各巻、それぞれ、『蟻と少年』、『わが谷は緑なりき』、『こころのふち』、『ホテル・ヴェリエール』、『空想犯』、『手品の種』などの詩的な標題が与えられている。これは、各巻に含まれるエッセーのタイトルから採られたものであるが、このタイトルは、それぞれの巻の内容全体に通底するテーマが象徴的に示される語彙を含んでいるようにも見える。
例えば文集第2巻『わが谷は緑なりき』のタイトルは、「緑」の語彙を含んでおり、主に「絵のこと」についてのエッセーが集められている。旧約聖書『詩篇』第23篇における「死のかげの谷」と「緑の牧場」に関連した言葉で、安野はジョン・フォードの同名の映画に触発されてこの言葉が気に入ったようなのである。もっとも、氏が戦前の倉敷で買った思い出の絵具は、『絵のまよい道』にあるように、セルリアン・ブルーだった。
第3巻『こころのふち』は、内面の世界、すなわち「本のこと」、文学、読書の世界であり、第4巻『ホテル・ヴェリエール』が、「旅のこと」についてのエッセーを集めたものであることは言うまでもない。
この『文集』全6巻には、言葉で表現された安野光雅の中心部分があると言ってよいかもしれない。すなわち、安野光雅的キーワードは、「故郷」すなわち少年時代であり、「絵」であり、「本(読書)」であり、「旅」であり、「空想」、「トリック」、「思考」などである。
すでに『きりがみ いろはかるた』など、ことば遊びの世界で、ウィットの才が発揮されていたが、氏のエッセーのタイトルそのものにもウィットまたはエスプリが強く感じられる。『算私語録』、『散語拾語』など、洒落の利いた軽妙なタイトルだろう。
幅広い読書人としての安野光雅は、文学作品編者として、森毅(つよし)、井上ひさし、池内紀(おさむ)らとともに『ちくま文学の森』を編んだ。
その他にも、小説家、批評家、数学者、心理学者など各界著名人との<対談>に登場する安野光雅がいる。
『ロジックの詩人たち』(大岡信ほか)、『生きることはすごいこと』(河合隼雄)、『ねがいは「普通」』(佐藤忠良)などの対談集がある。
非凡な連想や「空想」の能力、子供の頃からの「好奇心」、相互触発による新鮮な議論の展開が期待される<対談>は、安野光雅の得意な領域なのかもしれない。
NHKのFM放送「日曜喫茶室」など、ラジオやテレビなど放送メディアへの登場者としての安野光雅は、さらに有名かもしれない。
加えて装丁や挿画の仕事では、よく知られたものとして、まど・みちお詩、美智子妃訳による『THE ANIMALS』、『THE MAGIC POCKET』などがある。
ポスターでは、井上ひさし・こまつ座公演関連などの仕事が有名である。平成に入ってから、司馬遼太郎との仕事『街道をゆく』(挿画)もこなした。
装丁・挿画・ポスターの分野だけでの仕事からも分かるように、今や、安野光雅は、美智子妃をはじめ、井上ひさし、司馬遼太郎に至るまで驚くべき仕事の広がりを示しているのであり、まさに「国民的」な芸術家となっている。
安野光雅が、<絵本>界からデビューをしたのは、今日振り返ると、必然的であったように見える。もともと少年時代から耽溺していた世界が、基本的に「絵」と「本」の世界であった。
この二つを武器に、まず、これらを独自に結び付け、これまでにない<絵本>の世界を創造した、というように見えるであろう。
しかし、<絵本>の世界から出発したのは、人と人との繋からくる、むしろ幸運な偶然であったのかも知れない。ともかく賽は投げられ、<絵本>の世界から出発して、成功した。
そこから<画文集>、<風景画文集>、そして<エッセー>の分野にまで到達するが、氏は常に「絵」を重要な表現手段あるいは表現対象そのものとして、もしくは時に考察のテーマやモティーフとして、徹底的に活用し、その可能性を追求した。
「絵」に連動した「本」という複製形式を見出し、それを通して、自らのあらゆる可能性を試した結果が今日の画家としての、文筆家としての、あるいは批評家としての安野光雅を形作った。
氏は、放送・出版メディア等も含む現代の主要な分野に登場し、各界の著名人たちとも幅広い交流をもち、私たちに親しい同時代人である。
安野光雅は、昭和40年代から平成期にかけて、画壇の世界にとどまらないで広範な世界に出てゆき、自らが持てるほとんどの能力を開花させた、多面的な才能の一人と言ってよいかもしれない。
Why Violins Have F-Holes: The Science & History of a Remarkable Renaissance Design - bit.ly/1T1OVe3 pic.twitter.com/xpZSsRRH5D
文章は読めても、行間が読めない人が増えたように感じるが、そうではないのだろう。ネットが発達したので、一人の声が大きく聞こえるようになっただけなのだろう。こういう時代の表現者や創作者について思うことを再ツイート。
何かを表現する時に、「きっとこンな反発が来るンだろうな」と想定して、それに対応した言い訳を表現に折り込んだ時点で、それは己の表現ではない。表現者として一番恐ろしいのは、自分の表現を好きでいてくれる人の事よりも、自分の事が嫌いな人間の存在を、始終考えてしまう癖が付く事である。
【モーツァルト】近年の研究では、モーツァルトはかなりの高額所得者であり、増減はあっても一貫して多かった。収入源は
1 演奏
2 ピアノと作曲のレッスン
3 作曲料(オペラは高額で450フローリン以上)
4 宮廷作曲家の俸給(800フローリン)
で年収は2000~6000フローリン
学生時代、よくモーツァルトのこの曲を知らないのかというようなことを言われたことがある。
この曲を聴く歓びが君にはまだ残されているんだからという意味らしい。
これはその音楽の深さや偉大さとは違うのかもしれないが、モーツァルトの音楽の天才性の発露は、私の場合、意外とふだん聴き慣れてない曲を聴いたときや、しばらくぶりに聴いたとき、予期しない時に聴こえてきたときに感じたりする。
モーツァルトの音楽は、その天才性を感じようと思って聴いても、私の場合は聴こえてこない。
私の邪念を察知してするすると逃げて行ってしまうのかもしれない。
モーツァルトの至純を証明する1曲。まあ、どれでもいいが「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。好きな曲はジャンル別でピアノ協奏曲。Nos,9,23,27。室内楽ではト短の弦五、ハイドンセット1番、2番。ディヴェルティメントK136。「踊れ、喜べ、、、」だが、こんなこと書いてどうする?
午前中散歩をしていたら、道路工事で交通整理をしている人に今日はよく晴れてあったかくていいですねと声をかけられ嬉しかった。
若い頃挨拶などあまり意味のない言葉だと思っていたが、歳をとればとるほど挨拶の大切さが身に染みてわかってくる。
どんな労働でも自分の肉体を使って一本気で仕事をしている人に悪い人はいないなというのは実感である。
行政の相談を受けている科学者が慎重すぎる言葉を使うと、行政に携わる人たちが自分流に、または自分に都合の良いように解釈する恐れがある。こんな場合、やはり専門家たちはその可能性がどちらに傾きそうか自分なりの判断を勇気と責任を持って示すべきだ。
行政などから相談を受けている専門家は、自分たちの役割をこう考えた方がよい。自分たちが与えたアドバイスは、それがうまくいった場合、内部で先生と持ち上げられるが、外に向かっては黒衣である。それがうまく行かなかった場合、内部からは責任が押し付けられ、外部からも強く非難される。
元原子力安全委員長の班目春樹さんが水素爆発について新聞でこう言った。福島原発の水素爆発について。<「考えてみれば当たり前の話。なぜ気付かなかったのだろう」。胸の内で自分の見通しの甘さを何度も責めました。>
班目氏の言葉(続き)。海水注入問題について。<科学者はデータがない限り、断定的に言いません。それで私は「(危険の可能性が)ゼロとは言えない」と答えました。これを政治家たちは「危険性がある」と受け止めてしまった。(それで注水中断の指示に至ったが、現場の機転で継続された)>
班目(まだらめ)氏の言葉(続き)。直流電源喪失について。<思いが至りませんでした。バッテリーを空輸するよう、早い段階で提案していたら、その後の相次ぐ爆発を食い止められたかもしれません>2016年1月27日の読売新聞から
モーツァルト生誕260年。肖像画は個人的にはやはり未完成のランゲのものがいいな。
ランゲによるモーツァルトの肖像画、Twitter上にありましたのでRTさせて頂きます。小林秀雄以来なのか、みんなこれがいいと言っていました。 twitter.com/masa_yamr/stat…