美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の洲崎義郎宛書簡(大正9年1月18日)《きい》か《トウ》か、それとも…(続き3)

2024-06-18 11:53:10 | 中村彝

 中村彝の洲崎義郎宛、大正8年6月18日の書簡で、彝はそこに出てくる婆やを、「奴」とか「彼奴」などとも呼んでいると述べたが、実は、大正9年1月18日の書簡でもそこに出てくる婆やを《ばァや》のほかに、《奴》と《彼》と呼んでいる。

 「奴が倒れてから…『自分のと彼の分』とを三度三度始末するのは僕にとって可なりの重荷の様な気がする。」

 この婆やは、「可愛い、偏屈な」婆やであり、腎臓病で倒れ、実家に帰れない事情があるので、彝に入院の心配をさせることになった。(因みにこの婆やが《きい》なら家に帰れない事情などない。)そして彼女が病院で「癒るか死ぬか、出来る様に」と彝に祈らせることになった。

 先の書簡(大正8年6月18日)の婆やも自ら「不行届で病身」であると言い、ヒステリー持ちで、「暇を呉れ」とか「出るの入るのと」彝を悩ませていた。

 おそらくこの二つの書簡に出てくる婆やは、同一人物なのではなかろうか。

 ところで彝のアトリエでの「洲崎義郎の肖像」制作を見ていた人物がいた。その人は、やはり鬼山と言った。鬼山米吉である。川崎久一氏によると彼は明治23年生まれで昭和49年に亡くなった。

 彝の書簡、大正8年7月15日の洲崎宛に「鬼山君の研究所入学につい色々御問合せでしたが…」とあるのは、彼が家業の和菓子屋を捨て、確かに画を描きたいという願望があったことを示すものだ。しかし彼は、志半ばで2,3年後には帰郷し、ペンキ屋を開業したという。

 この「鬼山君」と、大正10年2月5日の手紙に出てくる「丁度鬼山のバアサンの様に…」の「鬼山のバアサン」とはどのような関係かはっきりとは分からないが、親戚・家族関係にある人かもしれない。

 とすれば、洲崎の肖像画が描かれた前後に彝の所に奉公していたバアヤ、すなわち、大正9年1月18日と大正8年6月18日の書簡に出てくるバアヤというのは同じ人であり、この鬼山のバアサンのことではなかろうかと思われるのである。

 「鬼山君」が、洲崎の口添えで彝の画室に入れたのも、あるいは、このバアヤが既に彝のアトリエに奉公していたからかもしれないと想像できる。

 もしそうなら、ヒステリー持ちのバアヤは、少なくとも大正8年6月18日の2,3か月前から、時には神田のオバサンが来て「苛められ」つつも、また、彝の平磯行前には匙を投げられそうになり、いったんは帰郷したかもしれないが、おそらくは洲崎の肖像画が描かれた頃には、(再び)画室で奉公していたのではなかろうか。そして、大正9年1月18日頃、腎臓病が悪化して入院するに至ったと思われる。

 以上が、大正8年から9年にかけての一連の関係書簡から《バアヤ》について推測できることである。

 

 

 

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中村彝の洲崎義郎宛書簡(大正9年1月18日)《きい》か《トウ》か、それとも…(続き)

2024-06-18 11:34:30 | 中村彝

 前回のこの記事で、標記の大正9年1月18日の書簡に出てくる腎臓病で倒れた「ばァや」は、「きい」ではなく、土田トウでもないとすれば、それは「鬼山のバアサン」に当たる可能性があると述べた。

 《きい》でないことは、正にこの書簡の存在によって、証明される。ここには、《きい》が「神田の『オバサン』」として語られているからだ。しかし、腎臓病の《ばァや》は土田トウでもないと思われる。《トウ》は、20日過ぎに洲崎が上京して連れてきた《ばァや》と思われるからだ。

 いまのところ柏崎のばァやとして可能性があるのは、名前が知られている人としては、「鬼山のバアサン」しかいないのだ。だが、本当に彼女が柏崎から上京していたかどうかは分からない。

 しかし、いずれにせよ上京していたとすれば、1月13日以前からであることは、手紙の内容から分かる。

 この問題を考える上で、実は、興味深い別の書簡がある。この書簡は『藝術の無限感』には含まれていないが、すでに公刊されている。それは大正8年における彝の平磯行の前に書かれた書簡(6月18日)である。

 彝の平磯行の要因の一つとして、川崎久一氏が既に指摘しているように、「ヒステリー的カンシャクを起こす」ある《バアヤ》の存在があった。

 しかし、川崎氏はこの《バアヤ》を、彝としばしば衝突を起こした気性の激しい《きい》であると、あまり検証することなく述べている。そして優しく親切な《トウ》と対比的に記述する。だが、そうすると、この6月18日の書簡に「オバサン」として出てくる人は誰なのかという疑問が、ここでも出てきてしまうのである。

 すなわち、6月18日の書簡に出てくるヒステリー持ちの《バアヤ》は、「あなた(=彝)が死ぬとオバサンが来て又苛めにかかるから」と彝に言ったのであるが、このオバサンこそ神田のおばさんであり、《きい》のことではないか。彝はここでも《きい》を「婆や」と呼ぶのでなく、いつもの通り、「おばさん」と呼んでいたのだと思う。そうすると、ここにも《きい》でもなく、《トウ》でもないバアヤが彝のアトリエにいたことになる。しかもこの人は書簡の内容から、少なくとも2,3か月前からいたのである。

 それは誰なのか。

 既に彝の平磯行前からアトリエにいて、「不行届で病身」であり、「出るの入るの」と彝を悩まし、「若し私が病みついたりした時御世話してくれるか、どこへでも(病院の意)入れて手当てしてくれるか」と同じ病人の彝に「虫のいい要求」をし、しかも「給金」も貰っているバアヤは誰なのだろうか。

 彝は彼女のことを、この書簡の文脈の中で《奴》とか《彼奴》とか、呼んでいることも注目されよう。

 「奴が恐ろしいヒステリーを起こして器物を蹴飛ばしなげ散らかした」とか「奴の不安焦燥狂乱の原因」とか「彼奴が餘り夢を見過ぎて居る」とか厳しく批判し、小熊虎之助の影響かどうか、彝は彼女のヒステリーの原因も分析しようとしている。(続く)

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中村彝の洲崎宛書簡(大正9年1月18日)《きい》か《トウ》か、それとも…

2024-06-16 11:28:08 | 中村彝

 大正9年1月18日に書いたと推定される中村彝の書簡は、その内容がきわめて重要なものながら、『藝術の無限感』にも、1997年の『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(新潟県立近代美術館刊)にも載っていない。

 しかし、この書簡は、新潟県立近代美術館の『研究紀要』第16号(2017)に掲載されており、ネット上でも見られる。こうした寄贈された貴重な書簡(20点)が、松矢国憲氏により、他の関連書簡と共に紹介されている意義は大きい。ただ残念なことに、書簡資料の写真図版は小さく、PC上で拡大しても、文字を判読することは、かなり難しい。そのため検証はできないが、それでも文脈から明らかに誤読か誤植と思われる箇所が散見される。しかし書簡の内容は摑める。

 書簡を読んでみると以下のようなことが書いてある。

①5日ほど前から「ばァや」が発病して、寝込んでいる。持病の腎臓病が悪化し、寒さと感冒が加わり、「死の転機」を見るかもしれないと恐れた。

②気の毒だが、自分も病気なので、面倒見られない。金平君に頼んで、慈善病院への入院を交渉させた。

③実家に帰らせるのは、彼女が家族から「憎悪と唾棄」の対象になっているので、難しい。帰らずに済むように、病院で「癒るか死ぬか出来る様に」祈っている。

④「可愛い、偏屈なばあや。お前の病弱と老と無力とは、次第にお前の頑固をほどいて漸く人生の会得に導きつつ、お前の魂に初めてのすがすがしい喜びと輝かしい自由とを蘇生らせかかって居たのに、ああこれからは、その同じ病と老と無力とが再びお前を運命の針の床へ追い込もうとして居る様に見える。」

⑤「ばァや」がいなくなった後は、神田の「オバサン」が押しかけてきそうだが、これは「不自由と苦痛を忍ぶ以上の苦痛なので…この親切だけは断じて」拒絶したい。

⑥しかし、新たな女中を見つけるのに窮している。(そこへ)貴兄の電報を拝見してとても喜んでいる。

 以上のような内容だが、何だか③のように残酷にも見える表現がある。また、この書簡はもちろん洲崎宛だが、「ばァや」に直接呼びかけるような印象的なフレーズもある。それが④である。そして⑤のような、意外に見える彝の思いが記されている。

 この書簡から分かることがある。

 すなわち、ここに書かれている「ばァや」とは、岡崎きいのことではない。なぜなら神田の「オバサン」こそ彼女だからだ。腎臓病で入院した「ばァや」を《きい》としている詳細な年譜があるが、この書簡に従うなら、それは訂正しなければならない。その年譜では《きい》が腎臓病で倒れて入院したので、20日過ぎに洲崎が土田トウを柏崎から連れてくると記されている。

 ではこの書簡における「ばァや」とは誰だろう。この書簡の解説によれば、その根拠は明らかでないが、それは土田トウだと言う。だが、そうすると伊原弥生宛ての書簡(大正9年1月21日)の末尾に「今明日中に越後の友人がばァやを連れて来て呉れることになって居ります」の「ばァや」とは誰なのだろうという疑問が出て来てしまう。

 先の詳細な年譜では、腎臓病で倒れたのが岡崎きいで、越後の友人である洲崎が連れて来た「ばァや」が土田トウという読みであるが、腎臓病で倒れたのは《きい》ではないから、その場合、この病で倒れた人物を特定する必要があるだろう。

 私は腎臓病で倒れたのは、これまであまり言及されることがなかったが、「鬼山のバアサン」というのもその候補かもしれないと思う。

 「鬼山のバアサン」は、『中村彝・洲崎義郎宛書簡』に掲載の大正10年2月5日の書簡ではこんなふうに登場する。

 「ばァヤはこちらでもまだ見つかりません。一二ありかけたのですが、丁度鬼山のバアサンの様に体に故障が出来て早速の間には合わないというのです。」

 「鬼山のバアサン」は過去に体に故障が出てきてしまったバアサンであるから、腎臓病で倒れたばあやである可能性はあるだろう。(続く)

 

 

 

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中村彝「洲崎義郎氏の肖像」左手の描写(再論)

2024-06-16 11:06:23 | 中村彝

 標記の作について、私はかつてレンブラントの「ヤン・シックスの肖像」との関連を指摘したことがある。
 ①何れも画家の友人を描いた作品であり(モデルは二人とも市長になっている。ただし、肖像画が描かれた時、洲崎は比角村長だった)、②モデルの白い襟元、③外套を肩に掛けて、④片手だけ手袋をしている表現が、これらの作品に共通しているというのが、注目されたからだ。(※西洋の肖像画において片手だけ手袋をしている表現は、探そうと思えば、いくつかの例を探し出せる。が、当時、彝が持っていた画集やカタログ・レゾネなどからは、レンブラントのこの作品を見た可能性が最も高いと思われる。)

 しかし、レンブラントの作品においてモデルはマントを肩に掛けた比較的自然な立ち姿であり、これから何らかのアクションに移るかのように片手だけ手袋をしているポーズをとっている。
 これに対して、彝の作品では、モデルは室内において坐った姿であるにもかかわらず、ある意味で不自然にもマントを肩に掛けて片手だけ手袋をしている。(※もちろん、造形的には安定的な自然なポーズを構成している。)これらの違いは、どう考えるか。
 すなわち彝の作品においては、マントと片手だけの手袋は自然な姿というよりも、全体的に造形的な効果としての理由以外にはあまり考えられないモティーフ設定である。だが、レンブラント作品のモデルのポーズと全く同じようなものでないことが、私にはかえって、これらの作品の関係性を強く物語っているように思われた。画家は多くの場合あまりにも直接的な類似性や影響関係が露わになることを嫌うからである。しかし、彝は早くから洲崎に外套を着せるポーズを示唆していた。これはレンブラントの作品が念頭にあったからと思う。
 こうした理由から、私は作品創造の秘密を探るため、彝の洲崎の肖像における各モティーフの源泉は、レンブラントの「ヤン・シックスの肖像」にあるのではないか、そういう指摘を何度かしてきた。

 ところが、私はある時、洲崎の肖像における左手の表現は手袋をしているように見えるが、そうではなく、未完成なのだという記事を読んで驚いたことがあった。
 すなわち、これは、私が手袋をしていると見た洲崎の姿は、実はそうではなく、単なる未完成に過ぎないという主張に聞こえたのである。

 もし、そうだとすると、レンブラントと彝の二つの作品の関係性は、やや希薄なものになるだろう。
 確かに彝は手の描写をいくつかの重要な作品で未完成のまま、曖昧に残すことがままある。だから、この作品においてもそれは片手だけ手袋をしているのでなく、単に未完成なだけという見方もできるかもしれない。実際、描きこみはかなり足りないように見えた。
 そして、その場合、レンブラントの作品との関係性の指摘はやや過剰な解釈となるかもしれない。

 しかし、違うのだ。確かに左手は、未完成なのだが、洲崎が片手だけ手袋をしていたことは、間違いない事実だった。

 それは、何よりも洲崎自身の次の手記をよく読めば証明されるだろう。すなわち、彼はこのように言っている。

 「私の着ている上着は私の平素から着ていたビロードの単衣の仕立ての上着で薄い光る色の変化する見片が付いているものだし、左手だけにはめている手袋は青の裏なしの革製のものである。上にはおっている外套は彝さん所有のラシャトンビである。」(洲崎義郎の手記「私の肖像について」より)
 さらに、洲崎はこうも言っている。
 「ただ、残念なのは約二十日間の最後になると、さすがに疲れが重なったとみえて左手のビロード服の描写が十センチほど未完成に終わったことであった。」(洲崎の手記より)

 洲崎の左手が未完成と言ったのは、手袋の部分というよりも、ビロード服の袖口の十センチほどの部分なのだ。そして「手袋は青の裏なしの革製のもの」をしていたことが、これによって明白になるのである。実際、左手は革製の手袋のように見える。

 実は私が初めてレンブラントの作品と彝の洲崎の肖像との関係性を指摘した時は、洲崎の手記の存在を知らなかった。また、洲崎が、既に村長になっていたということまでは確認できていなかった。

 私は、画家の友人の肖像、外套、白い襟元、片手だけの手袋といった共通性と、二つの作品の比較対照から影響関係を探っていたのである。

 ※洲崎の手記については、川崎久一氏の彝関連本を参考にした。

 

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中村彝の手紙の断簡(続き)、断簡を繋いでみる

2024-06-02 11:28:53 | 中村彝

 広瀬君や中原君
 はどうして居るかしら
 どうか消息を知らせ
         下さい
        サヨナラ 
          彝 
 隆三郎様

 茨城県近代美術館に、このように読める中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の末尾の部分で毛筆で書かれている。

 なぜ、このような断簡が公立美術館に残っているのだろう。
 こんな疑問が今頃になって自分の頭にわいてきた。

 私が同館に在職していた時、ただ手書き文字の特徴を知り、内容を読むのに懸命だった。が、この断簡については、書かれている用紙の外形などにもっと注意を払うべきだった。と言うのは、これから述べることは、それらの最終的な検証にかかっているからである。

 だが、その検証は、美術館の現役学芸員に任せ、私は書簡のオリジナルがないところで、そのコピーを元に机上の仮説を述べる。

 この断簡は、彝のある真筆手紙の末尾であることは確かであるが、それだけが存在するというのは、なんだか不自然である。しかし、これが本当は、現に同美術館が所蔵する手紙から何らかの理由で切り離されたものとするなら、その不自然さはある程度解消されるだろう。そういう考えが浮かんだ。


 もし、同館の書簡から切り離されたとするなら、どの書簡からか。


 それで私は断簡を含めて14通あるとされる伊藤宛書簡を改めて読み直し、可能な限りコピーからその外形も探った。
 すると、その可能性があるのは、実は封筒と中身が違っていると以前から私が指摘し、新たに大正4年2月ごろと先に推定した大島から出した手紙(未公刊)が最もそれらしいことが分かった。

 この毛筆手紙の末尾はこうなっている。

   ***

 天気のいい日は中々そう
 あるものではないから天気
 のいい時にどんどんはか
 どる必要があるのだが
 この熱と血との為に
 どんなに妨害されたか
 知れやしない。
 手紙をくれ。もっと
 書き度いが今日はよし
 ます

   ***

 この手紙は、「今日は止します」とあるから、これだけでも末尾は完結しているように見えるが、実は彝の他の手紙には大抵認められる「さよなら」の挨拶や彝という署名、相手方の名前、時には書き漏らしの追伸がない。しかし、追伸はないが、それらがあるのが先の断簡なのである。しかも続けて読んでも全く違和感はない。

 さらに彝のこの頃の毛筆巻紙の両端は、比較的無造作に切り離されているのが多いのに対して、左部分のみ鋭利に真っすぐに切られているのが件の書簡である。

 これらの何気ない事実は、先の断簡とこの手紙の結合を明らかに促すものだろう。あとは手紙の巻紙の幅の一致の確認、紙質の自然な色合いや風合い、そうしたものを検証すれば、この仮説は通るのではないか。

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