ある美術品が贋作と分かった場合、わが国では現在どのように扱われているだろうか。
先ず美術の専門家集団がいる美術館ではどうか。
美術館では、その作品が当該館の所蔵品である場合、たいていは秘密裏のまま収蔵庫の奥深くに眠ることになるのではないか。
美術館はひたすら人々がその作品の忌まわしい記憶を忘れてくれるのを望んでいるかのようである。
美術館が贋作に関する特別な展覧会でも開かない限り、その作品は、場合によっては、その真贋もはっきりとした診断が下されないまま眠り続ける。「寝た子を起こすな。」
なぜこんなことが起こるのか。
それは、その作品に関わった専門家集団であるはずの人たちの名誉と地位を守るためではないか、とまずは疑われよう。それが国公立の美術館だと(購入などのための)真贋の判断は組織として下されたわけだから、その責任は組織全体に及ぶ。だから組織全体を守るためでもある。「だが、それは税金で買ったものなのだ。」
担当学芸員や上司たちはもちろん、それに関わらなかった学芸員も組織の一員として、それが間違った判断ではなかったかということは、後で口に出すのは憚れる。「なぜあの時点で言ってくれなかった。君も賛成して決裁文書に印を押したはずだ。」
次にそれが寄贈作品のような場合は、それを寄贈した人の名誉を守るためでもある。「なんだ、あの人が持っていた作品は贋作だったのか。美術館はそれが解らなかったのか。」「あの人が寄贈してくれた怪しい作品はそれだけだ。その他の多くの寄贈作品は問題ない。だからその1点でこれまでの名誉を傷つけてはならない。」
美術館で疑わしいと思っても社会的な地位の高い人が関わる寄贈の場合、判断が急がされる上、明確にそれが贋作とその時点で証明できない限り、けっきょく真贋が曖昧なまま受け容れ、怪しい作品は収蔵庫に眠らせるということになることもあろう。
こうして未公開のままになっている美術品があちこちにあるのではないか。
公立に限らず、私立の美術館などでもこれまであまり展示されていない作品があるとすれば、それは何らかの理由があるからだろう。
美術館はそうした未公開の作品の中で真贋に関わると思われるものは、「触れてはならないもの」とするのではなく、積極的な<研究対象>にしなければならない。
美術館は何らかの「事業」をするための単なる展示施設ではなく、研究機関の一つであることはやはり忘れてはならない。
その成果はたいていの美術館で独自に発行している研究紀要などで、なぜ、それが贋作と結論するに至ったかということを丁寧に説明し、単なる結論だけでなく、学問的な判断過程を公表すべきだろう。その際いわゆる権威者たちの経験と眼だけによる白黒判断の多数決はできるだけ避けられたい。
そして、その作品も時には公開することが必要だ。かつて判断を間違った人たちを責めるのでなく(どんなに優れた専門家でも真贋判断を誤ることはあるし、それにその専門家はいつも間違っていたわけではないのだ)真実を明らかにして、その美術館職員の水準や、美術を見る公衆の目を具体的に養うためである。
かつての専門家集団が直ぐにはわからなった作品がどんな作品だったのかは、実際に多くの人々の眼に触れさせてみて初めて実物を通した教育になる。それは、今後、同様の贋作(贋作は同一作家によって複数作られていることが多い)を見破るためにも必要だ。