中村彝の洲崎義郎宛書簡において「おばさん」とか「をばさん」などは、岡崎きいを指すことが多く、「婆や」などに類する表記は土田トウを指すことが多い…
しかし、大正9年1月21日の伊原弥生宛ての書簡における「去年いらした時に居た婆や」は例外的に岡崎きいを指しているように思えるかもしれないが、そうではない。すなわち「持病の腎臓病がひどくなって、十日許り前に倒れたので…一昨日…入院させました」と彝の書簡にあるのは、岡崎きいのことではない。おそらくは土田トウとも別人の婆やであるから、紛らわしい。(ただし新潟県立美術館の研究紀要では、これをトウとしている。)
一方、先の同じ手紙で土田トウのことも「今明日中に越後の友人(洲崎)がばアやを連れてくる」と《ばアや》と述べている。
このようにオバサンとかバアヤを巡る彝の手紙は時にややこしい。
平磯滞在の時の手紙にも彼女らとは異なる《バアヤ》が出てくるが、これは場所が違うので誤解されることはないだろう。
ところで、大正9年4月7日の書簡に「丁度今国から来る筈になって居る女中(御ばさんの身よりの人)があって」という記述がある。この「(国から来る筈になって居る)女中」は、洲崎が恐らく斡旋して知らせてくれた「小供(のような年端もいかない女中)」と勝ち合ってしまったが、翌々日の彝の葉書から推定されるように、結局は来なかったようである。それでこの時、彝は「小供」を「お願いします」と4月9日に洲崎に書いているのである。
『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)で大正9年9月20日とされている書簡(このブログ記事では同年2月20日と推定する)に書かれている「水戸の女中は駄目になりました」と書かれている「水戸の女中」は、同年4月7日の葉書に書かれてる「丁度今国から来る筈になって居る女中(御ばさんの身よりの人)」と同一人物か否かは不明であるが、仮に同一人としても、結局何れの機会においても、彝の画室には来なかった。
さてこの手紙(1)の日付が、大正9年9月20日でなく、大正9年2月20日に訂正されるべきことは、同年2月25日とされる書簡(2)との内容的な連続性から以下のように証明される。
すなわち、(1)の手紙の後半部には次のようなことが話題となっている。
①福田(久道)君の誠意を信じて欲しい。
②婆ヤ(土田トウ)に暇をやることにした。彼女に自分の感謝を伝えて欲しい。
③明日から金平が来るはずになっている。
④水戸の女中は駄目になったので、女書生募集の広告を出すことにした。
⑤一昨日、塩井雨江の娘が弟子入りを申し込んできた。
そして(2)の手紙にはこんなことが書いてある。
①バアヤはいなくとも、堪えられるだけ堪えてみる。
②金平はなぜか来ないが、病気かもしれないので置き手紙をした。
③大工の棟梁で画家志望の人が昨日からきて、勝手の方をしてくれている。
④女書生の広告を新聞紙上で見たが、これでは駄目だと「直覚」した。
⑤福田君に出した君の手紙は拝見した。彼が君の誠意に報いるに「軽浮なる『御座なり』を以てした」のは遺憾だ。それは君に対する遠慮や虚飾が禍したのかもしれないが、彼には自省を促したい。
以上、バアヤ不在のこと、金平のこと、女書生募集の広告のこと、そして何よりも福田久道と洲崎との関係について彝の心配と配慮が、これら2通の手紙の内容に共通しており、かつ、それらの連続性が認められるのである。よって、(1)の手紙は、(2)の手紙の直前、5日前に書かれたものと認められる。