中村彝の洲崎義郎宛、大正8年6月18日の書簡で、彝はそこに出てくる婆やを、「奴」とか「彼奴」などとも呼んでいると述べたが、実は、大正9年1月18日の書簡でもそこに出てくる婆やを《ばァや》のほかに、《奴》と《彼》と呼んでいる。
「奴が倒れてから…『自分のと彼の分』とを三度三度始末するのは僕にとって可なりの重荷の様な気がする。」
この婆やは、「可愛い、偏屈な」婆やであり、腎臓病で倒れ、実家に帰れない事情があるので、彝に入院の心配をさせることになった。(因みにこの婆やが《きい》なら家に帰れない事情などない。)そして彼女が病院で「癒るか死ぬか、出来る様に」と彝に祈らせることになった。
先の書簡(大正8年6月18日)の婆やも自ら「不行届で病身」であると言い、ヒステリー持ちで、「暇を呉れ」とか「出るの入るのと」彝を悩ませていた。
おそらくこの二つの書簡に出てくる婆やは、同一人物なのではなかろうか。
ところで彝のアトリエでの「洲崎義郎の肖像」制作を見ていた人物がいた。その人は、やはり鬼山と言った。鬼山米吉である。川崎久一氏によると彼は明治23年生まれで昭和49年に亡くなった。
彝の書簡、大正8年7月15日の洲崎宛に「鬼山君の研究所入学につい色々御問合せでしたが…」とあるのは、彼が家業の和菓子屋を捨て、確かに画を描きたいという願望があったことを示すものだ。しかし彼は、志半ばで2,3年後には帰郷し、ペンキ屋を開業したという。
この「鬼山君」と、大正10年2月5日の手紙に出てくる「丁度鬼山のバアサンの様に…」の「鬼山のバアサン」とはどのような関係かはっきりとは分からないが、親戚・家族関係にある人かもしれない。
とすれば、洲崎の肖像画が描かれた前後に彝の所に奉公していたバアヤ、すなわち、大正9年1月18日と大正8年6月18日の書簡に出てくるバアヤというのは同じ人であり、この鬼山のバアサンのことではなかろうかと思われるのである。
「鬼山君」が、洲崎の口添えで彝の画室に入れたのも、あるいは、このバアヤが既に彝のアトリエに奉公していたからかもしれないと想像できる。
もしそうなら、ヒステリー持ちのバアヤは、少なくとも大正8年6月18日の2,3か月前から、時には神田のオバサンが来て「苛められ」つつも、また、彝の平磯行前には匙を投げられそうになり、いったんは帰郷したかもしれないが、おそらくは洲崎の肖像画が描かれた頃には、(再び)画室で奉公していたのではなかろうか。そして、大正9年1月18日頃、腎臓病が悪化して入院するに至ったと思われる。
以上が、大正8年から9年にかけての一連の関係書簡から《バアヤ》について推測できることである。