美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、つぶやきやメモなど。

中村彝とシスレーの「ルヴシエンヌの雪」(1878、オルセー美術館蔵)

2024-11-21 20:35:47 | 中村彝


 〈上の画像、『大正の美と心 中村彝展』図録(1997、新潟県立近代美術館)より引用〉

 雪の日の風景を描いた彝のこの作品は、下記にリンクするオルセー美術館にあるシスレーの「ルヴシエンヌの雪」(1878)に、その主題とともに、
構図上ちょっと似ている。

 病弱な彝だが、雪景色の作品は幾つかあり、初期の小品(これはモネの強い筆触を思わせる)にも見られる。

 彝の先の作品「風景」(いなり記念館蔵)の画面中央遠景部に見られるオレンジ色の煙突が見える洋風の建物は、茨城県近代美術館の重要な作品であるよく晴れた日の「目白の冬」の中央の建物と同じ建物である。
 にもかかわらず、描いている画家の立ち位置が茨城県の作品とやや違うためか、いなり記念館が所蔵する雪の日の作品は、あたかもシスレーの「ルヴシエンヌの雪」を想起させるかのような構図に仕立て上げているように見える。

 彝は、この作品を描くのに、構図を決定する上で、何かの複製図版で見たであろうシスレーの作品を念頭に置いていたのではなかろうか。つまり多少の現実の改変がそこにあるのかもしれない。

 シスレーは、道が遠近法的に後退していく作品を好んで描いた。多くの作品は、緩やかにカーブして、地平線のある遠方まで後退していくが、「ルヴシエンヌの雪」では、道は直線的に、しかも遠景部というよりも珍しく建物のあるあたりで遮られている。だが、シスレー持ち前の抒情的、詩的な雪景色であり、ジェルマン・バザンは、クールベのような凍った雪景色でなく、今降ったばかりの静寂で汚れのない雪であり、コットン・ウールとかフェルトのような雪だと述べている。そして、画面の遠景部に、多くのシスレーの風景に見られるような小さく描かれた添景の人物が静かに遠ざかっていく。

 彝の雪景色の作品は、シスレー作品に比べると構図上の類似にもかかわらず、そのような詩情とは違った趣がある。シスレー作品における遠ざかっていく添景の人物に相当する位置には、「目白の冬」にも見られる鶏が数羽描かれ、詩的というよりも、身近な現実の風景といった趣が強い。雪の量も少なく、降り止んだばかりの雪というよりもしばらく時間が経ち、雪の色調の違いが示しているとおり、今は太陽の光も僅かに差し込んできたかのようである。

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中村彝と遠山五郎 セザンヌをめぐって

2024-11-21 16:22:45 | 中村彝
 没後100年中村彝展が千波湖畔の茨城県近代美術館で開かれている。
 その図録を読むと、彝の「洲崎義郎の肖像」をめぐって、レンブラントの「ヤン・シックスの肖像」の他に、セザンヌの「ギュターヴ・ジェフロワの肖像」の影響が指摘されていた。
 かつてこのブログ記事を書いている筆者も、洲崎が彝に贈ったセザンヌ画集などとの関連から、セザンヌの「ジェフロワの肖像」における衣装の暗い色調や筆触と、両腕と頭部によって構成される三角形構図などに注目したことがあったが、あえて触れたことはなかった。
 画家が写真からではなく、生きたモデルを前に肖像画を描く場合、モデルにどんなポーズをとってもらい、どんな衣装や環境や背景の設定でモデルに対面し、時にはモデルと対決するかという視点はきわめて重要である。

 特に肖像作品の影響関係を考察するとき、やはり、モデルのポーズ、その特徴(例えば洲崎の肖像では室内にいるのに外套を着て左手だけ手袋をはめているなど)、設定された(室内)環境の類似性は重要である。

 確かにセザンヌのジェフロワの肖像は人物像の三角形構図やその色調、筆触に、「洲崎の肖像」との関連で注目されるものがある。
 が、この作品との影響関係で私が最も注目したのは、やはりセザンヌの作品から学んでいるはずの遠山五郎の「書斎における兄の肖像」(大正12年)であった。

 何よりも誰の眼にも明らかなようにモデルを書斎という環境に設定し、(やや未完成的に)多数の本が並んだ書棚を背景に描く、そして、モデルの前にはデスクトップに書物や書類などを拡げた構図(これは既にドガの「デュランティの肖像」によい先例がある)を思い出さないわけにはいかない。

 遠山五郎が「書斎における兄の肖像」を描いた大正12年、彝は前年8月にフランスから帰国した遠山が今はこの「兄貴の肖像」を描いていることを知っていた(7月30日、鈴木金平宛書簡)。また、この年、彝は遠山が経済的に困っているので洲崎に「金子四百円の融通」を願っていた。
 してみると、彝が以前から(場合によっては洲崎の肖像を描く前から)セザンヌの「ジェフロワの肖像」を知っていて、遠山が「兄貴の肖像」を描くに当たって、何がしかの示唆を与えた可能性なども想像できるかもしれないが、直接的な証拠はない。
 しかし、このように絵が語ることのみによって、それらの相互関連を想像してみるのも楽しいことではある。
画像左はセザンヌの影響が見られる遠山の静物画、右は「書斎における兄の肖像」、『生誕100年記念 中村彝・中原悌二郎と友人たち』展(1989)の図録から

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大正9年、柏崎で開かれた中村彝展

2024-11-19 11:52:17 | 中村彝
 標記について、筆者は3年前の2021年11月に“note”というブログに2回にわたり記事を書いた。


 それは、大正9年、柏崎で開催された彝の個展の展示作品をどこまで特定できるかという問題を解決しようとする試みである。

 なぜそのようなことをするのかというと、例えば、それは画家の描いた作品の真贋の問題にもかかわるからである。
 さほど優れていないように見える作品も画家生前中に開かれた展覧会に作品が展示されていたと分かれば、作品の真正さの証明に近づくことになるだろう。

 作品の展示歴、所蔵歴などの来歴が分かれば真贋判定にも大いに寄与するのである。

 2024年11月現在開催中の茨城県近代美術館における「没後100年 中村彝展」図録論文では、先のブログ記事と同様な問題設定と方法のもとに、吉田衣里氏が柏崎での中村彝展に出品された作品を新たに同定することに成功している。

 先のブログ記事では、「照合不可」としていた5点の作品のうち、「庭の斜陽」と「(大島の)椿」なども同定している。

 また、これまで「或る椿のコンポジション」と言われてきたやや不自然なタイトルの作品を当時の資料に基づき「或る絵のコンポジシヨン」と改めて、それを「画家達之群」と同じ作品としていることも成果だ。
 「椿」でなく「絵」とした場合、コンポジションは構想画または想像画の「構想」という意味だろう。椿のコンポジションなら、椿の在る「構成」などの意味になり、静物画を想像させるから、画像の同定が困難になっていたのである。
 これは、おそらく「絵」の旧字体の文字(繪)を「椿」と読み誤ったままこれまで伝わって来たのだと思われる。
 また、他の写真ではこれまで確認できなかった彝の初期の自画像のうちの1点を別の写真の中から発見している。

 茨城県近代美術館の完全自主企画によるこの展覧会の図録、労作である。(続く)
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シスレー作品タイトルの和訳をめぐって

2024-11-14 16:36:50 | 西洋美術

シスレーは、印象派の純粋な画家として、きわめて抒情的な優れた風景画を多く描いた。

その中でも、ここで取り上げるのは、ある地点、ある場所から見た道の描かれた風景画のタイトルについてである。

例えば中村彝がシスレーのある作品の模写をしているが、そのタイトルはこうである。

"La maison abandonnée -chemin des Fontaines"

これを単純に和訳すると「廃屋、フォンテーヌの道」となるだろうが、これは間違いではないとしても、果たしてそうだろうか。

ここで問題なのは”des”の訳である。

des はもちろんde+lesだが、フランス語のdeには、英語の"of"や"from"の他に"to"の意味を含むことがある。

特にcheminなどの後に来るdeプラス地名などには、どこどこへの道、どこどこに向かう道を意味することがある。

従ってここでも作品名は、「廃屋、フォンテーヌへの道」とする方がよいのではなかろうか、そういう問題提起である。

もちろん描かれた場所が明らかにレ・フォンテーヌなら「フォンテーヌの道」でもいいのだが、それが特定できないのでどこかに向かう道を描いたと考えて「フォンテーヌへの道」とするのが絵のタイトルとしてはよいのではないか。

なぜなら「フォンテーヌの道」とすると、日本語としてはフォンテーヌで作品を描いたことになってしまうだろう。しかもフォンテーヌには道がたくさんあるだろうから奇妙なことになってしまう。描かれた「廃屋」ももちろんここにあることになるだろう。

**

次に日本にあるシスレー別の作品の場合を見てみよう。

”La route de Mantes à Choisy-le-Roi”

このタイトルの和訳を見ると"de~à~"の縛りが強いためか、次のように和訳されている。

「マントからショワジー=ル=ロワへの道」

この和訳されたタイトルだけ読むと、道の道程すべてが描かれているわけではないので、多くの人は作品がマントで描かれ、ショワジー=ル=ロワへ向かう道を頭に描くだろう。

だが、ある作品解説を読むと、作品はどうも後者で描かれたかもしれないのである。

とすると和訳されたタイトルの本当の意味は「マントへの道、ショワジー=ル=ロワ」ということになる。すなわち、英訳するとこうなるだろう。

"The Road to Mantes at Choisy-le-Roi"または"The Road to Mantes , Choisy-le-Roi"のような表記になるだろう。

すなわち、そうすればこの作品は、ショワジー=ル=ロワで描かれたと思われて、納得されるだろう。

***

同様に別のシスレー作品で、かつて「セーヴルへの道、ルヴシエンヌ」と和訳されたオルセー美術館の作品があるので、この例を見てみよう。

これは、J.Rewaldの有名な本には"The Road to Sèvres at Louveciennes"とあり、ルヴシエンヌで描かれたことが明示されている。

そしてこのタイトルはフランス語ではかつて"La route vue du chemin de Sèvres"であり、ここでも"de"は明らかに”to”の意味であり、どこどこへ行く道であることを示している。

ただし、オルセー美術館のこの作品は今日、研究が進んで"Chemin de la Machine,Louveciennes"と改題されている。すなわち「マシーヌへの道、ルヴシエンヌ」である。

****

シスレーが道を描いた作品名においては、描かれた地点が重要である。「どこどこの道」と「どこどこへの道」では、少なくとも日本語において、イメージがかなり違ってきてしまうから、翻訳者や研究者は描かれた地点を考慮して和訳すべきだろう。

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