気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

梅・桃・桜

2023-03-21 | 旅行記

春到来!

純白な白木蓮の大木、

・・・隣に待ちきれず早咲きの桜が、こちらを見てと・・・

ジョキング中だが気になる・・・脇道にそれて、スマホでカシャ 

あれから1週間以上、公園横のここは既に葉桜となって、樹が活き活きと輝いています。

3/19の飛鳥山公園は、3分咲くらいでしょうか。

一部の山桜が、薄ピンクの花びらを広げていました。

・・・関東では、桜の前に梅が咲き、桃が咲き・・・桜は山桜から八重桜まで比較的長い開花期間が続きます。

どこかに行こう・・・桃源郷を探します

・・・関東の北部で、3/18~4/2まで 桃まつり が開催されています。

ここは、梅の後に紹介しましょう。

少し時期が戻るが、2/11~3/19まで 関東の北部で有名な 梅まつり が開催されていました。

JRの 偕楽園臨時駅 の近く、偕楽園下駐車場に車を入れる。

駐車場の左から常盤神社の階段を登り、正面は神社、・・・左に折れると

チケット売り場があり、チケットを購入して・・・すぐ先に東門があります。

ホテルに寄ってきたので、すでに夕刻、PM8:00まで開園とあります。

丘陵地の平らな部分に遊歩道が整備されています。

梅林はここの右側に広がり、左側は手前に広場があります。

第127回 梅まつり は週末に終了ですから、大半の梅は咲き終わっているでしょう。

偕楽園では、約100品種で3000本、水戸駅の近くの弘道館が、約60種800本と紹介されています。

遅咲きの梅を見つけて、樹木の銘板を探します、大半の樹には表示されていました。

これは、銘板は、別カットから切り抜き、枝側の画像に合成です。

スモモ系の八重が、遅咲きのようで満開でした。

これは早咲きの品種、わずかに枝先に咲き残っていた部分と合成です。

こちらは、遅咲きですがほとんど花が見つからず、多少元気がないです。

白加賀は比較的多く栽培されていたような気がしました。

色んな名称が付いているので、じっくり観察したいのですが・・・それはシーズンに2~3度訪れる必要があるでしょう。

この樹は、月宮殿 とありました。

こちらは、紅浪速

そして、梅林に沿って進むと・・・野点会場が現れました。

この右側に、斉昭公(ナリアキ)が企画された建物「好文亭」がPM5:00まで有料公開中です。

3階の楽寿楼からの眺望がすばらしいようです。(戦災で焼失、1958年再建)

夕暮れで営業時間は既に過ぎていますが、有名な芝前門はライトアップされています。

ここを通って、先ほどの野点会場の横に出ましょう。

こちらは二季咲桜、秋から冬と春の年2回咲く桜、他に好文亭中庭、東門付近でも見られるそうです。

見晴広場の先に進むと、丘陵から崖になるようで、千波湖が眼下左に・・・右にテールランプの波が・・・

偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ「日本三名園」と言われます。

1842年水戸藩 第9代藩主 徳川斉昭が偕楽園を創設され、ここには陰と陽のイメージが感じられるとか

表門から好文亭までの遊歩道は、孟宗竹の竹林、大杉林、クマザサが茂る陰の世界だそうです。

陽は時間外で入場できませんでしたが、楽寿楼からの梅林や見晴広場そして千波湖の眺望など

肌寒い季節の梅まつりですが、徐々に日が延びて、元気を運んでくれてます。

PM6:00を過ぎました。サァ、食事の時間、帰ります。

・・・自宅の手作り温室栽培の胡蝶蘭、年末の12/18頃、1株だけが

花茎が伸びて、蕾を付け始まています。

支柱は少し前に1本立ててありますが、・・・オッ、この株は元気なようで茎が3本になりそうです。

・・・中央の1本の茎だけ残して大きな花に挑戦するか、3本で咲かせてみようか・・・

年が明けて、3/15の開花状況がこちらです。

温室から取り出す際に、最初の花を1輪折ってしまい、セロテープでしばらく補強した痕跡が残ったままです。

上部にも移動で傷ついた箇所が、花が枯れてきました・・・

3本の支柱を立てて、・・・クリップだけで花の向きを整えるのは難しい作業です。

調べてみると、プロは茎をねじって左右均等に蕾を揃え、テープ止めの作業をされているようです。

開花してからも、明け方の最低気温15℃以上が必要で、・・・管理ができないが・・・2月初旬に多くの人前に移動

・・・会社の玄関横で1ヵ月・・・先端の蕾は温・湿度の変化が大きく、これ以上花は開かないようですが元気です。

自宅の温室の他の鉢は、1鉢が花茎を伸ばし始めました。

電気代の大幅アップで・・・ヒーターの設定温度を下げたので、これから5月にかけて咲く株に期待です。

では、桃まつりの編集に・・・。

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太宰府天満宮

2023-03-03 | 旅行記

最初の太鼓橋を渡ります。

太鼓橋を上りながら・・・カメラだけ振り返るとこんな感じ、・・・右は心字池です。

そのまま橋の中央を少し過ぎたところです。

思ったより幅広で大きな橋です。

ではカメラを前方に戻します。・・・橋を下ると今度は右側に古い建造物・・・今王社があります。

そして前方は、平らな橋です。

その先の右側の青いシートは、これも古い江戸元禄時代の志賀社が修復中のようです。

立ち止まらないで・・・進みましょう。

未来の太鼓橋、つまづかないよう、緊張しないで・・・ぶつからないよう進みます

橋の中央から前方に・・・第五ノ鳥居が見えてきました。

そして、あれが最後の鳥居でしょう

石灯籠が立ち並ぶ中を、鳥居に向かって・・・

太宰府の天満宮は敷地が広いですね。

この右側の丘陵地、神社の敷地に2005年秋、九州国立博物館が開館しています。

右側に手水舎があります

手水舎は銅葺屋根です。

そういえば、ここまで鳥居は全て石組かコンクリートのようでした。

最後の鳥居は明治35年、一の鳥居は多分江戸元禄時代のようでしたが青銅の鳥居は見かけなかった。

戦時中に供出されたのでしょうか、湯島天神は現存しています。

正面、・・・立派な楼門です。

こちらの屋根は、伝統的な檜皮葺でしょう。

さあ内部に入りましょう。

本殿の右側に飛梅があるようです。

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」道真公を慕って、都から一夜にして飛んできたと伝えられる由縁の御神木です。

品種は「色玉垣」(極早の八重咲き)と天満宮HPより

天神様は、梅ですね

本殿の正面は、檜皮葺の上に唐破風(カラハフ)棟鬼飾り(ムネオニカザリ):ここは銅板です。

梅の紋章が・・・金箔に漆塗り仕上げでしょうか

檜皮葺は茅葺と違って耐久性がありますが、やはり60~70年で葺き替え、技能も継承されます。

御朱印帳は、通常は本殿左横に案内があるようですが、混雑時は左側から抜けて社務所に案内があります。

右から、本殿の裏側に回ると、直ぐにこのような光景が

これは赤ひょうたん? 案内板がありました。

厄晴れひょうたん と呼ばれるようです。

参拝を終えて、他に珍しいものは・・・楼門を抜けて手水舎の先にこのような動物が置かれています。

獅子にペンギンでしょうか。

横の説明を拡大表示します

ここに鷽替え神事のイベントが記載されています。

太宰府天満宮の今年の1/7の鷽替え神事はこのように、お知らせがありました。

"1月7日(日)18時より「鷽替え神事」が天神ひろばにて斎行されます。
「鷽替え神事」には、前の年に知らず知らずのうちについた全ての嘘を天神さまの誠心に取り替え、これまでの悪いことを嘘にして今年の吉に取り替えるという意味があります。

当日夕刻より、神事に用いる「木うそ」(初穂料1,000円)を授与いたしますので、神事に参加ご希望の方は、木うそ授与所にてお受けください。

 天神様のHPから借用させていただきます。

ところで、太宰府が発祥の地とありますが、他の天神様では、鷽替え神事?行われていました?

調べてみますと、亀戸天神は初天神(1/24-25)に多くの参拝者があり、鷽替えも人気のようです。

湯島天神も1/25に行われたようですが、知りませんでした。

他にも多くの天神様で行われているようです。

この天満宮には、境内や神苑に白梅と紅梅遭わせて6000本、200種類以上、2月上旬から3月中旬が見頃

心字池の横を通って進むと

紅梅が咲き始めていました。

この先は、屋台が出ています。

そして参道に戻り、隈研吾さんの木組み、2012年グッドデザイン賞

今日では、表参道など多くの所で木組みを見かけます。

戻ってきました。

ここで購入しましょう

縁起ものですから(お正月限定・木うそ入り)

これは、こちらの梅園さんオリジナルです。

来年、湯島天神で・・・鷽替えはしなくて大丈夫でしょう。

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太宰府 うそ!

2023-02-24 | 旅行記

うそ?、嘘じゃないそうです。

見たことありますか?  そんな鳥が・・・知りません?

鳥?・・・飛べ無さそう

その前に、最近(2017年)世界文化遺産に登録された神話・古事記に記述のある場所に寄ります。

遣隋使や遣唐使も大陸に向かう際に玄界灘のこれらの島々を目印に航海されたといいます。

福岡県宗像市(ムナカタ)田島2332 宗像大社(ムナカタタイシャ)

第一駐車場から、参道を進むと二ノ鳥居の先に太鼓橋が見えます。

参道の左側、心字池越しの太鼓橋です。

参道に戻って、左右に手水舎がありました。

左右同形で、端正な造りです。

続いてすぐ先に神門と呼ばれる門があり、

ここを抜けると

正面に、拝殿と奥に本殿があります。

左右を少し見上げると、歴史を感じられる奉納額が多数あります。

日本史も文学も不得手なので、多分和歌なのでしょう。

調べてみましょう。

宗像大社の資料では、名称は、「三十六歌仙図扁額 福岡藩第三代藩主 黒田光之奉納」

1680年(江戸時代初期・延宝8年)宗像大社辺津宮へ奉納した扁額一組(36面)

一枚板に黒漆塗の木枠、上部に色紙形に和歌、下方に金地背景に歌仙が描かれています。

この奉納額の書は、藤原基時、絵は狩野宗家の安信(永徳の孫)、良く残っていました。・・・57.7×36.9㎝

現在の社殿は、1557年に焼失したのち、本殿が1578年、拝殿が1590年に再建されています、国の重要文化財です。

さて、宗像大社がチョット複雑なのは、宗像三女神が降臨したのが 辺津宮・宗像田島に「市杵島姫神(イチキシマシメ)」で、こちらになります。

本宮の参道右側から

そして、日本から朝鮮半島や隋・唐の大陸に渡る航海の安全の神様として、玄界灘の先11kmの中津宮・筑前大島に「湍津姫神(タギツ)」が祀られてます。

さらに海上を進み、大島から49km先の沖津宮・沖ノ島に「田心姫神(タゴリ)」が祀られています。

天皇の祖先神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の命令により三女神は御子神(ミコカミ)であり、玄界灘に降臨して歴代天皇を助け奉りなさい・・・。

世界文化遺産では、三宮の祭祀が注目になり、特に沖ノ島は神秘の神宿る島として保存されています。

伊勢神宮の雰囲気が感じられる裏側に回ってみましょう。

この建築様式、神明造、基礎柱と屋根が特徴的です。

広角で二つの宮を取り込んでいます。右側の案内板を見てみましょう。

右側が、第二宮(テイニグウ)とあります。

ここは沖津宮の御分霊をお祀りしていますので、本土から60kmの沖ノ島を忍んで参拝です。

第二宮

鳥居があり、拝殿と本殿の構成です。

そして左隣が、第三宮、こちらは中津宮、本土から11kmの大島の分霊が祀られているとのこと。

宗像大社の位置関係、案内図があります。

案内図は、上がほぼ北、上の駐車場から南に進んできました。

第一駐車場から二ノ鳥居を抜けて、本殿から西側を回り、現在地です。

案内図の左下、高宮祭場は、古代の祭祀の姿が伝わる所で・・・社殿の無い祭場として神聖な場所とあります。

では、戻りましょう・・・駐車場の横に見える、こちらが一ノ鳥居になります。

鳥居の右横を県道69号、宗像玄海線が走っています。

北に3.5kmくらい進むと玄界灘、港があり大島は目の前、フェリーが出ています。

宗像大社から移動します。

九州自動車道、太宰府ICから約6km

ここから参道入り口近くの大駐車場までが・・・多少渋滞しました。

右上の駐車場から東に参道を直進、間もなく右手に駅が・・・合成したパノラマで

片側1車線の道路が交差しているので、十字路に信号があり、駅は、信号を渡った右側

西鉄の太宰府駅です。駐車場からは200mくらいでしょう。

参道を進みます・・・右側に青緑色の文字で梅園の店が見えてきました。

店員さんの説明を聞いて、・・・帰りに購入しますと・・・まずは天神様へ

十字路を渡ると一つ目の鳥居があり、ここを抜けて、参道がさらに込み合ってきました。

太宰府名物 梅ヶ枝餅を売る店から声がかかります。

100mくらい進むとニノ鳥居、さらに100mくらい先の右側に太宰府天満宮案内所があります。

鳥居の手前右側、ここで天満宮と門前町の案内図を頂きましょう。

三ノ鳥居を抜けて、右角に鎮座していました、何カ所かに置かれているとのことです。

天神様といえば牛

多くは、撫で牛として、巣鴨地蔵のように悪い所を撫でていかれる方が多くみられます。

菅原道真公は、903年2月25日(梅の香る時期)丑の日に太宰府の南館で亡くなられた。

「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、御遺骸を牛車にひかせていましたが途中でストップ。

間もなく牛車を引いていた牛が伏して、動かなくなった。

この地を聖地とし、御遺骸を葬った、(神話の話ではなく実在の方でしたから、道真公は無実で左遷させられ・・・昌泰(ショウタイ)の変)

2年後墓所と神殿を創建、さらに919年に御社殿を建立された。

 この後、道真公を太宰府に追いやった人々に不幸が次々と、さらに長雨、洪水、干ばつ、伝染病・・・これらの元凶は

魑魅魍魎・陰陽師が貴族社会では全盛の時代です、禍は道真公の怨霊と恐れられます。

・・・942年、平安京内の右近馬場の地に天満宮を創建することになります。

(北野天満宮)

学問の家柄である菅原一族が、北野天満宮を管理することになり、やがて学問の神様、菅原道真公を庶民は信仰へ

(北野天満宮、石の臥牛)

天神様信仰の聖地、太宰府天満宮は年間○○人の参拝者、さて天満宮様の案内には何名とあるでしょう。

年間650万余の参拝者とあります。

では参道を90度左に曲がって、境内を進みましょう。

境内にある最初の鳥居です。

その向こうに太鼓橋が見えます。

太鼓橋、平らな橋、さらに太鼓橋と続きますが、ここを渡る際にボーッとしてないで次のことを守りましょう。

最初の太鼓橋は、過ぎ去った過去のこと:振り返らないで進みましょう!

平らな橋は現在です:立ち止まらないで進むのです!

その先の太鼓橋は未来です:つまづかないで、進みましょう!

できたかな・・・一寸 休憩です

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関門海峡

2023-02-12 | 旅行記

小春日和・・・?イエ、曇天の1月、平和な日本で・・・街中の通りすがりの後景です。

近くの港から・・・牽引されていきます、地対空ミサイル(誘導弾)でしょうか。

武器の輸出は禁止ですので、ウクライナには行かないでしょうが。

ここは、門司港 門司港出征の碑の近く、海事広報展示館2階に各種資料が展示してあります。

関門航路および関門港 撮影日は2010年11月24日 主要な船舶に国際信号旗が掲示されています。

左上、青枠内に赤の四角は、医療の援助が欲しいの意志表示(W旗)、白と青のKは(A旗)潜水夫を降ろし、微速。

右端の上が赤、下が青の二色旗(E旗)は進路を右に変えている。

文字旗がA~Zの26種類で、他に数字が10種類など。

全体が俯瞰できるように目の前の高層マンション・タワーに向かいます。

門司港レトロ展望室、入場料¥300-

1階の展望エレベータに向かう途中、右側の壁に接して・・・只今放送中の表示が

ローカル番組、TVカメラが・・・三脚の上にあるのは、マイクは4本、落ち着いた会話が続いていました。

黒川紀章氏の設計、最上階31階です。地上103m。

関門橋が見えます。こちらは北側

関門海峡の一番狭い部分、下関の壇ノ浦とこちらの門司を結ぶ橋で、1,973年開通、橋長1,068m。

大型船も橋の下を通るので桁下から海面まで、61m。2011年から大規模補修が完了しています。

説明が描かれています。

関門トンネル・人道・・・1958年完成した約780mの人と自転車(押して通行)のトンネル。

人は無料、自転車・原付20円(但し、通行可能な時間があります。6:00~22:00の間です)

少し西に移動します。

対岸の下関側に、タワーが見えます。

海峡ゆめタワーです。

窓下では、はね橋が人気のようです。

その先、もう少し左を見ると

線路が沢山、ターミナル、JRの門司港駅です。

JRの現役の駅:門司港駅です。

パンフレットから確認してみましょう。

1914年、開業当時は門司駅として、1942年に門司港駅と改称されます。

1988年には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されます。

2019年、6年間の復元工事が終了して、大正時代の姿に復元されました。

石積みかと思ったら、木造2階建て、・・・内部は確かに木造です。

このレジスターのような機械は?・・・券売機でしょう、路線図に運賃表や時刻表、博物館と勘違いしました。

九州鉄道の起点「0哩(ゼロマイル)標」があります。

満州からの引揚者が佐世保港、舞鶴港、門司港に・・・復員兵がやっとホットされた門司港は、約100m先

駅から桟橋まで「関門連絡船通路跡」が残されています。

近くには、他にも洋館が・・・目立つ塔が乗っているレトロな館は「旧大阪商船・門司支店」1917年竣工

重厚ながら温かみのある建築です。無機質なガラスと違い、暖色のある壁面は良いですね。

さて、31階の展望室には有名な島の案内がありました。

1612年決闘当時は、白い砂浜が続く舟島と呼ばれた小島だったと書かれています。

現在は埋め立てが続き、当時の10倍の面積(10万㎡)島の周囲1.6km、人工海浜があるようです。

近くの桟橋から5分の距離、ゴールデンウェークにはイベントがあるようです。

さて展望室を降り、目の前の洋館

旧門司税関に入ってみましょう。

明治45年、レンガ造りの瓦葺平屋構造・・・エッ? 昭和2年まで税関庁舎として使用されていた。

2階建てと違うの?

天井が高い、屋根は平では無く、瓦が乗る勾配があるようです。

昭和20年の門司大空襲で屋根が焼け落ちています。

平成5~6年復元改修工事で当時の姿に・・・明治のレンガは現在よりも一回り大きく、特注で対応。

独立した木造2階建てを建設し、レンガの壁から6㎝離して据え付けられています。

不思議な感覚になりますが、地震の揺れが直接レンガ壁に伝わらないよう工夫されていました。

1階で休憩できます。密輸の手口を掲示してあるコーナや古文書なども公開されていました。

夕暮れ・・・関門橋で山口県下関市に渡ります。

狭いようで・・・海峡は思ったより広かった。

下関といえば、福、フク

握り寿司・・・イヤ、色々と 

ふく刺し、ふくちり、唐揚げ、などなど、おまけはフク煎餅

門司に帰って、駅前に散歩に行けば、新幹線とモノレールが上空を走るので、大都会にビックリ。

賑やかな、駅周辺でした。

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新鮮・身が厚いアオリイカ

2023-02-02 | 旅行記

海に面した小山の上に、灯台のように周囲から見上げられる天守閣、

この城が唐津城、AM9:00から入場できます。

階段を登る以外に奥に進んでエレベータで庭園まで行けるようですが、もちろん階段コースを進みます。

石垣はそれなりに、立派な石垣ですが

これは、この先の半島・鎮西(チンゼイ)地区に築城され、9年後廃城となった所から運んで再利用した物が多いとか

城郭に特有の角を曲がって、また角、周囲を少し回りながら登ると、藤棚が見えてきました。

立派な藤棚の下を抜けると、広場に出ました。

天守閣が見えます。

ここから右の石段を登り

城内に入り、門の先に最後の石段です

石段の正面に庭園(一部工事中)があります。

先ほどの藤棚を過ぎるとここは桜の木々もあり、春の桜、初夏の藤と見ごろになります。

この石段を左に曲がり、到着した所が広い庭園となっていました。

天守閣から見える、ここの庭園は結構広い

エレベータの人が、多分この庭園の先、左の小屋あたりから歩いてこられたので結構離れています。

そして、今まで登ってきたコースの風景が

この先城内に入り、階段を上がった1階でチケットを購入のようで、ここまでは無料公開の公園です。

では、入りましょう。

入ってすぐ右側に5階建てで各フロアーの間取りが表示されています。

一応ここはB1でしょうか

入って右側にある階段を上がると

1階、券売機が見えます。その先が入口です。入口の先、左側に売店などもあります。

館内は、唐津城の歴史、城主の遍歴などをVTRで紹介するコーナーなどもあります。

豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が関ヶ原の戦いで東軍方に付き勝利・・・12万3千石の外様大名としてこの地へ。

1602年から築城、1608年完成、徳川の監視が強く増築は許可が必要、

1637年島原・天草の乱の責任を取らされて、天草領4万石を没収され、二代目 寺沢堅高はその後、1647年自殺。

嗣子が無く寺沢家は断絶。

唐津城、その後は譜代大名5家が入れ替わり・・・明治維新まで小笠原氏の居城。

天守からの眺望です。

西側の尾根に大きな風車が並び、風力発電しているようですが、台風が怖いですね。

この尾根の向こうの尾根・・・の岬にこの後向かいます。

天守の内側に東西南北、このような眺望ですと写真が掲示されています。

東が虹の松原、宿泊したホテル、橋を渡り(左が玄界灘)・・・この写真、桜がきれいです。

そして北側も、庭園の桜が見事満開の写真です。

これから行く西側の眺望は、半島が見えます。

風車は遠くで、よく見えないです。

最後に、唐津市街のある南側です

さて、この城は天守台まで建築されましたが、天守は1627年の幕府の記録には残されていないそうです。

廃藩置県後、1871年廃城となり建造物は解体され、この地は舞鶴公園となります。

1966年高度成長期、観光施設として5層5階の唐津城を建てようということになり、

当時はこんな天守が一般的として天守も築かれます。門や櫓も再建されました。

その後この地から発掘調査などにより、名護屋城の瓦が出土したり、他に復元もあり話題の城となってきました。

名護屋城とは、秀吉が朝鮮出兵のために佐賀県の北端に築城した出兵拠点の城です。

1591年着工、突貫工事で半年後1592年完成、7年間侵攻の拠点になり秀吉の死後・廃城となりました。

江戸時代に、名護屋城の建材は、この地の唐津城に多くが利用されました。

・・・唐津城を後にして、10数キロ北上します。

途中から屋形石方向に右折し、細い道を30分くらいで到着。

広い駐車所です。

地図で、玄海国立公園 七ツ釜 マァそれなりに岬の先端に行くには・・・歩くことになります。

沖の東を見ている女神像があります。

乙姫大明神とありました。

その先の黒瀬鼻岬の遊歩道を進むと、・・・左が入江です、波の音が聞こえ

もうすぐ見晴らしの良い所にでそうです。

この下が侵食された洞窟になっているのでしょうか。

七ツ釜の上方の遊歩道を通過して、海岸線に出てきました。このような風景です。

向こうのせり出した岩場、手前の像の足先のような平らな部分に柵が見えます。

向こうが七ツ釜の展望台でしょう。

こちら側は柵もなく、十分気を付けて乗り出しましょう。

では戻って、向こう側に進む遊歩道を進むと、展望台に降りてきました。

七ツ釜を周遊する観光コース船のようです。

先ほどの岩場は、向こうの断崖の上でしたか?

ここから洞窟が5つ見えますが、観光船は洞窟の中までは入れないようです。

手前側に残り二つ洞窟があるのでしょうか。

穏やかな波、天候もマァマァ、観光には幸い恵まれました・・・遊歩道を戻りましょう。

この西隣に呼子(ヨブコ)町があります。佐賀県唐津市呼子町。

良港があり古くは捕鯨の基地、今日ではイカの活造りで有名です。

途中の名護屋大橋からの複雑な湾内が望める車窓です。

正面に見える尾根のあたりが、朝鮮出兵時の真田陣跡でしょうか。

まもなく、桃山天下市という道の駅に到着。

この裏側にある大きな駐車場へ、昼食タイム

いか という看板がありました。

イカ料理コース、今日のイカはアオリイカとのこと。

呼子町、・・・全国的に有名になったのが「イカの活造り」が誕生した町だそうです。

コウイカ、アオリイカ、ヤリイカ様々なイカが獲れるようです。

鮮度が良いので、身が厚いのに透き通っています。

皮膚の色が変わります。・・・Goproで撮影した動画の方が分りやすいですが、静止画で

旅行の動画編集は、個人情報が多く、公開には修正・編集が多々必要で、別の機会に

アオリイカは、コリコリの食感と甘みが口いっぱいに広がります。

こちらは、イカシュウマイ・・・これを2個頂くと、これだけでおなかが一杯、十分満腹。

活造りの刺身を頂いている感に、下側のイカを天ぷらにしますと引き取られて調理場へ・・・

下足を含むこのような感じに、・・・身が厚いので、熱々を頂くと・・・満腹

他にも色々・・・、呼子のイカ料理は人気があり、リピータが多いと言うことに納得。

食後、散策に

この交差点を左(北側)に、

この一帯は、名護屋城博物館の資料を使用させて頂きます。

右下から、歩道を歩いて、・・・目指すは名護屋城跡地です。

すぐにこのような標識が見えてきます。

右の土手上に駐車場がありました。

右側に城郭の一角が見えます。

420年以上経過していますから、木々も・・・鬱蒼としていない・・・手入れがされています。

大手口前井戸の案内板があり、その横に

井戸の後、案内図では、右下の駐車場の左上方です。

唐津城の築城時、この地は領内の廃城ですし、勝手知ったる城ですから、使えるものは搬出したのでした。

現在は、整地されてこのような状態です。

博物館の資料を拝借して、名護屋城のイメージと説明を

黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員して、突貫工事で約半年で完成

ルイス・フロイスは「あらゆる人手を欠いた荒地」と記しているようですが、全国から大名が集結します。

周囲は118カ所の陣屋、最大30万人の軍勢が集結して、城下町も人口10万人に膨れ上がります。

現在は、118カ所の陣屋の内、65カ所の遺構が残され、23カ所は国の特別史跡となっています。

黒澤明 昭和60年の映画「乱」のロケ地ともなっていたそうです。

・・・太閤記、大河ドラマ・・・藤吉郎の出世物語は人気がありますが、日本全国を統一して、・・・

晩年の朝鮮出兵、隣国に何故侵攻したのか?・・・遅れてきた侍に、働き場を探していた?

イャ 多分、権力者に昇り詰めてから目標を失い、イエズス会の情報通によれば、最大の権力者はスペイン国王。

新大陸から銀を搾取して富が流れ込むスペインは、1580年にポルトガルを併合し、領土は「太陽の沈まぬ国」となっています。

秀吉は人たらしで情報通、・・・イエズス会の真の目的は、布教を足掛かりに、他国を植民地化する企てを・・・耳にしていました。

マニラのスペイン総督は、数百人の兵隊でこの国を制圧できるとは思っていないだろう。

気がかりは、数万人と思えるほど増えあがる信者、キリシタン大名と部下が集団で行動するのが目立ってきた。

秀吉は、一向宗に劣らず熱心な信者は、敵対されると日本国の危機と1587年「伴天連追放令」を発令。

スペインはアカプルコ(メキシコ)とマニラ間に大型帆船で航路を開拓して、アジアに触手を伸ばしてきます。

フィリピンを植民地化したスペインに、秀吉は最大の外敵はスペインと判断し、マニラから挨拶に来いと恫喝し降伏勧告状を送り、

降伏せねば必ず征伐する、後悔するなと脅しています。

二度.三度と使者をやり取りし、こうするぞと反対を押し切り朝鮮に侵攻しました。

富を求めて、武力で侵略する時代に、秀吉も参加しましたが、秀吉が無くなると、スペインとは友好的に貿易を。

マニラは3000人もの日本人町が、しかし家康が亡くなると鎖国に進んでいきます。

フロイスの資料が発見される度に、若きカトリックの信者が異国の布教に人生をかける純粋さ、

その陰で武力で他国の文明を破壊しながら富を求めて植民地の拡大に邁進した教団と国家がありました。

宗教の力、マインドコントロール下の信者は強大な力です。

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どこか・・・遠くへ

2023-01-27 | 旅行記

2023年元旦早々、例年通り近くの神社で30分ほど並び初詣。

さて、再々変異コロナの拡大が話題になる中、リフレシュが必要と日常から離れ、どこか遠くへ

羽田空港で朝食をとり・・・気が付けば、保安検査場間もなく締め切り ・・・行列が長くなっていた。

無事通過して、搭乗ゲートに急ぐ、・・・すぐに搭乗が始まった・・・。

約2時間後、向かい風のアナウンスがあったが多少の遅れで到着。

北陸・東北・北海道は大寒波の注意報が発令されていた。

気象情報にハラハラしていたが、曇天の佐賀空港に降り立ち、ほっと一安心。

河川敷の空港から東へ、30~40分、昼食前に佐賀県の東隣、福岡県柳川市で名物料理

有明湾に近いこの一帯は、湿地が多く掘割の水路が発達したそうです。

水路といっても、水位が下がって最近はやりの座礁の危険があるようで、腰までも無いところが・・・

先客は、イエー!元気な小学生の生徒でした、 とにかく明るく元気だ

こちらには、操船業者さんが7社もあります。うち3社はコースが限定されるようですが

乗船したのは城門観光、・・・小舟に乗船すると竿を操って動き始めました

この橋の下を通過する・・・ここが一番のおすすめポイントと言われ、立ち上がっての撮影を勧められた。

右側が柳川藩主 立花邸の庭園

さて、キャリア15年の船頭さんが注目されたのが・・・紅白に塗った舟で、この場所を優勝パレードの川下り

・・・マスコミに注目されたその時の船頭は、私でしたとの説明。

2016年初場所(1月)地元出身の琴奨菊が悲願の優勝をしました・・・舟での優勝パレードだったそうです。

一部の船頭が得意技としているのが、・・・桁下の低い橋が前方に有り、その手前で橋を飛び越えますとのこと。

棒高跳びスタイル?と質問したが・・・無言で橋桁の窪みに足を掛け、ヨイショと竿を持って橋の上に上った。

エンジンのない小舟は惰性でユックリ橋の下から抜け出すと、船の後部右横に上から竿が降りてきた。

橋の淵にしゃがんだ船頭さんが、ドスンと竿をガイドに船尾の平らな板の上に飛び降りた。

若干振動があったが、乗船客は大丈夫。橋の上に登って反対側からまた舟に飛び降りる

橋の上に竿を刺して飛び越えるのは、期待しすぎで・・・マァ、良しとしましょう、船が揺れて投げ出されたら?

・・・問題ないさー・・・水深は0.5~1m 腰まであるかどうか・・・

こんな事もあったそうで、・・・消防団の団体が酒に酔って乗船、一人が途中で船頭に飛び掛かり一緒に水に落ちたそうです。

船頭は舟によじ登り、酔っ払いは水中で10分くらい過ごして頂いたそうです・・・酔いは醒めたでしょうね。

コースの分岐点が、掘割の修理工事中でした。

堀の周囲に街並みが並ぶコースは、工事中、2~3年で完成する予定のようです。

このような事情で一部のコースは、周遊不可。

ところで、貴重な観光コースですから、雨が降ろうが、水面に氷が張ろうが営業されるそうです。

雨には、お客にビニールカッパ、氷が張れば、砕氷船のように竿で舳先を押し出して氷を割り、進むのだそうです。

熊本地震で崩れたので、このように水を抜いて・・・復旧工事中でした。

川向こうの建物が若松屋 昼食を頂く処です。

柳川は毎年100万匹のうなぎが食べられるので有名、中でもこのような

「うなぎのせいろ蒸し」・・・焼きあがったうなぎを甘辛いタレを絡めたご飯の上にのせ

木型のせいろごと蒸しあげます。

お店は市内に20店以上、うなぎめしマップがあり、味があっさりか濃厚かバーグラフ付きで紹介しています。

若松屋は、ややアッサリとなっていました。

内側が木型で、左下を食べ進むと、ご飯の下に黒色のスダレ?底が見えます。

ご飯が熱々で、胃に結構負担があります、・・・これは残しそう、食べられないと他から半分以上、

ご飯が追加されて、無理して食べたら・・・胃薬を服用することになった。

食後の散歩に、柳川観光案内所へ

有明産の海苔は不作で今年は高いとのこと。

「さげもん」も有名なようで、専門店も近くにありましたが、内部は撮影禁止でした。

女の子の健やかな成長を願って飾られる手づくり品ですが、熱海など全国各地での伝承です。

またこの横には、北原白秋生誕の地がありました。

北原白秋の生家です。

では、北西に70km、唐津湾が眺望できる鏡山展望台へ移動します。

佐賀県の玄海国立公園、・・・目の前が海岸ですから標高284m弱でも、東京タワー第二展望台の眺望クラスです。

琵琶湖畔で安土城が建てられた安土山は標高190m、山麓からは120mも無い、しかし毎日登城するには大変ですが。

こちらは、山頂まで道路が続いています。

唐津湾です。

そして山頂近くに、鏡山神社があります。その横、道路を挟んだ右側が駐車場。

鏡山と神社の伝説の説明です。

松浦佐用姫伝説もあります。

駐車場から展望台までは、500mくらいでしょうか、

下の案内図は、方位・北が下側です。唐津湾は北ですので、案内図では下に進みます。

展望台の手前に、この銅像・松浦佐用姫が迎えてくれます。

その先が立派な展望台です。手前が北、唐津湾です。

上部のテラスからの眺望は

先ほど見上げたデッキ部分が張り出していて、その先が唐津湾のパノラマ画像です。

正面の波打ち際に防風林の黒松林が幅広く続いています。別名 虹の松原。

黒松林の中を道路が走っています、歩道は狭く、ジョキングはできそうにない。(車窓より)

左側(西)は、松浦川が流れていて、河口に舞鶴橋が架かり、その先、右側に小山、ここに唐津城があります。

夕日に照らされる唐津城をズームイン

有料で公開しています。

虹の松原の向こうの海岸線に遊歩道あるいはサイクリング道路などを探したが・・・無さそうでした。

松原の東には、トンボ山(十坊山)標高535mが見えます。

若干雲がたなびいて、奇麗な夕日は期待できないようです。

川の上流、日が沈む尾根の向こうは、地図によると伊万里、・・・右の半島の先には七ツ釜?

明日のお楽しみ。

ホテルに到着後、軽装に着替え

松浦川に架かる松浦橋を渡って、行き先を考えようとホテルを出たが

風が強い、胃の消化を助けるために20分は・・・橋を渡ると左にホテルがあるが他は民家、商店は・・・無い

右は唐津市方面、1km以上先のようで、少し走ってUターン・・・日が落ちてきた

帰って風呂に行くのが最善の選択と思い直し

唐津城は青い光のライトアップが始まったようだ。

橋の右側に見えるホテルに戻ろう。・・・・・

夕食、佐賀牛は適量で、料理は全て頂き早めの就寝。

朝、上層階の朝食会場からの唐津城は、若干朝日が当たって

江戸時代の初期に築城された唐津城、城下町の雰囲気は無いようです。

東の虹の松原を見てみると

松原横の砂浜に波打った道が見えた、工事用の道路でしょうか

朝食後、唐津城にこれから登城しますと・・・

奇麗なお城です。朝日に照らされピンク色のお城でした。

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久し振りで近況を

2022-11-30 | 日記

月曜日の昼休み、4.2kmジョキング、昨日はスロースクワットを120回、今日も4.2km走ってから食事。

この時期は、軽く走るには最適の季節です。

・・・夏は2~3kmでペースダウン、残りは早歩きが続いたが、1kmを7分弱で疲れなくなったようです。

1週間前の週末、暖かくてベランダのハイビスカスも、小菊も咲き誇っています。

ハイビスカスは、室内に取り込めば咲き続けますが、2鉢もありベランダでビニールハウスの予定。

蕾がふくらんできたのが、デンマークカクタス、これも差し穂で増え、数鉢を取り込まなければ

胡蝶蘭が8鉢あるので、室内の温室へ・・・この鉢は年内に開花するでしょう。

これらの植物、10~11月の気温が下がる時期に、君子欄は5~10℃に60日間置く

などと、開花させるには季節の変化をしっかり体感させる必要があるようです。

デンマークカクタスの下の段のプランターは、今年の新作、ニンニクを植えています。

プランター4鉢になってしましました。サニーレタスやサラダ春菊などもあります。

君子欄は室内かな、アマリリスは休眠させ、イチジクも寒さ除けが必要と週末は園芸の日々です。

・・・この2年、コロナ禍で行動が自粛傾向になり暗い世の中に、さらにプーチンの悪魔の野望で侵略戦争が勃発。

侵略はしないと宣言しながら、偽旗を立てるプーチンは監視と陰謀が得意なKGB仕込み、

しかし、そのロシア軍隊の内情が米英の情報機関により公開され、一部を知るだけでも驚愕の世界のようです。

プーチン政権の末路を、他国の独裁者が・・・明日は我が身に降りかかるかもと怯えだしたかも知れません。

ロシア国民は日本国民と同じようです、政治に関心を持たない。

そこで、日本の代議士は楽なものです、白紙の領収書、収入は簿外で処理、選挙と金を考えるだけで頭が一杯。

組織に金が舞い降りれば、リーダーが従え・・・皆に利益を分けてやる、残念ながら談合・農耕民族・村社会のままのようです。

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金沢散歩

2022-07-19 | 旅行記

富山の有名人と言えば、藤子・不二雄さん・・・

イヤ、もっと有名な、こんな人たちに色んな所で出会えます。

では新潟寄りの富山から、京都よりの石川県・金沢市に移動します。

車で観光すると、通り過ぎてしまいますが、こちらも有名な所です。

この鳥居の先、階段上に見えるのは、日本様式ではなくて?・・・ここは台湾に来ているのか?

地元民から、お叱りを受けそうです、・・・ただ見慣れない建築様式で  中華?イヤ、南蛮?

このような様式は、かつての織田信長の安土城内にありそうです。

調べてみましょう・・・個性的な和漢洋の建物として明治8年(1875年)に日本人の設計で建てられたそうです。

尾山神社の神門として、目立つ存在ではあります。

この人が・・・加賀百万石の恩人、加賀藩 初代藩主:前田利家の騎馬像です。

豊臣秀吉が亡くなり、1599年62歳で前田利家も病死しています。

前田氏が亡くなると・・・豊臣グループ VS 徳川家康、やがて関が原での東西決戦と勢力争いの真っ只中

故前田利家公を秀吉のように神として祀りたいが、・・・既に秀吉の天下では無く

・・・二代目となった利長公は、神殿建立を強行して・・・家康に潰されたくはない・・・断念します。

代わりに卯辰八幡宮を建立し、物部八幡宮と榊葉神明宮を遷座し、ここに利長公の神霊を合祀された。

その後明治6年にこの地に尾山神社として社殿を新築したとあります。(尾山神社H.Pより)

平成10年に、正室の「お松の方」も尾山神社に合祀されました。

その後「お松の方座像」も設置され、この地で親しまれているようです。

お松の方の実母が、利家公の母の姉とのことで、利家とお松は従兄の関係でした。

・・・さて、この時期といえば・・・百万石まつりです。コロナで中止が続いていましたが

今年は(6/3-6/5)3年ぶりに実施されたようです。

過去の画像を探すと・・・2014年のまつりに、この地を訪問しておりました。

近年は、6月第1週の週末(金・土・日)実施です、梅雨の季節に何故?

前田利家公が、1583年6月14日に金沢城に入場されたのを記念して、6月とのこと。

加賀百万石まつりで、主役はもちろん前田利家公ですが

今年は西田さん、画像は、かつての原田龍二さん

ところで騎馬隊の中で目立つのは、赤いランドセルの騎馬武者です。

食料を背負っているわけではなく、エリートの証明として目立つ防具を背負って疾走したのです。

半球の骨組み(鯨のヒゲなど)に布を張って、背後から放たれた矢などから身を守る防具といわれます。

母衣(ホロ)と呼ばれ、織田信長の赤母衣9人衆の筆頭が前田利家、派手な赤は目立つ存在です。

もう一隊、黒母衣10人衆として、佐々成政らが編成され、どちらも織田信長のエリート親衛隊でした。

槍の名手として有名で、「槍の又佐」と恐れられたそうです。

では戻って、尾山神社から回り込んで進んでいくと、金沢城の金谷出丸と呼ばれる出入り口が

・・・金沢城の遺跡を調査していて、焼失したのを一昨年復元された場所に到着します。

真新しい鼠多門(ネズミタモン)橋の先に、黒い瓦の櫓が見えてきました。

通り抜けて城側から振り返ると

個性的な櫓です。

 

この一角を、金色のカエルが番犬よろしく守っています。

尾山神社境内にいろんな作家の彫刻が作品として展示されていましたが、

このカエルもかつて作品として展示された物で、買い取って神社に奉納された作品のようです。

さて、復元された鼠多門の先に広がっているのが、こちらも復元された庭園です。

1634年から庭園造りが始まり、明治期まで存続していたそうですが、廃絶となり

近年発掘調査と資料を基に整備され、2015年に復元されました。

奥に見えるのが石垣、池底から石垣の上までの高低差が、22m

金沢城公園のHPから、地図を借用しましょう。

下のオレンジのラインで進み、庭園を周回し、段落ちの滝やこちらの滝も立派です。

滝口は黒色の坪野石を混在させた珍しい石垣です。

さらに、こちらも見事な石垣です。いもり坂

鑑賞ポイントには案内板が立てられています。

色紙(方形)短冊積(縦長方形)石垣など、組み合わせも見事です。

滝の上部から・・・金沢城公園内に進みます

うっそうとした森の中に小道もあり、高台からの眺望、そして休憩

清潔な鶴の丸休憩館があります。

この館のガラス越しに見えるのは、橋爪門続櫓のようです。

他は割愛

周辺の石垣に張り付いて雑草を取り除く作業の方が、・・・こちらはトレーニングを兼ねて人気があるでしょう。

お昼は、近江町市場へ

ここの寿司屋は依然並んだ処だ などと軽く散策、コロナ後遺症で観光客は少なかった。

人気になりすぎて高価な食材 のど黒 をやはり食べたいので

横浜中華街かと思えるくらいに、看板が立ち並んでいます、市場の外れに進み、とある店で。

サーモンや

イカ墨の・・・

レモンでは

食後に、近くのひがし茶屋街で素敵なカップルに出会えたので、彼らの個人情報に注意しながら

御両人に同行しているカメラマンの前で、サプライズだったようで赤い糸を新郎が新婦に・・・

通りすがりに、その瞬間に遭遇した nnn 赤い糸が目に入った

そして二人の間で揺れる想い!・・・いや、何かが傾いている、

・・・斜め!斜め!と余計なことを・・・叫んでいたようだ。

気づいて彼女が手を少し上げてくれたと思う・・・

良かった! ・・・しかし、良くこんなアイディアが、そして実行に

創意工夫と自己主張、明るく行動力のある新婚さんに、幸せな楽しい未来が続きますことをお祈り申し上げます。

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北前船 森家

2022-07-01 | 旅行記

森家に掲げられていた北前船、比較するものがないので大きいのか小さいのか?

千石船(コメを1千石積める)クラスの北前船には、11~13人くらいの乗組員で航海。

航路は、大阪から瀬戸内海経由で下関を回り、日本海側を北海道へ、半年で1往復くらいだったようです。

途中の寄港地で売り買いを繰り返し、1往復でザット千両の利益(今日の価値で、6,000千万から1億円)

大半の船は500石くらいだったようですが、中には2000石以上の船も建造されたそうです。

・・・富山港の岩瀬エリア(富山県東岩瀬町)は、観光スポットになっています。

1878年(明治11年)頃に建てられた北前船廻船問屋 森家の前です。

入場料は110円、

江戸時代後期から明治30年頃にかけて、北陸や東北でコメや酒を仕入れて北海道で売り

北海道から昆布やニシンなどを積み各地で販売し、商売繁盛、・・・やがて鉄道がライバルになります。

ニシンは、小樽でニシン御殿が誕生するのは・・・この後、大正時代に大ブームとなりました。

この森家は岩瀬五大家に入っていたでしょう。

筆頭は、隣の「馬場家」、この馬場家も現在は維持が難しくなり、2016年、国の登録有形文化財となり

2018年から約2億円をかけ、修復・耐震工事を施し、2021年1月から一般公開されました。

馬場家は明治20年頃、この岩瀬を代表し北陸五大船主でしたが、ライバル登場に危機感を覚えます。

日本郵船(三菱・三井系の合併)が、日本海航路にも登場してきます。

千石船の特徴は、大きな1枚の帆(21~25反)、船体は長さが:約28m、幅:約8m、高さ:約2.5mくらい。

反といっても?  ・・・広辞苑:1反は普通、布では並幅で鯨尺2丈6尺、または2丈8尺とされる。

並幅とは:約36㎝とのこと。・・・反物の幅は解りました。

反物の巻いてある長さは、・・・業界で使用する鯨尺の1尺は、曲尺(カネジャク)の1尺2寸5分(約37.9㎝)にあたるそうです。

では1反の長さは(2丈7尺では)10m23cm、約10m

この反物が23反とすれば、横に並べて8m28㎝、・・・1枚の帆は、面積的には10m×8mくらいでしょうか

明治20年頃が商売の絶頂期だったようです。

贅を尽くした豪邸の雰囲気はこんなところにも、石灯籠が置かれ、

縁側(廊下)は、うぐいす張り、角にあたる部分を見ると、柱が無い

・・・ガラスの引き戸が吊下がり式で、直角に交わっています。

こちらは、資産較べ、行司が 馬場道久氏 明治20年頃の千石船ドリームです。

商売繁盛を競う、自由な雰囲気が漂ってきます。

こちらは資産家の象徴、耐火造りの土蔵、厚い大扉が時代を物語っています

この土蔵の入口の扉には、素晴らしい龍虎のコテ絵が描かれていますが・・・

撮影した動画のデータが見つからない。

ここで、特徴的な間取りを見てみましょう

上部が表通り、入って灰色の通路が奥まで続いています。

裏通りの道路まで達していますが、当時は重要な物資を扱う千石船の船着き場だったようです。

・・・銘木・屋久杉を使用した板戸や、小豆島の大きな一枚岩など豪華な建材が使用されています。

2階には番頭さんや女中さんの部屋がありましたが、階段は別々に施工されていました。

では、立派な吹き抜けの有る森家を退室して・・・裏通りを進むと、隣の馬場家の広い庭園に

飛び込んだのは、この鳥でした。

この深いブルーの毛並み・・・大好きなカワセミです。

・・・探しているのですが動画のマイクロSDが、まだ見つからない。

話はビジネスに飛びますが・・・昨年後半頃から、電気・電子部品が品薄で、車以外の電気製品も納期遅延中。

電気部品各社の海外工場はコロナでの生産停止や稼働率が低下し、さらに人手不足で物流の混乱が納期を遅らせ、

製造業の会社は、仕入れ部品の入荷が当てにならないので、値段よりも部品の確保が優先。

何とか部品を集めて、製品を完成させないと売り上げに結びつかない。

割高でもDiji-Keyなど海外サプライヤーの情報をチェック、半年先の入荷見通しを見つけると、即発注。

入荷予定日が近くなると、お詫びの連絡と共に、納入予定日が先送りされ・・・

数打ちゃ当たる式で、複数ルートに発注する適当な発注が飛び交い、・・・混乱はまだまだ続きそう。

銅が上がり、物流費が上がり、円は価値が下がり、昨今は短期間に、二度・三度と値上げが続きカオス状態。

・・・そこで秋まで待てない、PCは必ず値上がりするだろう・・・値上がり前に、先月中旬衝動買いをした。

動画編集専用にハイスペックを・・・12世代Core i7、NVIDIA:GeForce、SSD:1TB、HDD:2TB、メモリ:32GB

日銀の無責任さに呆れ、円安に対策できず・・・月末にiphoneも 13に切り替えた。

案の定というかビックリでしたが、購入後すぐにiphoneは、7月に突然値上げを発表しました。

・・・新しいPCと従来のPCと2台,、アプリが異なるので並行して使用していたら、データは重複するし、

さらにスマホも突然変えたので、PCと共に設定に明け暮れて、ストレス増加・・・便利になるのはいつ頃か。

・・・話は戻り、異様な建物が

そう、富山港展望台とあります。

エレベータはありません、内部の階段をひたすら上ると

富山港の横ですので、海が見えます。

地上に設置された  こちらの案内板には、この展望台が描かれています。

下の写真は、確か森家に飾ってあった3枚の内の一部と思いましたが、

・・・北アルプス、立山連峰の中央が剣岳

・・・標高は、3000-1=2999(m)、少し隆起すれば大台ですが

今晩の宿は、宇奈月温泉近くの金太郎温泉、

翌朝、ホテルから・・・霧雨の山並みがこちら

先月上旬の風景です。

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東京・6月に梅雨明け

2022-06-27 | 旅行記

梅雨が明けた

何となく、季節の移り変わりのズレが多くなってきたような・・・。

ブルーベリーの網の外で・・・、この木は山椒・葉を毎日3~4枚サラダなどに摘んではや1か月くらい

最近また新芽が出てきたので、新芽を少し頂く。

こちらも山椒の木です、二鉢を栽培しています。

多少 小ぶりなこちらの木が先に新録になり、葉を頂いていたのだが、2週間くらい前に・・・葉が大半無くなってしまった。

またやられたか・・・ほぼ毎朝、注意していたのだったが、白と茶や黒とのまだら色の幼虫が5,6匹、

青虫が5,6匹 ・・・いつの間に、こんなに大勢で湧き出てきたのか、

一気に葉を食べ始めて、青虫は丸々太って・・・まだらの幼虫も明日には青虫になるのかな?。

割りばしで摘み、トレーに入れて他の屋外に移動して頂き、・・・残りは、いなくなっていたのだが

この時点で、葉はまだ2割ほど残っていた。

この木を別の場所に移し、もう1本の山椒の木をよくよく観察したが、青虫の被害は無かった。

ところが昨日・・・1匹 枯れ木の山椒の木に、目立つ青虫が残りの葉を食べつくしていた。

1匹だけ・・・遅れてやって来た青虫、カメラを持ち出して・・・

頭は愛嬌があるのだが、怒ると触覚付近から異臭を吹き出すようで、・・・好きにはなれない。

アゲハ蝶が、時々舞っているので、毎年この青虫には注意していたのですが、今年もやられました。

1本無傷で残っているので、今年は良しとしよう。

隣のブルーベリは、春先に人工授粉をしているので、種類によっては既に二回ほど収穫しています。

大半はこれから収穫の季節です。

網を外して、サンシェードを張る季節になってきました。

一気に常夏、ヒマワリよりもハイビスカスが好きで、こちらも二鉢あります。

・・・さて少し前、ANAでローカル空港の活性化キャンペーンだったか? 

家族のプランで、北陸地方の旅行スナップです。

羽田から飛び立ち、東京湾から千葉の方向に進み旋回、埼玉県南部に進み

川口市付近を通り、荒川に沿って北上する、眼下は秩父? 山脈、尾根が続き・・・川沿いには道路・民家・・・

やがて北アルプス、黒部ダムも見えたと思う・・・残雪が眩しい。

海岸線を過ぎて、富山湾の海上に一旦でて、大きく旋回して

戻ってくると海岸線に新湊大橋が見えます。

確か2012年ころの完成、自動車専用道路

2014年の金沢百万石まつりやその後も車で富山・金沢には来ているのですが、この自動車橋は渡ったことがなかった。

機体は、富山の街を飛び越し・・・北から河川敷の富山空港を目指します。

滑走路先端で機体はUターン、残雪が多い山々が壁のように並んでいる。

富山空港・「富山きときと空港」です。

さすが富山、ターミナルビルの後景は、・・・山・山・山に富んでいます。

飛騨山脈、立山、剣岳などが見えるはずですが、詳しくないので見分けはつかない。

預けた荷物を受け取り、バスにて先ほど見えた海岸線の新湊に向かいます。

大きな蟹・・・ズワイ蟹

事前に調べて、あまり食指が動かないので立ち寄らず、裏側に

この先、最近まで蟹料理が有名な店が

ここですが

もう少し先に

女性部食堂があり、反対側のこちらに

ここで昼食にしよう 富山県射水市八幡町 きときと食堂

新湊漁港の方が、朝5:30から利用されている人気のお店

刺身に焼き魚に、冷凍ケースから好きなおかずを2鉢選んで、これで刺身定食¥1200-

・・・食後に軽く競歩10分くらいで到着

こちらが海王丸パーク、

そして、停泊しているのは帆船・海王丸、これらの帆船は商船学校の練習船として誕生。

現域引退後この富山で展示されはや30年となるようです。

救命艇が見えます。

nnn、船底色がオレンジですが、確か白色が海王丸でオレンジは日本丸と思ったが。

横浜の日本丸の写真を探すと・・・

数年前、横浜の日本丸です。こちらの救命艇もオレンジ、

これらは現域引退した初代の帆船ですから、二代目の現役の帆船のことでしょうか

海王パークにて、帆船の正面から

通常は沖合で帆を広げるのですが、・・・海王丸パークの画像を借用しましましょう。

20年近く前、この富山の沖合で台風をやり過ごそうとして、座礁沈没、人命に被害はなかったようですが

海王丸(初代)は、昭和5年建造でしたが、沈没により復元されたようです。

年に何回か帆を張る実演があるようで、その時の画像でしょうか

海王丸パークの横を、新湊大橋は通っています。

橋からの眺望です。

そうでした、帆船が大型化してガレオン船が登場したころから、フィギュアヘッドとして

(船首像)女神像などが人気がありました。

探してみましたが、初代には取り付けてなかったようです。

現役の二代目には、日本丸には祈る女性像(藍青ランジョウ)が、

海王丸には妹扱いの(紺青コンジョウ)横笛を吹く女性像が付けられています。

では、以前も散策した北前船で繁盛した街並みへ

 

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この青空の下、・・・高価な殺人兵器が

2022-04-30 | 日記・エッセイ・コラム

「軍に関するフェイクニュースを伝えた者には最大で禁錮15年の刑事罰を科す」3月4日

ご存じの国で急きょ改正した案に、スパイ出身の大統領が署名。

・・・取り合えず目障りな連中を逮捕する口実に使える。

(誰がフェイクか否かの判断を下すのか、そこが問題だが、・・・黙らせるのが目的)

戦闘機も戦車も、稼働できるのは何割とか、TVも連日新しい情報を探して大変ですね、

性能が発揮できず、費用対効果が悪いらしく、戦力は人・物、大幅ダウンのようです。

高価なミサイルは闇雲に使えず、5W1H記録していることでしょう。

そして年末になる頃、侵略した司令長官や大将、報告を受けて国民に戦果を発表したリーダー

・・・フェイクニュースを流した罪で、新政権から逮捕される可能性は・・・?

とにかく、コロナで行動制限がかかるこのウットウシイ時に、国連は・・・期待できなかった。

時間は過ぎて行く、・・・生物は手を掛けないと、弱肉強食

ブルーベリーの早咲き品種が花を咲かせ始め、

こちらは、株が10年以上で剪定で新枝に更新しているのだが

花が小振りで、大きな実は期待できそうにない。

毎週週末に、咲いた花に人工授粉をするので忙しかった。

まもなく、夜明けと共に鳥がチュチュ、チュチュと集まっている様子

黒い鳥はヒヨドリと思われる、花をついばむので、何とか対策を

昨年はネットを張ったが、裏側の隙間から2羽中に入いられて、賢いのに驚いた。

今年もあっという間に、そんな季節。

ブルーベリーは一説によると、隣の樹と枝先が1mくらい離れていないと

生育が良くないようですが、7鉢を密集させることになりました。

そして、裏側にもネットを隙間なく張って、

密集しているので、網目から飛び出すのもあるのだが、妥協しよう。

今年の春は低温が繰り返し訪れ、ハイビスカス類は葉の生育が止まっていたが、

青空に似合う一輪です。

胡蝶蘭は、温度コントロールが20度と少し低温だったでしょうか

それなりに生育はしていますが、開花は5月になってからでしょうか

アマリリスは頂いた1鉢が数年経ち、今は5鉢となり植え替えて2週間

ビーツは年越した株も多く、何故か土の臭いか?

畑の土を舐めて状態を確認する人の話を聞きましたが、プランター栽培ではPHくらい

、連作障害もあるでしょう、適時、新しい土を使ってはいるのですが、難しい。

泥を吐かせようと? ペットボトルで様子を見ている最中です。

話しは変わって、楽しみなF-1の世界

世の中、圧倒的な資金力で常勝軍団と言われたメルセデスも、今年は苦戦続きで、

絶対王者メルセデスのハミルトンは、先週末、レッドブルのマックスに屈辱の1周遅れにされました。

今年から車体の規制が変更になり、金で済むと思われたメルセデスが、車体の振動が制御できず悪戦苦闘中。

車体重量46kg増加、13⇒18インチのタイヤへ、バイオ燃料成分増加、そして車体を押さえる空力利用が・・・

前後に付けたウイング(羽根)重視から、車体床下への空気の通過「グランド効果」の利用に変更となったのです。

トトさん、傲慢な態度を見せなければ、敵も少ないのに、・・・イヤ、他国に侵略してませんから、楽しい仲間です。

・・・実るほど、頭を垂れる、稲穂かな!

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少し遠出を・・・緋紅色を求めて

2022-03-12 | 旅行記

平日の朝だというのに、東名高速の下りが渋滞しているようだ。

首都高を走行中・・・用賀で降りて第三京浜をと思ったが、戸塚原宿付近はいつもの渋滞だろう。

急ぐ旅でもないので、東名に進み・・・渋滞の流れに任せ、・・・厚木で分かれ、小田原方面へ

こちらの有料道路はいつも空いている、小田原に到着・・・

この先、東海岸は所々で渋滞しそう、・・・山を越えよう

湯元方面に進み・・・途中で自動車専用道の箱根新道へ

走行車両も少なく・・・道なりで峠を越えて静岡県

下りは急カーブも多く、エンジンブレーキを多用して山麓に到着

伊豆半島の付け根、ここからは南へ、伊豆半島を南へ走ろう

ここは鰻で有名な三島、温暖な気候で山海の恵みに溢れて・・・のんびり過ごせる地域と思う。

伊豆縦貫道に入り、・・・一車線なので多少混んでいるが法定速度くらいでは走れる

一般道の先に、・・・伊豆中央道の入口が見えた

温泉街の修善寺を通過し、順調に流れて・・・間もなく終点

伊豆市、道の駅「伊豆月ヶ瀬」に寄って行こう

この道の駅はお薦めです。レストランもあるし、店内で軽食を購入し、裏のテラス席で軽食を

眼下に渓流が(沢には降りられません)右手は走ってきた高架橋、リラックスできます。

さて、ここから天城トンネルまでは、約15kmくらい

峠の手前で・・・道の駅「天城わさびの里」に立ち寄り

近くに、井上靖氏の旧邸、川端康成氏:伊豆の踊子など・・・天城越えのかつての難所があります。

・・・トンネルを抜けると・・・伊豆半島・山脈の東側・・・朝日が当たる斜面にたどり着いた・・・そんな感じ

早速、所々で歓迎してくれています。

この濃いピンク色、・・・河津桜が満開のようです。

まだ昼前、七滝(ナナダル)の上流の滝は、この付近になるのだが、

近くの駐車場に停めて散策もできますが、・・・案内板を見かけましたが

・・・渓谷に降りていくと、駐車場に戻って来るのが大変なので、通過します

河津の地図をGoogleより拝借して、・・・現在地が河津七滝

峠の坂道、高低差を一気に解消したループ橋がもうすぐでしょう、

ループ橋ができる前、夏の海水浴シーズン・・・マークⅡでここの山道を走った記憶があるが

ぐるぐる回って、下りはスピードがでるのでエンジンブレーキ

・・・ループ橋を過ぎてから国道を左に折れて、ここから七滝へ

少し走ると、見事な河津桜が・・・道路横の空き地に停車、・・・撮影会

では街中へ

右側の土手の上へ坂道を登り、無料の広い駐車場に到着

ここに駐車して、七滝(ナナダル)の一番下流になる大滝を見に行きましょう

案内板に、伊豆半島の地図がありました

今来た道を60m位戻り、案内板に従って右に折れ、小道を渓谷に下ります

整備された坂道は、・・・5分くらいでロープ規制がされていた。

河原を目の前にして降りられず、入湯券が必要になりますと貼り紙、無人の小屋があるだけ。

河原の小屋は露天風呂でしょう、洞窟温泉もあるようでした。

さらに、河原にコンクリートでプールが出来ていて、温泉を引き込み夏に開業するのでしょう。

・・・七滝地区、通過は時々するのですが、滝に降りるのは何十年ぶりでしょうか

途中から見えるループ橋です。

高低差45m、一気に上下します。

では元の国道に戻り、河口の河津町まで進みましょう。

今年は寒い日が続き、2月の桜まつり期間中、満開にはならず3月上旬にこのような

菜の花と河津桜が満開です。

・・・もうすぐ昼、桜祭り会場周辺は賑やかだった。

河川に近い道路で、・・・食事を兼ねて駐車場を探そうとすると

夏の海水浴場かと思えるほど人が飛び出して来て、招き入れようとします。駐車料金:1000円

取り合えず流して街中を散策、食事処は駐車スペースが狭い所が多く、満車。

では、街中のスーパーに停めて、花見弁当を購入し、30分もあれば帰ってこられるでしょう。

河津川に向かいましょう。

左が下流(海岸はすぐです)、川向うは右岸・・・橋の中ほどに進み。

橋の中央より、左岸が遊歩道が続いています。

少し曇り空になってきました。

この桜並木は樹高がそれほど高くなく、枝が低く出ています・・・遊歩道の中に入って確認しましょう。

素晴らしい緋色、いえ緋紅色というそうです。

吉野桜ですと樹が大木になり、この様に両側に植えることはできないでしょう。

桜の花のアップを

寒緋桜、沖縄の八重山の桜がこのような濃いピンク色でした。

樹高が低いので、カメラアングルを2m位にすると、桜の花びらに包まれている感覚です。

・・・ふわっとした柔らかい感じの花びらです。

この桜並木は良いですね。

温かい緋紅色の花でボリュームもあり、肌寒くても暑いエネルギーを授かります。

では、河津桜の原木と呼ばれる樹を見に行きましょう。

少し遠いので車で・・・出かけたが、道路横の民家の庭先で駐車ができない。

では近くのこちらの神社に参拝しましょう。

由緒ある河津来宮神社、桜の季節限定で御朱印帳が人気でした。

御朱印帳を拝借して、2月限定でしたが、桜の開花が遅れたので・・・桜の見開きでこんな感じ

他に2月は、切り絵もあるようです。3月限定、芽吹き、7月限定七夕などもあります。

ところで、川津来宮(カワツキノミヤ)神社、・・・川津とありました。

この様な案内板もありました

神社の左側に、楠の大木があります。

平安時代はどんな様子だったのか、この神社は、森に囲まれていたのでしょうか

原生林も多く、その中でもこの楠は目立つ存在で、神木だったという事でしょう。

さて、この神社の右側を進み小道をクランク状に斜め右に・・・国道に出て左に進むと

こちらが、河津桜の原木とのこと

立札に

更に並んで、案内板が

では近づいて、根元を見てみましょう

若木は、大島桜のように花と葉が同時に開いています。

寒緋桜の緋紅色が強く出るのは、成長してからなのでしょうか、

民家の一角なのでロープ規制があり、樹木の全周は回れません。

撮影後、先程の神社の駐車場に戻ります。

この河津桜は、苗木販売も会場で行っていました、結構売れている様子でした。

土手添いの河津桜と菜の花、人気の場所と思いますが、この日は?撮影者は少なかった。

土手の反対側は、菜の花はありません、駐車禁止の柵やパイロンが並んでいます。

伊豆急と桜、ここも撮影者は少なく、・・・遊歩道での桜並木・自撮りで忙しい様子です。

さて、風も冷たく感じられるので、温泉宿へ早めに移動します。

この季節、伊豆と言えば金目鯛、煮付けや刺身、二人で1尾を宣伝する所も多いようです。

煮付けは身が厚く、一切れで十分と思いますが・・・十人十色ですか

一応名物料理、伊勢海老、あわび、そして金目の煮つけ、伊豆半島に永住したいですね。

大地震に時々襲われて、線路と道路が寸断されて、知人達が救援に駆け付けた自衛艦に救出されたことも。

多分、この大地震以降にループ橋が建設されたと思います。

最近は静かで、忘れてしまいそうです。

朝日が伊豆大島の上に出てきました。

向こうに見える伊豆大島でも大噴火で溶岩流が流れ、島民は長期東京などに避難されたこともありました。

さらに右側を見ると・・・伊豆諸島の島々です。

ここは熱川、窓辺にこんな眺望案内がありました。

住めば都、温暖でいい所なのですが。

朝マヅメから砂浜で投げ釣りを1時間以上

釣果は、少ないような感じですが、・・・竿を出すことに意義があるのです?

さて、これから農協で地元のお宝を探しに、はるみ、はるかは柑橘類で人気だそうです。

ロビーに降りると、日本の伝統文化が季節を教えてくれます。

両脇を吊るし雛、中央に七段飾り、雛祭りです。

歴史を感じさせる色柄です。

・・・これから、伊豆半島はドライブの人気地域ですが、帰り車で小田原は相変わらず、ボトルネックです。

今回は、網代を昼前に出かけたのですが、真鶴から先、早川口が工事中でもあり、

小田原は3時休憩の前にやっと到着。

熱海から十国峠ルートが無難なことを再認識させられました。

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憂鬱なニュースが多すぎて

2022-02-18 | 日記

冬季オリンピックが開催中だが、国家として参加が認められなかったロシアの話題で憂鬱になる。

更に、ウクライナに攻め込む陰謀のシナリオが流れ・・・危機一髪との西側情報、

ロシアは軍事訓練と称し10万人、今では19万人とも、ウクライナ国境に展開・・・しかし

マァ意思決定する双方の当事者は、最前線の屋外では無く、後方の温暖な室内で緊張感をゲーム感覚で楽しんでいるのか。

・・・策略は二の次、・・・大将が先頭を走り、この大将に続けと部下が奮い立つ・・・そんな歴史上の人物が

このモザイク画の英雄、アレクサンドロス大王です。

手前斜めからの撮影画像を、もう少し起こした状態に加工してみました。

実物は、縦3.1m×横5.8mと非常に大きく、

この画像の荒れようでは判別できないでしょうが、ざっと400万個と言われる石片、精緻なモザイク画です。

アレクサンドロス大王は、このモザイク画が出土したことにより肖像が後世に伝えられています。

この戦いは、ギリシア同盟軍を加えたマケドニア軍が総勢4万から5万人、一方ペルシア軍は20万とも25万とも

戦場はペルシャ軍が鉄の車輪の戦車が走れるよう地ならしをしておいた平原で、両軍が向かい合った。

両サイドから攻め込まれ、戦いが始まった、中央を・・・直進する戦車はスルーしてやり過ごし・・・。

アレクサンドロス大王は前線の中央、突然、騎馬隊の先頭で敵陣の隙間を中央突破、左に回り込み・・・

織田信長の桶狭間の戦い同様・・・ペルシャ軍の大将、ダレイオス! と突進した・・・場面と言われます。

予期せぬ突然の攻撃を受け、大軍のペルシャ王、ダレイオスは恐怖を覚え・・・戦場から逃走した。

・・・桶狭間で今川は首を取られ大敗したが、大軍を率いていながら、指揮を放棄し王の逃亡はみっともない

・・・敵の3倍の軍勢で大将が逃亡したケース?・・・近代でも徳川慶喜がおりましたか。

王が逃亡すれば・・・ペルシャ軍の兵隊は四方八方へ・・・敗走兵は追いかけられ惨敗・・・悲惨ですね。

・・・西暦79年頃、ローマは100万人の大都市、ポンペイの人口は、1~2万人と言われる。

当時ローマ帝国は侵略先の捕虜を何万人も奴隷として連れて来て、奴隷市場で売買されています。

貴族も平民も奴隷市場で購入できるので、召使いとして奴隷が働かされていた。

石畳が上の写真のように馬車の車輪で窪んでいます。

すれ違いは、交通整理の人がいたのでしょうか。現在の知識では、砂利を撒けばと思ってしまうが。

馬車が立ち往生したら、・・・すぐ数人が駆け寄って来そうな、活気のある街の感じがします。

このポンペイでも人口の2~3割は奴隷と言われます。

・・・ヴェスヴィオ山が大噴火する・・・17年前、西暦62年にポンペイは大地震に襲われています。

地震の被害が大きくても、この地はブドウ農園でワインの製造が発達し、裕福な貴族が多く

近くの河口は良港で船舶の物流も発達し、豊かな漁場で水揚げも多く・・・この街は復興の最中でした。

そこにヴェスヴィオ山が経験したことのない大噴火、・・・ローマの文筆家小プリニウスが

知人に送った手紙に、紀元79年8月24日の記述があり、夏の噴火が定説になっていました。

しかし、最近の発掘調査で壁に木炭で日付とメモが書かれているのが発見されました。

木炭は短い期間で消えてしまうが、短時間で数メートルも軽石と火山灰で埋まった結果、保存された。

木炭で書かれた内容から10月・秋の季節が正しいだろうと修正されました(79年10月24日)

・・・余震が続くポンペイの街で、家の修復中に埋もれてしまった・・・そんな状況も発見されています。

石灰・レンガがあり、大理石のプレートが積み重なり、仕事中で逃げなかったのでしょう。

この円柱の建つ場所は公共の神殿でもなく、・・・貴族の邸宅の一角です。

そして、邸宅内のファウヌスのブロンズ像(複製)は有名になりました。

邸宅内のこの場所は、中庭のように周囲に屋根がありました。

中庭の変わりに多色使いの大理石が敷き詰められ・・・これは、雨水を貯める水槽が設けられていました。

ファウヌスの家と呼ばれるこの邸宅に、先程のモザイク「アレクサンドロス大王とダリウスの戦い」もありました。

・・・豪華なペルシャ絨毯やタペストリーは、銭で購入できますが、

・・・このような作品は、人気の職人を長期間確保しなければ・・・家主は相当な財力があり、何世代も続く貴族でしょう。

こちらは、水飲み場、青銅製の水道の蛇口、豊穣の神・女神像を飾る芸術の街です。

ローマ帝国の水道橋と同様、ポンペイも大都市に水は重要で・・・豊富でした。

道路に沿って水道管も引かれていますから、堀とは衛生のレベルが違います。

火山と水・・・温泉、ローマ同様この街でも立派な公共浴場がありました。

スタビアーネ浴場、施設には広い運動場やプールもあり、浴場は男女別になっていたようです。

紀元前でしょう・・・相当年代が古るそうです。

厚い壁、半円アーチ、採光・・・後に教会建築でロマネスク様式、ゴシックと発展していきますが

まさにロマネスク、さらにこの時代、ギリシャ彫刻の影響で

レリーフ像が、周囲を取り巻いています

硫黄成分の立ち込める中・・・2000年前の建物の装飾です

機能と実用、露天風呂でもいいでしょう・・・とはならないのですね

奥にある大理石の水盤は、温泉水と思ったが、水風呂もあったようで

水風呂にスチーム利用の部屋、温泉水にプールまで、ジャグジーは無かったでしょうが、スーパー銭湯並みの種類です。

天井や壁面の装飾もすごいですね。

生活を豊かにするために、街の評価を高めるために、長期に渡って投資する人が存在したようです。

ポンペイは、街の中央から北と西に発展していきます。

街にはパン屋も居酒屋も、娼館も劇場も、神殿もありました。

窯のある店は何ヵ所か発掘されています。

娼館も25軒発掘されていて、壁画も何点か公開されています。

北の外れに大邸宅が1909年に一部、1929年から1930年に発掘と修復が行われた秘儀荘

大小90の部屋、ワイン製造もされていた。

ここの壁全長17m、3面にディオニュソスという宗教儀式のフレスコ画、等身大の人物29人

左から右へと物語が描かれ、・・・禁じれれていた秘教とされる様子も残されています。

ポンペイレッドと言われる赤が鮮やかなままで残っています。

大地震に見舞われて街は復興中でしたが、悪夢が残る中またも地震、さらに休眠中だった緑の山が震えている。

2万人ともいわれる住民も、今回は避難しようと多くの人が港の船に助けを求めた。

ついに噴火が始まって、混乱の港に救助に、・・・ミセヌス艦隊の司令長官が(噴火について手紙を書いたプリニウスの叔父)

博物学の著書(大作)を残しています、司令長官56歳は、噴火が続くポンペイに艦隊を着艦させ、・・・結局亡くなっています。

ルネッサンス期に再販?かつて目を通して印象に残っていたのが、百科辞典クラスの項目の中で具体的な怪獣です。

インドに住むドラゴン、トリトン(半人半漁)、フェニックス、ユニコーンなどが具体的に記述されていたと思います。

さて一旦非難したが、財宝の持ち出しに戻ったり、離れられない事情で街に残った人々が1000人以上と推定されています。

1863年の発掘の際、地中に空洞が多く存在し、調べると亡くなった遺体が朽ち果てて空洞になっていた。

空洞は息絶えた最後の形として残っている、・・・そこに石膏を流し込み・・・石膏像が掘り出された。

調査隊のジョゼッぺ・ヒオレンティが、このような石膏像の形にして、発掘時の状態を再現しました。

顔面は・・・再現は難しいそうです、人は苦しかったから・・・最後まで動きます。

ガラスケースに収まっているので、ミイラとは違う不思議な感覚です。

発掘現場に置かれていれば、悲惨さが倍増しているでしょう。

この様な石膏像も、東京国立博物館で公開されているようです。

ヴェスヴィオ山の噴火は昼過ぎに始まったそうで、山麓の南側に被害が集中しています。

飛散する軽石に驚いて部屋に逃げ込んでいたら・・・半日で1メートルも積もり

やがて落石が静かになる頃には、街中に軽石が数メートルも堆積し逃げられない。

死の街になってしまったのが、高温の火砕流と有毒ガスに襲われたことだったと思われます。

ポンペイ地区では、まだ3割も・・・土砂の下に悲惨な状態で、2000年もの長い間眠っています。

 

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ポンペイ ギリシャ文明が色濃く

2022-02-13 | アート・文化

ポンペイ・・・1997年に文化遺産として登録され、正式名称は「ポンペイ・エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」

近くのエルコラーノ(旧地名ヘルクラネウム)が1738年に発掘され、10年後、1748年にここポンペイが発掘されています。

ポンペイの訪問は2010年で、当時のガイドブックを参考に・・・、

ところがそれ以降、大きな発見がありました。

以前、国際共同制作のTV番組がNHKから放映されていましたので、その画像も参考に。(2019年)

ここポンペイは1950年以降、膨大な費用を要する発掘は行われていませんでした。

このTV放映では、ポンペイの遺構の劣化が進み、EUとイタリア政府が1億5000万€を拠出しポンペイを救うプロジェクトでした。

イタリア・ナポリの南東にあるこの地で、2018年から未調査部分2000㎡の木々や表土を除去することから始まりました。

TV画像から推測すると土砂を運び出したのは上の画像の右上、中心部から北東になる地域と思われます。

この木々が生い茂っている部分から北側の荒れ地を重機を入れて屋根の高さくらいまで土砂を排出。

こんな状況ですから時間と費用は・・・大変な作業です。

一部の住居を発掘、残りは2kmに渡って排水などの処理をし、勾配を付けた土手を造成します。

表層の土砂を排出し建屋を発掘するには、・・・大半の屋根が潰されているようですが・・・、

石壁は崩れていないので、パイプなどで転倒防止・補強をしながら進みます・・・トンネル工事のようでしょうか。

下に掘り進むので、仮設の階段を設置し、なるほど、今回は2区画の住居だけに発掘調査を絞り込まれるのも納得です。

発掘には専門の調査員も動員されます、・・・調査期間は9か月間とのこと。

通路は石塀が続き、これも全て転倒防止が必要で、・・・土建の話は・・・このくらいにして、

1件の住居から、すぐにフレスコ画が発見されます。

ホースを持った作業員の右ひざ、・・・ザクッ と、大量の軽石に埋まります。

ポンペイの悲劇は、この大量の軽石が1時間15cmのペースでバラバラ・・・と降り注いでこのような状態に。

このフレスコ画は、ギリシャ神話のアドニス(美少年)とTVでは説明されていました。

ゼウスも好んだ美少年は、ギリシャ神話に数多く登場しますが、アドニスと判定された根拠は何でしょう?

アドニスは出生から謎、他国の王とその娘との間に・・・ギリシャ神話らしい話ですが、女神も奪い合う美少年とのこと。

一方こちらは、絵画の技量の素晴らしさよりも題材が、当時の風習を表わしているイケニエ、

このような恐怖・不安・現実を壁面に描写して、家族や来客との話題になり得たのでしょうか

こちらは一部の人々にとっては娯楽・・・剣闘士の描写です。ガイドブックによれば

・・・このポンペイには東の外れに円形競技場があり、通常20組の剣闘士が参加し、このイベントは圧倒的な市民の支持を得ていた。

上のイラストはガイドブックに掲載のポンペイ市内西暦79年の西半分、

左の海岸方面から坂道を登り①はヴィーナス神殿(遺跡には青銅のヴィーナス像がありました)

②アポロ神殿、⑤はジュピター神殿・・・大きな広場がありました。

イラストには、右下に半円状の大劇場があり、その下側が ㉜ 剣闘士の宿舎(広い中庭があります)

続いて東側のイラストを見てみましょう。

東の外れにある円形闘技場で、残虐なイベントを終えた剣闘士たちは東西に走るメイン道路を

凱旋パレード(ピンクのライン)・・・市民の歓迎を受け㉜剣闘士の宿舎に引き揚げたという。

この様な武具が・・・既に工芸品のレベルまで達しています・・・2000年前の技術に驚きです。

ローマ帝国の支配下のポンペイ、・・・貴族・平民の間では豊かな文化に包まれていたようです。

この肖像画も今回発見されましたが、邸宅の女主人です。ヘアスタイル、ピアス、衣装・・・素敵です。

邸宅は中庭や通路、多くの部屋、装飾品はギリシャ彫刻(複製品)が人気があり、壁には壁画が・・・。

この大作、ギリシャ神話「ポセイドン」のフレスコ画も発見されました。

ここでも大量の軽石に埋ずもれて、・・・一種の乾燥剤の中に埋もれたような状態だったようです。

他にも表土を削り、排水管を埋めた土手の工事でも、好色なゼウスのギリシャ神話が描かれていました。

スパルタ王の妻・レダと白鳥

これは、右側がまだ埋もれている状況です。

この様なフレスコ画以外に、モザイク画も数多く発見されています。

床に描かれたモザイク画です。これは従来から現地で公開されています。

ファウヌスの家という紀元前に建てられた邸宅のモザイク画は、今回日本でも紹介されていますが

現場では結構大きくて、ロープ規制がありまして、斜めの画像となっています。

左側に顔だけの騎馬に乗る武将が

そして右側は敵将、

・・・こちらの床のモザイク画は、複製で本物はナポリ国立考古学博物館で修復中です。

「アレクサンドロス大王とダリウスの戦い」非常に精緻な絵画のようなモザイク画です。

この左の武将がアレキサンダー大王の肖像として有名です。

紀元前333年にペルシャ軍を破り、シリア・エジプトを征服、さらに東方に・・・インダス川まで

伝説のギリシャの英雄は、この地ポンペイでも英雄、・・・貴族の館に素晴らしい大作がありました。

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トンガ諸島海底噴火 軽石が少なくてよかった

2022-01-23 | 旅行記

新年早々、東京国立博物館のある展示が告知されていて気になっていた。

1/15(土)午後1時10分頃トンガ諸島で海底火山が噴火したが、日本での津波の心配は無いとされた。

しかし、半日過ぎて・・・津波が日本に到達し・・・1/16(日曜)深夜からTVでは一斉に津波注意報が流れ出した。

気象庁は理解できない現象だったようで・・・後日の報道では、海面より到達が早い、空気振動による衝撃波の影響らしい。

そんな中、・・・1/22深夜、こんどは日向灘で大きな地震。明るい話題が少ない・・・

冬のオリンピックがもうすぐ・・・しかしオミクロン株が急拡大中だが・・・隣国はゼロコロナ、都市封鎖が続く・・・

・・・旅行が無理なので、画像の整理を始めた、フィルムスキャナーで読み込むが・・・大昔のフィルムは相当劣化していた。

何か話題の場所にポイントを絞って整理しよう。

東京国立博物館の展示品? 壁画は持ってこれないでしょう・・・出土品だけでしょうか

噴火で埋もれてしまった2000年前の都市、・・・整理すれば、多少旅行気分に浸れるでしょうか

・・・波止場のようです、・・・もう少し、フェリーの後方の遠景は・・・

港の向こうに・・・二子山でしょうか、・・・いえ、これは一つの山です、左は外輪山です

ここの都市は? 世界三大夜景で有名、・・・ピザといえば・・・ナポリ、ここはサンタルチア港

フェリーで目前にある人気の避暑地の島が、・・・こちらです

ヨットが少ない?

少し離れた所に、太陽がいっぱい

坂道を登ると有名ブランド品のショップも

ここは、青の洞窟などで有名な・・・カプリ島です

港の近くに、ここにもフェラリーのショップはありました。

カプリ島は割愛して、今回はナポリよりもう少し南にバスで移動して、

・・・先程の外輪山のある山麓に行きます。

街中の風景・・・潮風は、スチールのタイヤホイールも錆びますね。

・・・石畳の道路、ショッキングピンクの素敵なスクーターです。

日本車も、もちろん人気があります。

それより、ナポリ名物、・・・ベランダは洗濯物の展示会です。

さて、ナポリから海岸線を南南東に20数キロ程走ります。

城壁に造られたマリーナ門近くに駐車して、目的の入口は、ここから200mくらい

ヴィッラ・ディ・ミステリ通りの坂道を登るとカーブの先、右側に

ポンペイ考古学公園、博物館の入口です。

東京国立博物館で1/14~4/3まで開催されている「ポンペイ展」、その発掘された現場です。

入口から順路を進むと、すぐ目の前に驚きのパノラマ画面が現れます。

・・・正面から左側に続くのは城壁でしょうか、

ローマの都市城壁に倣って建てられたのでしょう

さらに左には・・・丘陵地帯が・・・

ここは海抜40mくらいでしょうか・・・

パノラマの画像に加工すると・・・広大な様子がわかります。

ポンペイ・・・2000年も前の都市とは、・・・東アジアの農耕民族と違い、ギリシャ、ローマ文化圏です。

こちらからは富士山のように見える ヴェスーヴィオ山。

紀元79年に大噴火が起こり、ポンペイの街は一日で埋もれてしまった。

中に入りましょう。

右側は、大谷石の石垣かと思えるような立派な石組です。

前の角はレンガ組です。

これはすごい、大理石の採掘場が近場にあるようでうらやましい。

このようなギリシャ神殿の様な柱が・・・、ここは広場?思った以上に広い大きな街並みが全て消えてしまったのか。

フォーロ、右側の柱廊は、広場138×142mの部分と思われる。

奥に見える山頂からここまで・・・直線で10kmくらいでしょうか

噴煙は上空32kmまで吹き上がったなどとよく言いますが、恐ろしい光景です。

さて、ポンペイのガイドブック(2010年に購入分)にアポロ神殿が掲載されています。

最も古い遺構で、エトルリア語の碑文がいくつか残っている。なる程、碑文から年代も推定

これが神殿のヴィーナスの像

ガイドブックの写真がこちら

そして、ロープで立ち入り禁止となっているが

犬がいましたが、右側に見えたブロンズ像は・・・右側を向くと

こちらが神殿広場の右側に並ぶ柱廊で、ブロンズ像は「矢を射るアポロ」とされます。

再現図がないと理解し難いですね。では、再度ガイドブックから

再現図を再掲しますと

この左の柱廊には「ディアナ」の像がありますが、現地ポンペイの像は複製とのこと。

実物は、ナポリ国立考古学博物館に所蔵されています。

発掘された中には、青銅の天秤ばかりやピンセットなど、鮮やかなフレスコ画など素晴らしい物も

悲しくなる石膏像も展示されていました。

 

 

 

 

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