美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

マネとレンブラント(印象派とオランダ美術)

2023-09-03 20:09:29 | 西洋美術
 マネのいくつかの作品にはレンブラントの具体的な作品から明らかな影響を受けていると思われるものがある。
 例えばマネがある少年を描いた作品。
 モデルの少年は、自殺し、それがボードレールのある詩にインスピレーションを与えているが、マネが描いたその少年の愛らしい微笑みを湛えた作品は、レンブラントが少年ティットスを描いた作品の明白な影響が窺える。
 そのほか、マネの裸体画などにもレンブラントの作品からの影響が窺える作品があるだろう。
 今日のマネ研究では、もはや、とうに明らかにされているのかもしれないが、私としては、もう何十年も前にやり残したままになっている。
 マネのスペイン美術からの影響や、マネのジャポニスムについてはかなりの研究の積み重ねがあるが、マネとオランダ美術との関連はどのくらい進んでいるのだろうか。少し気になっている。
 また、マネの他、ドガの室内空間の描写や音楽モティーフなどとオランダ美術との関連なども面白い研究課題だと思っている。
 さらに広げるなら、印象派絵画全般とオランダ美術との関連は、面白い研究領域を提供するものだろうと思う。
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マネの「剣を持つ少年」

2023-02-08 12:06:05 | 西洋美術

 マネの「剣を持つ少年」は、彼がスペイン絵画の強い影響を受けた作品の一点として有名である。

 この作品はメトロポリタン美術館に収蔵されているが、茨城県近代美術館には、この油彩画をもとにマネが制作したエッチングがある。「剣を持った左向きの少年」がそれである。
 
 このエッチングの画像は、油彩作品とは鏡像関係になっているので「左向き」となる。もちろん、左向きと言っても少年の顔は、油彩画同様、正面を向いている。つまり、作品を観ている人と向き合っている。または、画家とモデルという関係からは、少年はマネその人に視線を向けて対面している。
 モデルの少年は、マネの息子とも、義理の息子とも、また、義弟とも言われているが、メトロポリタン美術館ではある場合には義理の息子とも、また別の場合にはマネの息子とも表現している。
 しかし、この少年、レオン・コエラ=レーンホフは、マネのきわめて重要な作品にマネの家族の誰よりも多く登場しており、この事実はかなり興味深い。
 そうしたスペイン絵画の影響を受けたマネの作品の中でも油彩画の「剣を持つ少年」は最初期のものであり、しかもこれを元にした版画作品も多い。
 すなわち版画作品は、よく知られているものだけでも、左向きのものが第1作(最初のプレート)から第3作までの3種類があり、右向きのものが少なくとも1種類ある。
 このうち、左向きの第3作には、4つのステートがあることが確認されており、茨城県近代美術館の版画は、第3作(3番目のプレート)の第1ステートとされているものである。
 ステートとは同じプレートに画像や技法の追加・修正などが行われる場合に発生するものであり、第1作、第2作では最初のステートのみが知られている。
 なお、第1ステートの作品を「初版」と表現すると、プレートやフランス語のプランシュに「版」の意味があるので、やや紛らわしくなるかもしれない。従ってステートは、和訳しないで、そのままステートと表記されることが多い。(続く)
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ロダン「3つの影」の意味-死者たちの円舞

2023-01-20 20:19:27 | 西洋美術

 (それなればこそ、君がこの常夜の地を無事に脱して地上に戻り、再び美しい星々を仰ぎみんことを。いつの日か…ダンテ「地獄篇」より)

 茨城県近代美術館のエントランス・ホールにロダンの標記の作品がある。

 この作品、よく観察してみると同じ男性像の3体が組み合わされて一つの作品となったものだ。その同じ男性像は、ロダンによる単体のアダムの像に似ているが、同一ではない。
 この「3つの影」は、ロダンが構想した「地獄の門」の最上部に位置する右腕がもがれた「3つの影」にもちろん関連した作品である。その最上部の下方のティンパヌム相当部分に有名な「考える人」が位置する。後者は「詩人」とも呼ばれ、当初は『神曲』の作者ダンテを表現しようとしたとされるが、練り直されたものである。
 ロダンの「地獄の門」は、もともとダンテの『神曲』「地獄篇」から主題上の最初の構想を得ていた。
 ダンテの『神曲』「地獄篇」における<地獄の門>には有名な銘文が記されていた。この門を過ぎるものはすべての希望を捨てよという絶望的な詩句である。
 そして、ロダンの門自体には、ダンテの「地獄篇」でも有名な「パオロとフランチェスカ」や「ウゴリーノと息子たち」のような重要な主題がある。ロダンの「地獄の門」は、ダンテの「地獄篇」を色濃く反映した作品であることは間違いない。もちろん構想は変転し、他の主題も加えられて行くが。
 
 ロダンの「地獄の門」は、造形的・形式的には、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂におけるギベルティの「天国の門」を意識した作品としてしばしば言及される。
 そればかりか、門の上に3人の人物像を置く構想も同洗礼堂のアンドレア・サンソヴィーノの「キリストの洗礼」に形式的に対応していると見做せるようだ。
 さて、先に触れたダンテの<地獄の門>の銘文は、門自体が一人称で語っている。すなわち下の「我」とは門自体のことである。
「我を経て悲しみの都に至る」
・・・
「いっさいの希望を棄てよ、汝らここから入る者」
 ここで思う。まぐさの最上部中央に位置する「3つの影」とはいったい何なのだろう。「影」とはどんな意味なのだろう。
 ダンテの「地獄篇」で門自体が一人称で語っているところから見ると、門の最上部にあるロダンのこの作品は、一切の希望なき銘文の内容を具体的に表徴させたものだろうか。
 また、同一の男性像が、脱力したような姿勢で下方に緩く指差しているようなポーズをとっているのはなぜだろう。そしてそれには何らかの意味があるのだろうか。そうした疑問が次々と浮かぶ。
 彼らは、誇張された筋肉質の肉体を持っているが、決して力強く、意志的に、一斉に「拳」を下に向けているのではなさそうである…むしろ、彼らの下部にいて、「地獄の門」を眺めやる詩人、「考える人」の方を指しているようにも見えなくはない。また、門自体を提示しているのかもしれない。
 だが、この3人群像の中心部下方に集中する彼らの手は多義的であり、意味的にはかなり曖昧に表現されているように見える。
 「3つの影」の単体の男性像は、先に触れたように完全には同一ではないが確かにロダンのアダム、より激しく身体を屈曲させているアダムに似ている。
 しかも、拡大された「3つの影」における単体は緩く垂れ下がって表現されている左腕を水平に持ち上げるなら、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画におけるアダムの左指、今、創造主たる神の右指に触れて生命の息吹を捉えようとする(または、与えられようとする)アダムの左指をも想起させる。
 一方、ロダンの単体の「アダム」と、拡大された「3つの影」における単体の男性像の右脚や、脱力したような全体ポーズは、ミケランジェロの「バンディーニのピエタ」における十字架降架後のキリストのポーズを思わせる。
 ロダンの「アダム」とこの「3つの影」における単体のポーズの概要は、背後にニコデモがいる「バンディーニのピエタ」におけるキリスト像が造形的な由来かもしれない。
 もちろんミケランジェロのキリスト像は死せるイエスであるから、完全に重力に身を任せ、激しく身体を折り曲げている。これに対してロダンの像は、生きて激しく苦悶しているアダムか、もしくは「影」としての像であるから、身体をすべて重力に任せているわけではなさそうである。
 しかし、ロダンの「アダム」と「3つの影」の「影」の造形的な由来が、ミケランジェロの「バンディーニのピエタ」のキリスト像に多少とも関連があることが認められるとしても、「3つの影」における「影」に何か意味的な繫がりが認められるだろうか。
 仮にミケランジェロの死せるキリストがロダンの苦悶するアダム像の造形的な由来だとしても、ロダンの「影」が死せるキリストと主題的・意味的に即座に重なるとは考え難い。同一形象であるから三位一体ではないかと捉えるのもかなりの飛躍ではないか。
 
 しかし、もし、この「影」の意味をダンテの「地獄篇」との関連から導き出してよいものとするなら、それは、ダンテが地獄巡りの中で見ているあの生きているような死者たちを意味する「影」と考えるのが最も自然だろう。
 すなわち生けるが如き「亡者」あるいは「霊」、「亡霊」、死せる者の「魂」などと解せるかもしれない。
 実際、フランス語の「影」に相当するダンテが「地獄篇」で用いてる「影」という語は、「地獄篇」にしばしば出て来るが、和訳でそのまま「影」と訳すとかえって解りにくい。よって、そうはなっていないことが多い。
 しかし、ロダンの造形作品のタイトルとしては、そのまま「影」と訳されても、直ちに不都合はない。
 いや、むしろ日本の西洋美術史家や翻訳者たちには、意味はやや曖昧で、多義的であっても問題ないと思われたのか、そのまま「影」となっている。
 しかし、ダンテの「地獄篇」には、実はロダンの「3つの影」に関連していると思われる重要な記述があるのだ。
 すなわち、ある解説によれば、それは、「地獄篇」の第16歌である。
 ここには、まさに「3つの影」が登場している。他にも「3つの影」は登場するが、とりわけ16歌が興味深い。なぜならその解説では彼らは旋回する「ダンス」をしながら地獄の悲惨さを語っているとされているからである。
 してみると、ロダンの「3つの影」において、彼らが脱力、もしくはあたかも酩酊しているように左手を合わせているように見えるのは、右手は既に離れているが、ダンテの作品におけるこの旋回する「ダンス」(の名残り)を表徴しているとも見える。(註※)
 ダンテの『神曲』においては、いわゆる<死の舞踏>の先触れにも見える亡者の旋回する動きであり、ロダンの「3つの影」においては、その遠い反響とも言える「地獄篇」第16歌における亡者の旋回するポーズである。
 また、彼らが緩やかに詩人の方向を指しているのも、謂わば「ダンテを読め」とでも解しうるが、それは作品を見る者の自由であろう。
 ロダンの「3つの影」のポーズの原型は、おそらくダンテが「3人の亡者(=影)」と述べている3人のフィレンツェ人の奇妙な旋回に発想の根源があるのかもしれない。
 彼らはそのように旋回しながら彼らの悲惨さを語るのである。
 しかしながら、ロダンの「3つの影」が意味するものは、決して絶望には終わっていない可能性もある。なぜなら、「地獄篇」16歌で「3つの影(=3人のフィレンツェ人の亡霊)は、ダンテにこのようにも言っているからだ。
 「いつの日か『私は(地獄に)行った』というのが、君の悦びとなる、
その時、どうかわれらのことを(地上の)人々に話してもらいたい」。
 そしてこの詩句、「いつの日か」以下は、ホメーロスの『オデュッセイア』にある「きっとこの苦しみは、いつの日か、思い出のタネとなるだろう」や、もしくは、ウェルギリウスの『アエネーイス』の中の「きっといつの日か、これらの苦難を思い出すことが喜びとなる日が必ずやって来る」を受け継いだものという。(註※※)
 とすれば、ロダンの「3つの影」も、「地獄の門」の銘文が象徴する絶望や苦難でなく、むしろ<苦難>から、「いつの日か」(の歓び)への転換を示唆しているかもしれないと思いたいのである。

註※3人が「ダンス」をしていると解するのはその解説においてである。ただ、ブレイクなどの挿図でも3人がサークルを描いているから、一般に回転する踊りのイメージで捉えられていたことは確かだ。
註※※「いつの日か」については、「ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)16‐2』(たんめん老人のたんたん日記)」を参照させていただきました。
 
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北九州市立美術館蔵のドガ 作品「マネとマネ夫人像」とパリ国立図書館蔵の写真

2022-07-22 19:20:26 | 西洋美術

標記のドガ作品、切り取られた作品として有名だ。日本ではモネやルノワールの作品に比べ、ドガ の作品は比較的少ないので、これは貴重な作品でもある。

 画商のA.ヴォラールの『画商の想出』(小山敬三訳、昭和25年刊)を読むと、マネの「マキシミリアン皇帝の銃殺」に関連して、このマネ夫妻像を描いた作品の記述が出てくる。
 
 「マキシミリアン」はいくつかのレプリカのある作品で、その一つは、やはり切り取られた作品となっているからだ。
 だが、ヴォラールによれば、ドガ はマネに贈った自身の作品が切り取られたことに怒りはしたが、他の者がマネを批判することは許さなかった、という話に持っていった。こういう文脈で、このマネ夫妻像の作品に言及しているのである。
 
 ドガ はこの作品が切り取られたことに怒り、マネ家から持ち帰った。そして、マネからもらったプラムを描いた静物画をマネに返して、怒りを鎮めたようなのだが、後にドガ は、マネに突き返したその静物画を取り戻したくなった。が、その作品は既に売られてしまっていて、ドガ は後悔したらしい。
 
 ところで、ドガ とバルトロメが写っている写真
File:Degas et Bartholomé.jpg - Wikimedia Commons

File:Degas et Bartholomé.jpg - Wikimedia Commons

 
がパリの国立図書館にある。1895-97年とされる写真で、ドガ のアパルトマンの壁の様子も写っている。壁には、3点の作品が認められる。
 「ハム」の静物画、リトグラフの「プルチネルラ」、そして、今日、北九州市が所蔵する「マネとマネ夫人像」である。いずれも確かにマネの作品である。
 
 壁に掛けらている問題の作品は、額縁に収まっており、縦長の形状である。つまり、この時点では、ドガ は少なくとも画布を継ぎ足したりしてはいない。
 しかも、切り取られた後に改めて木枠に張られたためか、額縁の遊びを考慮しても、画面の四辺が隠れてやや小さくなっている。
 例えば、マネ夫人の頭髪はごく僅かに見えるだけで、耳の部分はほとんど見えない。スカートの文様もいっそう隠れている。
 すなわち、現在、横長の形状で空白の画布を加えたまま北九州市立美術館で展示している画像部分よりもさらにその部分が木枠側に折り込まれたため、マネ夫人の頭部や腕、衣装は、今日見えている部分も見えずに隠れたものとなっているのだ。
 だが、そのことによって、今日のような極端な違和感はかえって免れている、と私は思う。
 
 ところで、ヴォラールは先の本で、「結局、正しかったのは彼(=マネ)であったかもしれないよ」とドガ が言ったことを報告している。これは、なかなか意味深長な言葉だ。ドガ は、ここにおいて今やマネの切断を事実として認め、それを活かす縦長の構図にしたのではなかろうか。
 
 だが、絵としては、こうすると、夫妻像と言うよりもマネ単独の肖像画となってしまう。しかもそれは、マネのポーズから、何か戯画的要素を含む肖像画として成立しているように見える。
 しかも、切り取られて額装されたこの作品の下には、マネのリトグラフ「プルチネルラ」が掲げられていた。それも、こうしてみるといっそう示唆的ではないか。
 
 もちろん、写真からでも、この作品の右方に人物がいることはわかるのだが、もはやダブル・ポートレートとは成り得ていない。だが、それは他のドガ の作品にも特徴的に見られる極端で大胆な対象の切り取りとして理解できるものである。
 ところが、木枠の特に右側面に隠れていたすべての部分、すなわちマネが切り取ったと思われる部分まで現れてしまうと、確かに夫妻像には近づくが、主題がどうしても拡散して、構図があまりに不自然なものとなってしまう。それはジャポニスムなどの影響による芸術的な意図を伴った極端さや大胆さとは違う、単なる画面の物理的な切り取りなのだ。
 
 ドガ は、マネが切り取った作品をさらに自らが納得できるように、木枠側に折り込んで(この際、特に右側折り込み部分が重要だろう)、夫妻像というよりもマネ一人の肖像画として自宅のアパルトマンの壁に長いこと掲げていたのであろう。
 
 その後、さらに、この作品に画布の継ぎ足しがあった。その継ぎ足しは、ドガ自身の復元意図によるものとヴォラールは別に語っているようだが、画家歿後になされた可能性もあるかもしれない。その真相は果たしてどうなのだろう。
 
 いずれにせよ、画布の継ぎ足しにあたって、木枠側に折り込まれていた部分が再び平面に引き伸ばされたのだろう。
 そして、継ぎ足された空白の画布の右下にドガ のスタンプ印が押され、横長の額縁が付けられ、マネによる切り裂きという逸話も加わった夫妻像として世に出ることになった。
 
 こうして当時のマネ夫妻に夫婦間の微妙な心理的関係があったことなどが、日本においても、特にこの作品を通して、広く視覚的にも知られるようになった。同時にマネの女性関係や、ドガの肖像画における心理観察の鋭敏さなどがますます多く語られるようになったことも確かだろう。
 
 さて、切り取られた部分を描き直そうとしてドガ自身が画布を継ぎ足したにしても、または歿後にそれが継ぎ足されたにしても、結局、それは継ぎ足されたままに残され、今日に到った。しかし、彼女がピアノを弾いている絵は、他ならないマネによって1868年に描かれている。それがドガの当初の作品より前に描かれたものか、それより後に描かれたものかは、定かでない。
 
 もし、マネの作品がドガの作品よりも後に描かれたものとするなら、マネは切り取ったドガのこの作品から、自分ならこう描くといった創造的刺激を得て、今日オルセー美術館にある作品を生み出したのかもしれない。また、マネの作品のほうが先に描かれていて、ドガがそれを見知っていたとするなら、多少のアイロニーとユーモア、マネに対する敬意と遊び心を付け加えてこの作品を描き、マネに贈ったのかもしれない。だが、生憎それが彼には通じなかった、などと私は想像して楽しむ。
 いずれにせよ、切り取られたドガの作品と、オルセー美術館にある同年頃のマネの作品は、互いに関連のある作品と言えるのではなかろうか。
 
 なお、件の写真の中に画布の継ぎ足し画像が認められないことから、もとよりこの作品は切り取られたのではなく、最初から夫人の横顔がやや見える程度の構図で描かれたのだと推定することは、私にはかなり難しい。
 しかし、木枠側にさらに折り込まれて縦長の形状となったドガの作品の隣に、マネ自身が描いたピアノを弾くマネ夫人の作品を並べてみたら、大変面白いだろう。ドガのアパルトマンの壁に掛けられたドガの気の毒な作品は、実はそれを待っていたのではなかろうか。
        ***
 以上の通り、ドガのこの作品は、画布の継ぎ足しのない状態で一度は額装された。それはパリ国立図書館にある写真から分かる。しかし、その作品の特に右辺側は、かなり折り込まれている。してみると、今日、北九州市立美術館の作品の画像部分の右端部(継ぎ足した画布の左端部ではない)にも画布を留めた釘孔の列が、些細に観察すれば、あるいは認められるかもしれない。若しくは、これを検証するために、放射線や赤外線、または紫外線調査なども有効かもしれない。
 
 
 
 
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マネの水平線-バルベー・ドールヴィイの評言

2021-11-01 17:22:00 | 西洋美術

 三浦篤氏の『移り棲む美術』(2021)の巻頭カラー図版の最初にマネの「キアサージ号とアラバマ号の戦い」が掲載されている。それはこの作品が著者によって重要な作品と考えられているからであろう。

 この作品には画面上方にマネの「高い水平線」が見られる。それはとりもなおさず、ジャポニスムの重要な影響によるものであることを、氏はあらためて論証しようとしたのであろう。

 そこには、マネと同時代の風刺画家たちや文学者たちの評言がいくつか引用されている。

 もちろん、俯瞰的な視点による「高い水平線」は、西洋美術においても皆無ではなく、ブリューゲルなどの作品も直ぐに思い当たる。が、19世紀後半、特に1860年代以降のフランス美術におけるそれは、ジャポニスムの影響とされることが多いのである。

 モネの1860年代の作品にも高い水平線が見られることがある。だが、彼の海景画における高い水平線は、1880年代の作品において最も顕著になるので、1864年作のマネのこの作品における高い水平線が、早期の例としてきわめて重要であることは否定できない。

 さて、マネのこの作品を論じるにあたっては、1872年のサロン展示(この作品の3度目の展示)の際の辛辣な戯画や、バルベー・ドールヴィイ、ジュール・クラルティ、1876年のマラルメの評言などが引用されるのがもとより常のようである。

 例えば、A.C.Hansonの"Manet & the Modern Tradition,"(1977)においても、こういった面々の評が見られるし、ほかの解説本などでも然りだ。 (ハンソンの場合は、G.H.ハミルトンのマネに関する著書 Manet and his Criticsからの引用に多くを負っているようだ。)

 ハンソンによれば、この作品は、1872年のサロン展示の際、大方は好意的な評だった。が、もちろん待ち構えていた風刺家や戯画の恰好な対象ともなっている。

 Stop,Cham,Leroy,Bertallらが、戯画などでこの作品を皮肉った側だ。だが、Barbey d'Aurevillyはこう言ったのである。

 「マネほど才気走らない人なら、絵を見るひとたちの関心を戦闘そのものに向けさせるため、相争う軍艦を画面前景に持ってきたことだろう。…(だが)マネはそれらを水平線上にまで押しやった。彼はそれらを恥ずかしげに縮小して遠方に遠ざけた。が、あらゆる方向にうねる海が、絵の額縁近くまで押し広げられた海が、それのみが戦闘を語って余りある。いや、戦闘よりもすごい。海の力動感により、大波のうねりにより、深海から巻きおこるとてつもない波によって、諸君には戦闘が分かるのだ。」

 マネはこの「歴史画」においても、自分の最も描きたいものを描いたのであり、自分の表現したい方法で表現したのである。バルベー・ドールヴィイはそう言いたかったのではなかろうか。

 後にユリウス・マイヤー=グレーフェも、マネのこの作品に関連して、「バルベー・ドールヴィイはマネの観かたの偉大さを理解して賛嘆していた」と述べている。バルベー・ドールヴィイはマネに辛辣な矢を放ったのではない。

 かくして「キアサージ号とアラバマ号の戦い」は、当代の事件を描いた「歴史画」でもあるが、もちろんマネらしい「海景画」ともなった。

 そして、マネがここで試みた高い水平線と青緑の波立つ海面は、のちに「ロシュフォールの逃亡」(チューリッヒ・クンストハウス)においては、素晴らしい心理的効果をもたらすことになるのである。


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