美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

踊り子と哲学者 ドガとレンブラントの関連

2015-06-30 12:14:32 | 西洋美術
 
 
 ドガの初期ダンス作品、「ダンス教室」である。画面左方に螺旋階段が描かれた、特徴的な構図。画面に多数の踊り子が賑やかに描き込まれているのは、初期のダンス作品の特徴だ。

 構図を面白くし、画面に活気を与えているのは、螺旋階段を降りて来る踊り子たちの脚のシルエットと、螺旋階段そのものの幾何学的でリズミックな形態それ自体だろう。

 画面左方のこのダイナミズムに対して、画面右方にもこれと均衡を保つ重要なモティーフが必要となる。それが、赤い上衣を着て坐っている踊り子を中心とする画面右方のグループである。

 画面中景の螺旋階段付近には、つま先立ちをしている踊り子が姿を見せている。このポーズは、ダンスの専門用語で<タン・ド・ポワント>と呼ばれている。

 螺旋階段の描かれているドガのダンス作品は、実はもう1点ある。下図の「ダンスの稽古」(グラスゴー美術館、バレル・コレクション)である。画面左方に螺旋階段が描かれているが、そのフォルムは、やや違っている。



 前の作品が、リズミックに直線を積み重ねているとすれば、この作品では、双曲線のようなフォルムが現れており、同じ螺旋階段には見えない。

 画面中景部には、<アラベスク>の態勢をとった踊り子が描かれている。

 この作品でも、画面右側前景に坐っている踊り子を中心に、数人の人物群が描かれている。

 それぞれの作品では、室内空間も多数の踊り子のポーズも異なっているが、螺旋階段周辺部だけは、あまり変わらない。そこを降りてくる踊り子たちの溌剌とした脚が、逆光を浴びてシルエットを浮かび上がらせている。

 これは、エドモン・ド・ゴンクールもその『日記』に記述している印象的な場面であり、彼はドガのいずれかの作品を見ていたのだろう。

 これらの作品の基本構図が画面左方の螺旋階段と、右方の坐っている踊り子の存在であることは明らかだ。

 次に、賑やかなドガの世界から眼を転じて、孤独な老人の哲学者の世界へと入っていく。下図の作品である。



 ドガが作品研究のために通ったルーヴル美術館にあるレンブラント派の「哲学者」と題される作品の世界だ。

 画面左側の暗い室内空間には、螺旋階段が描かれ、右側には<哲学者>が坐っている構図である。静かで孤独な気配が漂う。(実はルーヴルに、画面右側に螺旋階段が描かれているレンブラントの「哲学者」もあるが、ここでは、議論を単純化するためレンブラント派の作品のみに言及する。)

 思考するようなポーズをとって、窓から入ってくる光を頼りに書物を読んでいるようだ。螺旋階段のある付近の空間は、闇と神秘の中に溶け込もうとしており、老人の孤独で思索的な世界を背後でいっそう深めている。

 17世紀の「哲学者」が、瞑想的で神秘的な作品であるとするなら、19世紀のドガのダンス作品は、明瞭な室内空間に賑やかに躍動する多数のダンサーたちが描かれたものであり、全く対照的な雰囲気をもっている。が、構図は、「哲学者」と重要な共通点があることはもはや明らかであろう。

 ドガのいずれの作品でも、他の踊り子たちは、ダンスのポーズをとったり、練習をしている。だが、画面右側の踊り子だけが、哲学者の位置に坐っている。なぜだろう。それは、<躍動>と<休息>の対照のようにも解釈できるが、それ以上に、レンブラント派の「哲学者」の構図が、その答を語っている。構図上の源泉があるのだ。

 ドガの螺旋階段付近の逆光による強いコントラストも、バロック的な明暗法の遠い反響と見做せないこともない。ドガは若い頃、イタリア古典美術に強い関心を抱いていたが、レンブラント芸術にも関心を寄せていたのだ。

 レンブラントおよびレンブラント派の「哲学者」は、ドガの時代には、既にルーブルの所蔵となっていた。従って、彼がそこで2点の「哲学者」を見る機会は容易に得られた。               

 しかし、ドガがレンブラント派のこの作品を実際に見ていたという文献的な証拠は、見出されていない。もちろん、ドガがその「哲学者」を模写したとか、その部分をスケッチしたというような視覚上の証拠も見出されていない。

 パリの国立図書館にあるドガの手帳計36冊に含まれる素描など、多数のコピー等をリスト・アップしたTheodore Reffの論文にもそうした記述はない。もっとも、文献的もしくは視覚的な証拠が残っていたなら、欧米の研究者たちが疾うにこの源泉に気づいていたろう。
             
 ドガとレンブラント、踊り子と哲学者、喧噪と孤独というような反対の世界が結びつくことは意外かもしれない。

 だが、一見躍動的に見えるドガのダンス作品の裏側に、光の明暗法によるレンブラントの孤独で神秘的な哲学者の世界が二重写しとなって隠されているとすれば、ドガの芸術の本質がより深く見えてくるのではなかろうか。



※この稿は、拙稿「ドガ、初期ダンス作品の一考察」(『文化』第40巻第1・2号、昭和51年)の趣旨を一部要約したものである。
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川上澄生の絵本『雪のさんたまりや』

2015-06-29 20:49:20 | 日本美術
川上澄生の絵本に『雪のさんたまりや』という、たいへん美しい響きのするとても短かい絵本がある。

作者は南蛮紅毛のキリシタン文化に大いに興味をそそられていた。

 新村出は『広辞苑』で有名だが、キリシタン文化の研究者としても知られ、澄生はその種の本も読んでいたようだ。

 澄生の詩「はらいそ」(天国)などに見られるように、彼は古いキリシタン文学に見られる用語にも精通していた。「びるぜん」(処女)などもそうしたポルトガル語に由来する重要語だ。新村などの本から学んでいたのかもしれない。

 しかし、新村の『南蛮更紗』にある「雪のサンタマリヤ」と澄生の絵本『雪のさんたまりや』とは、六月に雪が降るという以外、彼の絵本におけるストリー展開に直接は関係なさそうだ。

 少なくとも澄生の『雪のさんたまりや』の破天荒なモティーフは、新村のこの本からは汲みだせない。

 

 大天使の蝶がマリアの口から入って処女懐胎させるというモティーフとか、マリアに焦がれ死にした「呂そんのおう」が天上で彼女と結婚するという結末は、西洋のキリスト教文化からは全く容認できない内容だろうし、異端の烙印を押されてしまうだろうが、これらは、最も想像力溢れたイメージとなっている部分とも言える。

 牛と馬が幼子を凍え死にさせないように両方から息をはきかけて温めたというのも、キリスト教正典には見られない感動的な細部である。

 だが、私はこの主題が澄生自身の文学的な想像力によるものか、何か典拠があるものなのかよく分からなかった。

 調べていくと、これらは何と隠れキリシタンに伝えられた『天地始之事』に典拠を持っていることが分かった。

 真夏に雪が降るという伝説は、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会(下図写真、筆者撮影)の伝説に由来するが、これが変形し、日本の「隠れキリシタンの聖書」に取り入れられたのだろうか。



 ちなみに、『天地始之事』には、かぐや姫の伝説が、聖母マリアの伝説と融合しているような部分もある。

 きわめて短い絵本だが、いろいろ文化的な含蓄が深い。

 正統的なキリスト教解釈でなく、命をかけた隠れキリシタンのヒューマンな伝承にこそ心動かされた澄生の姿勢がよくわかる。

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永瀬義郎の署名

2015-06-29 15:35:10 | 日本美術

 茨城県つくば美術館で、県近代美術館の所蔵品を紹介する展覧会が開かれたことがある。県南・県西地方にゆかりがあり、全国的にも有名な3人―油彩画の安藤信哉、水彩画の小堀進、版画の永瀬義郎の3人―にスポット・ライトを当てた展示である。

 このうち、永瀬については、ポスターやチラシなどで<Yoshiro>と表記されているが、展示された作品を見ると明らかに<G.Nagase>などと表記されていることが分かる。<Y.Nagase>ではなく、<G.Nagase>である。

 はて、これは、どうしてなのだろう。

 ローマ字を習い始めた小学生など会場に来て不思議に思うかもしれない。初めて永瀬の作品を見る大人でも、出品作を注意深く見る人なら、はて、これは、本当に永瀬義郎の作品または署名なのだろうかと、疑問に思ってしまうかもしれない。

 確かに<Y>の筆記体と<G>の筆記体とは、書き癖や時と場合により、似たような形になってしまうことがある。が、展示されている他の作品を見ても、どれも明らかに<G>の字であった。そうすると、義郎は「よしろう」と読むのではなく、あるいはそう読むばかりでなく、本人は「ぎろう」と読んでもらってもいいように署名していたことは確かだ。

 あらためて調べてみると、少なくとも初期の作品は明確に<G>を書いていたり、刻んでいたりする。

 しかしここではどちらが正しいかという問題を提起しているのではない。
 
 ちなみに出身地の教育委員会の協力を得て、回答をもらったが、戸籍では読み仮名はふられていず、結論は出ない。

 重要なことは、永瀬の作品には<G.Nagase>の署名があっても、何も怪しむには足りない、そして、「ぎろう」と読んでもよいことが今日ではほとんど知られていないということである。

 どの程度知られていなかったのかは分からないが、私がよく使っている美術家事典では、「よしろう」とふり仮名をつけている。

 しかし、抱腹絶倒の口述筆記の自伝『放浪貴族』に、フランス滞在時代の永瀬の芸術家連合組合員証の写真が載っている。



 そこには<Nagase.‐Giro>の文字が見られる。ただし、この署名は彼自身が書いたものかどうか、確認できない。だが、第三者が書いたとしても、彼自身が「ぎろう」と発語したのは間違いなかろう。それが、”Giro”と表記されたのかもしれない。
 
 さらに、平成20年当時、桜川市立南飯田小学校の川俣正英校長からの情報によれば、永瀬が卒業した小学校には、<Guiro Nagase>の署名のある版画が残されている。であるから、彼が少なくとも自らを「ぎろう」と称することがあったことは確実なのである。


 <Guiro>とあるのは、ローマ字読みでなくフラン人が読んでも「ぎろう」と発音してくれるように表記したもので、他の美術家にもしばしば見られる署名のフランス語風の表記法である。ただし、永瀬の場合、eにアクサンを付けることも、つけないこともある。

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島根県立美術館のシニャック

2015-06-29 14:41:05 | 西洋美術

 島根県立美術館のシニャック作「ロッテルダム、蒸気」は、新印象派関係の展覧会があるたびにしばしば貸し出されている油彩画であるから、よく知られているだろう。
 
 同館の目玉作品の一つと言ってよいかもしれない。ネットで検索すれば画像もすぐに見られ、解説も読める。ここにそれと同じようなものを書いても面白くないだろうから、違うことを書く。
 
 私がこの作品に興味を持ったのは、茨城県近代美術館に同じシニャックの「ロッテルダム」(1906)という水彩画があるからである。

 二つの作品を比べてみる。

 画面左下の突堤と二本の棒杭、三艘の小舟のモティーフ、次に画面前景中央部よりやや右側の小舟は、茨城県の水彩と画面上の位置を含め、ほとんど同一である。
 
 それから画面上の位置は違うが、島根のシニャックの対岸寄り右側に描かれている大きな船のモティーフも、茨城の水彩画の画面中央部上方左側に認められる。

 その他様々な船が行き交い、対岸で煙を吐いている活気のある風景の雰囲気は、島根と茨城の作品に何らかの関係があることを示している。

 ただ非常に違うのは、島根の油彩画の画面上方部左側に見られる構図のポイントとなる橋のモティーフである。

 この橋のモティーフ、欧米語なら実は複数形で表現されなければならないところだ。
 日本語の解説書をすべて読んだわけではないが、このことは、あまり気づかれていないらしい。私も調べてみて初めて気づいた。

 すなわち、二つの橋が重なって描かれているのだ。目立つアーチ形の橋は、鉄道橋であり、その手前にウィレムスブルグという歩行者や車両用の橋があった。

 今、「あった」と過去形で書いたのは、これらの橋はナチス・ドイツに破壊され、今はないからだ。現在ロッテルダムにあるウィレムスブルグは、戦後に建設されたものである。
 
 島根県立美術館のシニャック作品が描かれた視点を探っていくと、これはどうも、当時シニャックが泊まっていたヴィクトリア・ホテル(あるいはそのごく近く)から見て描いたものと私は結論付けた。

 このホテル、ヴィクトリアも今はなく、画家の視点を決定するのに難儀したが、ロッテルダムのミュージアムにある他の作家の作品(1931年作)や、当時の様々な絵葉書資料から確認できる。
 これを書くと長くなってしまうので、ここは、信じてもらうほかはない。

 ただし、その作家の作品は、シニャックの作品よりも、よりパノラミックに遠近感が非常に強調されたもので、今述べた二つの橋がはるか遠方に小さくかすんで見えるに過ぎない。

 私が、地図などで測ったところ、今はないヴィクトリア・ホテルから鉄道橋までの距離は、1500ないしは1600メートルくらいで、シニャックの作品の方が、明らかに肉眼で見た目に近いのではないかと思う。(私は、同じくらいの距離にある遠方の橋をある地点から実際に眺めて確認してみた。)

 島根の作品で、画家のとった視点はわかったが、当時の私にとっての最初の目的である茨城の水彩画の視点は決定づけることができなかった。
 
 画面前景部が同じなのだから、同じくホテルの窓から描いたと思うのだが、肝心の二つの橋が描かれていない謎がまだ解けないからだ。
 
 なお、島根の作品と茨城の作品では、煙の流れる方向が反対である。

 煙といえば、島根の作品のフランス語の題は、Rotterdam.Les Fuméesであるが、このLes Fuméesは、蒸気でもあろうが、当時のロッテルダムの活気のある風景を象徴した煙を意味したものではなかろうか。

 島根のシニャックに見える対岸は、マース河に浮かぶノールデルアイラントであり、マース河は画面前景に向かって流れている。

 

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中村彝のこの俊子像はどこに

2015-06-28 22:08:33 | 中村彝

 
 中村彝のこの俊子像は、1953年に東京国立近代美術館のある展覧会に出品されたのを最後に、その後、いかなる中村彝の主だった展覧会にも姿を現していない。秘蔵されたままなのか?

 横須賀市が彝の俊子像を収蔵したのは、当時、茨城県の公立美術館で仕事をしていた私から見ると、とても羨むべきことだったが、それでも個人蔵の優れた作品が公立の美術館に収蔵されたのは、とても良かった。

 だから、ここに白黒図版に掲げた作品も公立、または私立の美術館に直ちに収蔵されるべきだというわけではない。

 ただ、この作品は、ここに掲げた図版で見る限り、既にかなり傷んででいるようにも見える。
 優れた修復家によって、修復が必要な作品かも知れない。
 
 もし、未だ何も修復されていないとすれば、どうなっているのだろう。
非常に気掛かりだ。美術作品は、優れているものなら、美術館への寄託という手もある。
 
 この作品は、きちんとした、画像記録も残すに値する作品だと思う。

 この作品の寄託を受け入れる美術館も、あるだろう。

 この作品は、今、どこにあるのだろう。秘蔵されたままなのか?

 

 
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