様々な読み方ができる本だが、亡霊のように現れるプラド美術館の師フォベルがいったい誰なのか、その目的は何なのかというミステリーとして読む人が多いかも知れない。
そう読んでも十分面白いが、私は一つには師フォベルの美術作品の解釈を、この本の筋書きから独立したものとして楽しみ、もう一つは主人公ハビエルの自己形成小説として読み終えた。
若い主人公ハビエルは、1990年12月、「よき師は弟子に準備ができて初めて現れる」とプラド美術館内で語りかけてきた正体不明の師フォベルに夢中になっていく。
フォベルは絵画作品を精神世界への扉を開くものとしてハビエルに様々なヒントを与え、また、次々と驚くべき解釈を示して彼を虜にする。
その解釈自体や背景が、事実に基づくとされる大変興味深いものであるから、読者の知的関心を大いに刺激するのだ。
ところで、若い主人公ハビエルは、著者ハビエル・シエラその人(と同一名)であることが、邦訳232頁で確かめられよう。
すると、著者自身の若い時代の自己形成がこの本の中に直接投影されているのではないかと思われ、ますます関心を引く。
本の終結部において、主人公ハビエルとともに読者は、フォベルが消え、フアン・ルイス神父が亡くなり、マリーナも離れていったことを知る。ハビエルは、新たな出発を自覚しなければならなくなったことだけは確かだ。
「未知なる師がぼくを選びながら、見放した」
その理由は、若いハビエルにはよくわからなったかもしれない。認めたくない事実だ。
だが若いハビエルは師に見放され、成長していくのだろう。
プラド美術館の師の謎、決して夢ではなかったことの謎は、こうして、20年後のさらに若い世代のこの本の読者に託されていく。