上げた筈ですが、そしてそれには七日の日一六日の夜に少しばかりブラッドを出したので絵は未成のまま出品して終った」こと、その後は「多少のブラッド」はあるが経過は極めてよいとか、「例の丸善の本の事と、よくなり次第(そこに)行ってみる」ことなどを書いたはずだと。

 しかし、この内容をよく読んでみると、14,5日に出した手紙に、なぜ16日夜のブラッドのことが書いてあるのか意味不明である。これは、おそらく「7日の日、6日の夜」の読み間違いではなかろうか。

 次に、彼は前の手紙の内容を書いたのち、「画面全体の統一と効果に向かって著しく過敏になっている」自己の精神の高潮を語っている。

 この言葉は大正4年6月1日の書簡に見られる「統一から来る自由と充実とが次第に画面を支配するようになりました」という言葉を思い出させるから、その頃か、それに近い頃の彝の探究を示す言葉に符合する。

 また、重要なのは、「昨日は一寸よかったので文展を見ました」という見逃せない記述である。

 これによって、彝が帝展を文展と書き間違えたのでない限り、この書簡は当然、大正9年のものとはなり得ない。しかも、いずれにせよ、それが7月5日というのはあり得ない。そして彝は大正6、7の文展、大正8年の第1回帝展には出品できなかった事実もある。従って、それらの年の手紙ではない。

 すると、大正4,5年頃の手紙の可能性が思い浮かぶ。

 「その後私の知らない処で幾多の変遷がありました」と「俊子の問題」に触れているのも、大正9年というのは遅きに失している。

 彝の知らないところでその問題の変遷があったというのは、おそらく大正5年ころに最も相応しい語句である。

 大正8年4月30日の書簡が語っているように、彝は俊子の結婚については、その前日の29日に知った。最初は非常に驚いたけれど、「三年以来の極端な自己抑制と無干渉とを考え合わせると、寧ろこうなるのが当然だという気がして来て」と述べている。

 すなわち、彝は、しばらく事が複雑になリ過ぎるのを避けて俊子の結婚も知らないほど、「三年来」あえて無干渉の態度をとってきた。

 つまり、「私の知らない処で」の俊子の問題での「変遷」(これはもちろん俊子の結婚を意味するものではない)があったと書いても不自然でないのは、大正4年では自らが問題に関与していたから早すぎ、大正5年の夏から秋ごろ以降なら妥当する。

 丸善の本の話題も、大正5年ころのエピソードを思い出させる。

 こうして見てくると、この書簡は、やはり大正5年の文展開催時のころの彝の状況と合致しているように思われる。実際、この年に出品した「田中館博士の肖像」は、好評を博した作品なのだが、実は未完成の部分もあったし、「裸体」の方も10月2日時点で「間に合いそうにない」と心配している葉書もある。

 病状についても、大正5年10月13日に多湖実輝に出した葉書があり、それによれば、「僕は近来悪い習慣がついてチョクチョクブルをやるので弱っている。先週も火曜の日に非道くやッつけて終った」とある。
 大正5年10月13日は金曜日で、その前の週の火曜日となると10月3日となり、6日の夜のブルには合致しない。だが、6日の夜の頃まで「ブラッド」が酷かったと考えれば矛盾がないわけで、彼の病状も大正5年10月上旬に合致していると言えるだろう。

 以上のようなことから、この手紙は大正9年7月5日のものでは有り得ず、それよりもずっと前の大正5年10月の文展開催時(10月16日、17日以降)のころのものと考えるのが相当と思う。

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