気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

夏の暑さに負けて、雨にも負けず北上を

2023-09-11 | 旅行記

日差しが痛い、異常気象の日本、台風が次々に・・・旅行はどうする?

台風13号が外れそうだったが、木曜日 午後8時のニュースでは関東に上陸しそう、

困るのが、台風よりもはるか北東に線状降水帯を発生させる雨雲が強力で残っている。

今回、週末に予約している青森、弘前のホテルには無事到着できそうか?

大雨が続き、途中での道路事情のリスクを考慮して・・・キャンセルのメールを入れる。

手前の岩手県 岩泉の龍泉洞は・・・涼を求めて北上する計画の主たる目的地だった。

ここまでキャンセルすると、旅行が白紙になってしまう。

前日キャンセルも、お騒がせになるので結局、そのままで成り行きまかせ!

写真・動画の整理は終わっていないが・・・岩泉までの概略が・・・

・・・金曜朝 5:00、東京は早朝から雨模様となったが・・・6:30になった、

雨には多分強い オールシーズンタイヤだ、 出かけよう。

東北自動車道、比較的すいていた・・・宇都宮、100km まだ強い雨が続いている。

・・・200km 郡山、前方が明るくなってきた・・・雨雲が切れそうだ。

宮城県に入り、白石・・・300km、もうすぐ仙台南JCから、太平洋岸の東に向かう・・・

松島から石巻・・・ 400km、無料の三陸道を走って

12時を過ぎた、昼食は宮城県の最北、気仙沼でマグロを!

食後、気仙沼が一望に見渡せる安波山 の麓まで車を走らせたが、霧雨と曇天で展望台行きは中止。

隣の岩手県、陸前高田へ

入り組んだ湾に、悪夢が襲った、そして、奇跡の一本松が有名になったが枯れてしまった。

・・・塩害だったのだろうか

宮古の人気の景観にも接し・・・

岩泉の龍泉洞ホテルに PM6:00 到着 東京を抜けてから600kmは過ぎていたようだった。

翌朝は、霧雨模様、800m先の龍泉洞内は気温10℃、カメラのトラブルに注意!(別途)

青森行きを中止したので、三陸海岸をドライブ

仙台市内に戻り、ホテルにPM6時チェックイン

そして、日曜の朝快晴、閖上(ユリアゲ)名物の朝市で・・・直射日光を首筋に当てながらセリに参加し

予想外の名産品を成り行きで・・・ゲット!(別途)

仙台市内の神社を散策・・・(別途)

東北自動車道、日曜日午後3時過ぎの情報、国見で事故通行止め、

通行止めは困る・・・他に東京方面で・・・栃木県内だったか、違う地点でも事故xの表示。

・・・常磐道は1車線で所どころ対面通行、遅い車を追い越し車線で追い越し続け・・・、

夜間は対向車のライトや、中央線を視界に入れ続けるので、目が疲れるがやむを得ない、

仙台から・・・常磐道を選択し・・・ひたすら走って・・・守谷で夕食、無事帰宅へ。

我が家のベランダ農園が心配で・・・葉が水分不足だが朝日を浴びて、元気な状況を確認。

無花果が二つ、熟していました。葉影に、もう1つ、これもすぐ熟しそう。

これでプランター栽培で、計5個、残るは2個、予想外の収穫となりそうです。

・・・諏訪大社の前宮の整理が残っていました。

旅行記ブログ、大半が途中で・・・終了。

レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・完成形が見えてくると・・・好奇心、探求心が薄れるのか、

依頼主の作品を完成させることよりも、他のことを探し始めているようです。

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上社 本宮 その2

2023-09-02 | 旅行記

上社 本宮は、少し解りにくい順路となっています。

一部修復中で通行禁止だったりすることもありますが、本来は東の鳥居から境内に入る造りだったようです。

下図はグーグルのマップを使用していますが、方位は上が北です。

この地図で、右下に神宮寺下り仁王門跡とあります。

この前を走っている道路は、東からの一方通行です。

この道路をさらに右下(東)方向へ約100m進んだ所に、三之鳥居があります。(下の地図の枠外)

かつては、神宮寺方向から神社に向かうこの道路が東参道でした。

三之鳥居から進んできて、240mくらいで右カーブとなります。

そして坂道を下って200m弱、国道16号の手前に四之鳥居が立っています。

このカーブの地点に、このような案内板がありました。(現在地から左側が東参道)

江戸時代に航空写真はなく、これは諏訪市博物館展示の諏訪大社と神宮寺模型からと記載されています。

神宮寺と法華寺の勢力が大きかったようですが、神仏分離令で主に寺院が棄却取壊しとなっています。

では、元に戻って、・・・上記の案内図で右端の一之御柱から、順を追ってこの場所に進んで来ましょう。

この一之御柱は、境内の4本の内でもちろん一番立派です。

この右側に通路があり、通路の右先に社務所があります。御朱印帳はこちらで依頼します。

では右の通路から、正面の階段を登ると正面の門(塀重門)は閉っています。

順路は、右に折れて塀に沿って進むと、少し先の左側に入口門があります。

中に入って、右側の建物は授与所、正面に見えるのは宝物殿のようです。

ここで左に90度、東向きに向きを変えると、前方に参拝客が見えました。

左手に・・・小さい龍が

東に向かった正面に・・・これは簡素な造りの?・・・拝殿ではないようで、参拝所とあります。

両側が柵でその先には入れないようです、左に回り込んで

檜皮葺の苔むした屋根が見えます。

下社で拝見したような拝殿・裏が幣殿、左右に片拝殿が連なり、・・・尚且つ脇片拝殿もあります。

この石畳の部分は斎庭と呼ばれ、社務所で祈祷を願い出た人が神主と共に入り弊拝殿で願い事をします。

弊拝殿の奥は、・・・上社も本殿は無いようです。

裏山(南西側にあたる標高1650mの守屋山)が「神体山」とあります。

重要文化財の説明があります。

前方の建物以外に四脚門までが、昭和58年指定、遅れて布橋などが近年指定されています。

では、戻って塀に沿って東に進み「四脚門」から下に続く階段を降りると、・・・正面に神楽殿があります。

左横の案内板を見てみましょう。

元旦の朝に打たれる大太鼓も、1827年に奉納されたとあります。

東側に回っても確かに四方に壁や戸が無く、吹き抜けですから傷みも激しいでしょう。

しかし、この太鼓は新しい雰囲気です。よく見ると

諏訪家太鼓店が奉納されています。ということは、近年でしょうか。

・・・暗くて判り難いですが、右奥にもう一つ埃だらけの太鼓があるようです。

何故、・・・埃だらけの太鼓の案内が立てられたままで、新しい太鼓は?

・・・調べてみますと、2010/4/25、奉納されたようです。3時間かけて神楽殿に据え付けられたと。

欅の大木から輪切りで胴をくり抜く・・・そのような丸太の入手は困難だったのでしょう。

胴の製作は薄い欅の板を6枚張り合わせた合板を、樽を作る要領で組み上げて接着されたようです。

龍の姿が描かれていますが・・・。反対側は未確認です。

その東隣に屋根が無く、雨ざらしとなっている土俵がありました。

年一回の奉納相撲の前に、造り直されるから管理はこれでいいのでしょう。

この場所へは、大鳥居から入り、右側の雷電為右衛門像の横を通れれば、神楽殿に進むことができ、その先に土俵があります。

そのまましばらく進むと・・・左に神馬舎、その先右側に、二之御柱があります。

・・・昔の参拝(神宮寺方向からの東参道)の(案内板のある)場所に出ました。

山側に、臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 法華禅寺が奥に見えます。

そして右側の小さな神社が、・・・旧字が読めない。

「社神玉蠶」旧字の蠶・(蚕)です。杉の丸太でしょうか、この鳥居が神社と妙に良い感じです。

この神社も御柱が立っていて、柱の太さが不揃いな点も、気にすることは無いと言っているようでした。

・・・では、ここから右(北西側)を見てみましょう。

諏訪大社 上社本宮、ここに表示されていました。

山からの小川に架かる橋もあります。

青銅の立派な大鳥居が参道に立っています。

そして、入口御門の右側に、御柱が見えます。

こちらが、二之御柱です。(三之御柱は、山側になります)

入口御門は、布橋と呼ばれる渡り廊下のような建造物が、ここから神楽殿の横まで続いています。

斜面に沿って建っているので、右側は石垣などで土盛りされ、神楽殿に降りるには階段が設けてあります。

そして右側に、こちらも重要文化財、四脚門

この門の先は斎庭で、奥に硯石があるそうです。

左に見えるのは、弊拝殿です。

天正10年(1582年)焼失とあります。この時期といえば、信長の甲州征伐の際起った事でしょう。

「信長公記」では若い織田信忠が大将で3月2日、籠城している武田軍の高遠城に総攻撃、

・・・陥落させると、翌日本陣を諏訪に進めています。

その際、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払ったようです。

・・・同年、天下統一寸前で、6月2日本能寺の変が起こりますが(新暦7月1日)。

その後、慶長13年(1608年)徳川家康が建立させたとあります。

この時期、彦根城の天守閣も完成、豊臣大名に負担を掛けさせ、名古屋城も1609年築城開始、1615年完成させています。

さて、諏訪大社の最後は、前宮、こちらも・・・神社の起源を考えることになります。

 

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下社と上社

2023-08-20 | 旅行記

下諏訪町に鎮座しているのが下社、では春宮から秋宮に車で移動しますが、・・・8月1日に移動したのは舟でした。

4年ぶりに夏の遷座祭「お舟祭り」柴舟曳行が行われたと、信濃毎日新聞の記事にありました。

コロナ感染防止のために従来のパレードは中止となったようです。

諏訪大社のHPから、周辺の地図を拝借しましょう。

この下社の春宮と秋宮の関係性を調べてみると、・・・2月1日に秋宮の御宝殿の御霊代が・・・春宮に遷御される。

冬から春へ季節の変わり目です。そして、夏から秋へと季節が移る8月1日・・・御零代が秋宮へまた移ります。

夏から秋は、特別に収穫の感謝の意味もあるのでしょうか、盛大な行事が行われます。

・・・丸太の上に、柴の葉と枝で装飾され5色の布で飾られた舟が置かれ、5tもあるそうでこれを曳行します。

南に直進、お舟を直角に左に回転させ、東を目指すと間もなく少し上り坂、その先に鳥居があり、秋宮です。

・・・春宮からの車は、鳥居の先右側の奥に無料の駐車場が何カ所かあります。

駐車場から斎館の前を通り、参拝のために境内に入ります。

右手に、竜がいます。

手水舎でしょうか? 50度近い温泉で、飲用しないようにとありました。

そして杉の巨木の間から見えてきましたのが、・・・こちらも春宮と同様・・・神楽殿でしょう。

両側に大きな狛犬が置かれています。

こちらの秋宮の狛犬は、青銅製としては、日本一の大きさだそうです。

そして、大きなしめ縄・・・神楽殿に、重さ1トンの大注連縄とありました。

・・・信濃の国は、出雲の国、出雲大社の影響が強く・・・この景観は、どこかにそっくりでした。

探してみましょう、確か2回目の参拝、2018年の冬のブログ・・・

出雲大社の拝殿の画像がこちら

出雲大社のHPでは、拝殿の注連縄の長さ6.5m、重量:1 トンと説明されています。

秋宮の神楽殿と同じ重量のようです。

この拝殿を左に回り込み、さらに左に進んで行くと50mくらい先に・・・出雲大社の神楽殿があります。

目を疑うほどの圧倒的な大きさです。

長さ13.6m、重量が 5.2 トンと出雲大社のHPにありますから、材料の確保から、縄編み・組付け、吊り下げ

最後の仕上げがまた大変な作業と思うと、・・・良く完成されたと、継続される関係者の熱意に感動いたします。

・・・この下は通らず、注意して横に回り込んだ事を思い出しました。

さてこちらの諏訪大社、秋宮の神楽殿の先(裏)に弊拝殿があります。

春宮とそっくりですが、秋宮と同じ図面を基に二つの宮大工が張り合ったようです。

下諏訪町のHPでは、「1777年(安永6年)秋宮が、立川和四郎富棟(とみむね)が請負うことになりました。

 高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩(とも)重(しげ)(大隈(おおすみ)流)は兄伊藤儀左衛門と相談して、

春宮の建築を秋宮と同じ絵図面で、35両扶持米(ふちまい)なしで請負い、

不足分は自分で勧化(かんげ)して造る旨の一札を出した。

これは採算を度外視した 秋宮の半額以下で、立川氏と競り合う形となり、すぐ仕事にかかった。

秋宮より遅く始めて約1年早く、安永8年(1779)6 月工事を終えている。

大隈流は完成した「規矩(きく)」(規則・技法)を持った当時全国に知れた一派である。」・・・以下割愛。

・・・元の絵図が同じですから、雰囲気は同じですが、・・・異なる部分(彫刻など)を探してみるのも楽しいでしょう。

左右には、春宮同様に片拝殿が建てられています。

そして、秋宮の御神木は、一位(イチイ)の木が植えられています。(あるいはこちらの漢字・櫟(イチイ)も使われるようです。)

針葉樹で成長が遅く、飛騨の一位一刀彫、昔から神主が使う笏(シャク)の素材で神社とは縁が深いそうです。

向かって右側に、一之御柱

この柱の右側に、案内板がありますので拡大します。

ここ下社の祭事は、8月1日 例大祭は「お舟祭」と書かれています。

2月1日に、この秋宮から同じように行列が春宮に向かい「御宝殿の御霊代が遷御」されます。

その遷座祭は、春の移動があって、秋が来るので成り立つのですが・・・

・・・舟祭りのイベントが主になり、最近は前日( 7/31) の宵祭が年々華やかになるようです。

そして向かって左側に、ニ之御柱です

同じように、この左側奥に三之御柱、・・・四角形で囲む右隅に四之御柱が建てられています。

境内を下がってくると、下社 秋宮の正面鳥居はこちらになります。

駐車場はこの手前を右斜めに登っていきますので、遅ればせながら正面をご案内申し上げます。

・・・先日の舟祭りは、・・・丸太が二本のそり状と言われます。

神楽殿まで引き上げるには、この坂が最後の難所のようです。

下社例大祭、舟祭り・・・伝統行事が続いていることが、神話の世界に関心を持つキッカケになるでしょう。

この参道を少し下ると、中山道と甲州街道が交わる賑やかな場所になります。

ここで、昼食を・・・そして、諏訪湖の反対側に移動します。

・・・2~30分くらい、約10km走り、目指すのは・・・

諏訪大社の上社、本宮です。

こちらの本宮 はかつては盛大な様子だったそうですが、明治の神仏分離で縮小となります。

また現在は、残念なことに一部が修復中でした。

判り難いので、グーグルの画像を拝借します。

左下から県道183号を進むと(北は、下方向となります)・・・神宮寺の交差点です。

前方の道路に架かる四の鳥居方向は進入禁止の表示ですので・・・右折します。

少し進むと県道16号の左側に、参拝者向けに広い駐車場があります。

そこに駐車して、右側の側道に出て前方の小山を見ると

諏訪大社 本宮大鳥居です。

参道の右側では土産屋に挟まれた広場で、市が開かれていました。

本宮は、諏訪湖の南からは少し離れています。

案内図がこちら

大鳥居を入り、すぐ左に力士像があります。

力士名は、雷電為右衛門・・・有名な江戸時代の力士ですが・・・。

知りませんでしたが、地元の名士だったんですね。

御祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)も出雲の国譲りの神話では、色んな解釈がされています。

国学院大学 「古典文化学」事業・・・などでは、日本の神様などが詳しく解説されています。(ご参考まで)

江戸時代、儒学や藩学が盛んになり、神道、儒教、仏教の敵は・・・異国から布教に来たキリスト教となります。

1613年の12月には、徳川家康の強い影響力で伴天連追放令が出されます。

キリシタンではないことを仏教寺院に請け負わせた寺請制度(キリスト教以外も、地域によっては規制があったそうです)が浸透します。

・・・大航海時代のスペイン、ポルトガルは、他文明の土地に上陸しては、布教と虐殺、資源を略奪する犯罪行為を続けていました。

家康の追放令以前に、秀吉は伴天連がキリシタンの武士や農民を扇動し反乱を起こし、我が国の侵略が目的との情報を得ていました。

我が国の武力も利用して中国に侵略する計画も耳にし、これ以上の布教を押さえようとしています。

当時、朱印船で往来するマニラに駐屯するスペイン艦隊に、秀吉は書面で脅しをかけていますから、大局観は正しかったと思います。

・・・時代が移り、明治政府の混乱が続く中、1873年(明治6年)キリスト教の禁制が解除されます。

これより前、外国人居留地では、1859年(安政6年)信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可しています。

この時期、薩長連中は朝令暮改も多く、ドタバタ続きのようで、真相は良くわかりません。

いずれにしましても、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法、28条 信教の自由を保障する規定が設けられます。

国教を目指した神道は、祭祀と宗教を分離し、神道は祭祀だけを行い 宗教ではないとの解釈に落ち着いたようです。

カトリック教が主流の欧州でも、年々無宗教の割合が多くなり、今日ではザット半数に・・・、何を示唆しているのでしょう。

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諏訪地方の神社

2023-08-11 | 旅行記

日本各地の観光名所に、神社仏閣があります。

土地の歴史と建築文化、立ち寄ってみたいですね。・・・パワースポットや神頼みは、あまり興味がないのですが、

ヨーロッパでも文化の中心に、キリスト教、中でもカトリック教、いや教義よりもバチカンの影響力に関心があります。

松本市から諏訪に向かうと塩尻峠の先、下諏訪地区に入ります。

諏訪湖の北、中山道が通り諏訪湖に流れ込む砥川の右岸に諏訪大社があります。

正確には、下社 春宮と位置付けられ、ここから約1km南東に下社 秋宮が鎮座しています。

諏訪大社は古事記などに登場する杵築神社(出雲大社)と共に神話の世界を祖としています。

神話の世界は古事記や日本書紀を基に、さまざまに伝えられているようですが、神社本庁の国譲りを転記しましょう。

以下、神社本庁HPから拝借

天照大御神あまてらすおおみかみさまは、孫の瓊々杵命ににぎのみこと豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを治めさせようと考えられ、建御雷神たけみかずちのかみ天鳥船神あめのとりふねのかみに命じて、様子をうかがわせてみました。

二柱の神は、出雲の国稲佐いなさの浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

そしてこの国を治めている大国主神おおくにぬしのかみに、この国を天神あまつかみ御子みこに譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。

大国主神には、事代主神ことしろぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみという二柱の子供がいましたが、そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。

そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。

建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。 これはたまりません。

建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました。

以下、割愛

・・・ここに登場する大国主神を祀っているのが杵築神社(現在の出雲大社)、

そして、その子供 建御名方神 が建御雷神に負けて逃げてきたところが諏訪湖の南といわれています。

・・・そのような言い伝えのある諏訪大社は、下社以外に、上社 前宮と上社 本宮 の二社を合わせて4カ所を参拝します。

では、先程の鳥居から北に進むと、出雲大社よりは小さいが、立派なしめ縄のある拝殿?でしょうか

・・・立て札に、神楽殿とあります。

立派な神楽殿です。

神楽殿が中央に置かれているので、神話の時代のように神楽は重要だったのでしょう。

左から回り込んで

奥に見えるのが本殿?でしょう。

弊拝殿とあります。拝殿と幣殿の機能が一体になった建物です。

中央階段の先に、楼門造りは2階建て、門に対して屋根が大きい・・・ここの拝殿で参拝。

奥に続くのが、幣殿と称する神職がお供えなどをされる場所となっているのでしょう。

もう一つの立て札、左右片拝殿とは

中央の弊拝殿から長い平屋建て(約11m)が、吹きぬけが多い・・・こちらも拝殿、両サイドに建てられています。

そして向かって右側の拝殿の手前に、大木が四方をしめ縄で囲ってあります。

これが御柱です。この場所が 一之御柱となります。

神木(御柱)はモミの木で、直径1m、高さ17m・・・この奥に四之柱が見えますが立ち入り禁止のようです。

先程のもう一方の片拝殿に戻りましょう。

こちらが、二之御柱です。もちろん奥に三之御柱があり、四角で囲っています。

何を囲っているのか? 御宝殿を囲っているのでしょうが、ご本尊を祀る本殿が無いのです。

春宮では御柱で囲われ、その内側に塀で囲まれた神域には「ご神体」があります。

ご神体は、・・・「杉の木」が植えられているとのことです。

この神域の後部には、神聖なる自然の山があります。

振り返って、

諏訪湖に延びる、一直線の少し下り坂の道路が続いています。

右側に、下記の案内図がありました。

万治の石仏が、この近くにあることを知り、散策に出かけます。

境内から右の砥川に向かい小道を下っていくと、川に出ました。

観光地にするには、目立つ橋を架けよう。

太鼓橋ではありません、鉄製の幅は狭いが丈夫な橋が架かっています。

そして、上流に向かうと間もなく案内板が

そうでした、誰だったか有名人が・・・岡本太郎氏が訪れた、そのように記述されていました。

大きな石に阿弥陀如来の頭部を彫って・・・いつしか、御利益と作法まで・・・

観光協会も商工会も、万治の石は観光資源です。

すでに立派な物語が継承されているようで、SNSでブームになれば土産物屋も・・・。

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久し振りの信州

2023-08-03 | 旅行記

土曜日の朝、駐車場から数分の所に蓮池? 蓮の花を見て回る。

このように、水面に大きな葉を浮かべる植物、じっくり見るのは多分・・・不忍池いらいかな。

案内板は、何故か 西が上です。

現在地から下側に目をやると・・・天守閣が東側になります。

昨日に続き、朝日を浴びるこちらの城を散策にまたやってきました。

信州・松本  松本城です。

城の西側、内堀に掛かる埋橋(ウズミバシ)、埋門から架かる橋でその名がついているようですが、現代(1955年)に架けられました。

戦国時代は内堀の中に塀を建てた特殊な構造だったようですが、詳細が不明でこのような朱塗りの橋が架けられたようです。

内堀に沿って南側に移動しましょう。

周囲は松本城公園、朝から海外からの観光客が多くみられます。

本丸に進むには、・・・すぐそこ、右側に黒門が見えて来ました。

黒門に進みましょう。

二の門と袖塀は1990年の復元とあります。

本丸に入るにはこちらが正門となります。ここで拝観券を購入します。

そして、海外の観光客に大人気でしょう、忍びの黒衣装です。

この暑さの中で、頭が下がります。オット 派手さは無いが、左手の先で武器を回していましたよ。

この場所は桝形に造られているので、右に進みます。

この先、左側の櫓門を抜けて本丸へと進みます。

右側は帰りの出口のようです。

こちらが一の門(櫓門)(ヤグラモン)、1960年(昭和35年)の復興とあります。

左側に、通り過ぎてしまったのですが、甲冑が展示されてありました。

今日も晴天、ここは記念撮影コーナです。長椅子は置いてないようです。

ここは標高589mとありますが、何と比較すれば・・・

東京都八王子市の高尾山、麓の京王線、高尾山口駅の標高が190mくらい

そこから人気のハイキングコースです・・・山頂まで約400m・・・そうすると高尾山の山頂は599m。

本丸御殿跡を、正面の大手口に向かって進みます。

大手口の上に渡櫓が走りその高さが12m、左が天守、右は乾小天守:高さ16.8mこちらは観覧できません。

右側に回り込んで

この先で拝観券のチェックとあります。

傘立ての先、石段を上がると城内は木造建築です。木製の階段ですから、下足は禁止です。

ビニール袋を渡されて、城内を持ち歩くことになりますが、これが大変な苦行となります。

出口が少し離れた右側の所になるので、持ち歩いて頂きたいのでしょうが・・・方法はあるでしょう要改善。

大手口には頑丈な扉があり、その先から・・・年季の入った滑りそうな木の階段の数々に挑戦することになります。

大半の人がバッグを背負い、階段の端に設けられた手摺を片手で握り、

反対の手に靴の入ったビニール袋を操りながら、階段に取り付いていきます。

階段付近の撮影は禁止です。

急階段が多く、段差が普通の二倍くらいある所もあり、甘く考えていると危険です。

天守の2階に到着、個人の寄贈品、火縄銃と関連資料が展示されています。

松本市出身の赤羽氏の寄贈とありました。

こちらは甲冑

2階は、東・南・西側に窓があり・・・比較的明るい、

係員の指示に従って、先を急がず無言で上ります。

段差注意!、上りは、階段に手をついて上がるくらい段差が高い所があり、ここは降りるほうが危ない。

天守の3階は窓が無く暗い部屋、五重に見える天守閣が・・・この階があることで、

外からは気づき難いが、内部は実質6階となる構造で、分りにくいこの階は最も安全と考えられたようです。

天守5階部分、この階は天井が高いです。

この5階は、天井が4.54mもあり、稽古場や作戦会議などが開かれたのでしょう。

最上階に上がる階段は、途中に踊り場があります。

最上階、天守6階です。

北側に、守護神が祀ってある・・・その謂(イワ)れが掲げてありました。

眺望の写真と案内が

国宝、旧開智学校が近くにありますが、

現在は修復工事中で見学はできませんでした。

東側が

王ヶ頭の裏側が美ケ原高原、茶臼山の裏側にかけて、ビーナスラインが走っています。

20年頃前は、夏に大勢のファミリーで、霧ヶ峰、車山高原、白樺湖と有料道路をドライブしたのが懐かしい。

南側は

駒ヶ根、木曽方面です。

駒ヶ岳ロープウェイに向かう道路で、バスの最後部左端に座ったら、カーブで身体は谷底の上に振られ・・・始めての恐怖体験。

光善寺のヒカリゴケ・・・懐かしい、久しぶりに・・・夏は信州の旅行が多かった。

中山道の馬籠宿、妻籠宿、カーナビが無い時代に地図を片手に・・・。

西は

天狗岩の向こうに上高地、右に穂高、左に焼岳、その向こうは・・・飛騨高山

・・・高山からの帰りに、中部縦貫自動車道の安房トンネルを通らずに、紅葉の峠を山道ドライブしたら

後ろから・・・爆音が轟くラリーの連中に遭遇、競うように走り・・・シフトチェンジが忙しかった。

多分10数年前を最後に・・・中央道の渋滞が嫌になり、こちら方面は疎遠になっていました。

写真を見ると昔のことが次々と・・・思い出されてくる。

・・・エ! 二十六夜社? 天井?

天井は太い梁で、隙間に・・・何か見えた。

反対側に回ると

頭上に「二十六夜社」が祀ってありました。

石川数政・康長父子が深志城からの城を改築し、御殿、太鼓門、黒門、・・・、

天守の築造は、1593~1594年頃と考えられているとのこと。

では、注意して階段を降りることにしましょう。

こちらは、南側、水深の浅い内堀の向こうが松本城公園

ここは天守の南東(辰巳)に増築された「辰巳附(タツミツケ)櫓」から北側の眺望です。

北側から石垣左側の入口に歩を進める人々、・・・階段気を付けてくださいよ!

国宝、松本城 

「辰巳附櫓」の先に増築された「月見櫓」の1階から出口となります。

朱塗りの回廊が見えますが、こちらが北、左が東、向こう側が南になり、

これら三方の戸を外してふきぬきとし、月見をするための贅沢な櫓でした。

出口は、入口の隣の門からとなります。

ありがとうございました。

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朝から首都高渋滞・・・

2023-07-30 | 旅行記

朝8時半、金曜日の朝、首都高に渋滞の表示は無かったので首都高に入る・・・乗って5分、渋滞し始めた。

どうした、故障車か?・・・環状線のトンネル内で、やっと国立まで渋滞の表示が出た、下り線なのに事故か?工事か?

渋滞は・・・さらに

首都高を下りて、山手通(冠状6号)を初台目指して走る・・・多少混んでいるがそこそこ走れるから、普段通りのようです。

初台で確認すると、首都高から中央道まで渋滞表示、・・・甲州街道を高井戸へ、そして・・・さらに国立府中ICまで下道を走る。

中央道はスムーズに走れた記憶がほとんどないが、都心の首都高から渋滞したのは久しぶりだった。

11時過ぎに談合坂SAに到着、午前中の予定をフリーにしていたので、1時間休憩

1時前に勝沼ICで降りて、桃狩りへ・・・ICから15分、果樹園に到着、7月の21日

晴天、暑い、・・・歩いて近くの桃園へ

こちらの果樹園の説明では、今年は例年より早くシーズンは終わりで、予約客のみ桃狩りが可能とのこと。

固くて甘いタイプも人気があります。

こちらは白鳳、袋は残して、桃のみ真っ直ぐ引っ張ると収穫できます。

高枝には、アルミ製の脚立を使用して。

この場で採りたての暖かい桃を食べるのでしょうか? 違うようです。

こちらで収穫した2個は籠に入れてお土産(持ち帰り)。

お店に戻って、カウンターに並んでいる籠に、丸ごと冷やされている桃が沢山。

これをテーブルに持っていき、好きなだけ食べれるのですが、

立派な桃です、水分も多くそして甘い、皮は剝きますが、そのまま食べる方も・・・。

大きいので1個で満足ですが、何故かナイフを持つ手が、次へと動いて行くのです。

30分くらいで、気が付けば5個完食、うまい!

固めの桃をもう1個頂いてきて、違うフルーツを食する感じ、これも甘い。

種の周囲を6等分にナイフを入れ、さらに周囲を上下に2等分・・・細かくして美味しく頂きました。

更に中央道を北に・・・途中工事中の区間があり渋滞、最高速度50km/hの標識が多いこと。

東名も見受けられますが、これは嫌がらせでしょう。それとも関係者の交通見直しの怠慢でしょうか。

今日の宿泊は、こちらの城下町へ

オット!圧倒的に海外からの観光客が多く・・・記念写真の邪魔にならないように

忍者が出てきそうな、堀と城壁、堀には錦鯉、水深は堆積物があり浅い。

奇麗な五重天守、400年余の風雪に耐えて・・・国宝に指定されています。

ブログは、書き始めては中断、・・・季節が移り、削除の繰り返し・・・胡蝶蘭はこの間、半年も咲き続け、

・・・気が付けば盛夏、いちじくが順調に大きくなり、クコの実は半数がうどん粉病に、

ブルーベリーもハイブッシュ系は収穫済でラビットアイ系が今頃から熟します。

そうでした、ニンニクは大きくなりそうで、肥料と水やりを控えたので失敗、小ぶりな球根を収穫することになりました。

胡蝶蘭は、根の環境が例年より厳しく気温の変化についていけないのか、葉が変色して落ちるのが目につきます。

新陳代謝が旺盛と解釈すれば、多少気も休まるのですが、要観察の日々が続きます。

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銀座の桜

2023-03-31 | まち歩き

3月29日、12月決算の某社・株主総会・・・訳あって出席することになり、

・・・車は遠慮して下さいとあり、久しぶりに地下鉄で・・・四谷・赤坂見附間は通勤ラッシュ

AM9:30 会場のビル で休憩、この一帯はここ数年で景観が相当変わって雑多な風景が少なくなってきました。

定刻に総会は開始され、監査報告、社長からの事業報告、・・・議案、取締役の選任と予定通りにて終了。

移転した新事務所を拝見して、同行者と二人で11:00頃ビルを後にする。

ここから、すぐ銀座なので、関連会社の銀座の店舗を見たいと、知人に出社を確認すると本日は休みとのこと。

そこで、同行者は急ぎの事情が入り、帰宅されることに。

・・・久し振りの爽やかな天候で・・・駐車時間を気にせず、フラッと銀ブラを一人ですることにした。

外堀通り下の地下駐車場、ここの待合室は変わってなかった、昔のソニープラザは、工事中

地上に出ると、向かいの数寄屋橋交番横の桜が目に飛び込んできた。

五月晴れかと思うような青空に、薄紅色の桜が似合います。

東急プラザ、交差点側の 斜めのカットは目立つが、落ち着かない。

以前の銀座東芝ビルは、一角に阪急百貨店が入居していて、上層階は東芝他法人が入居していた。

ここの東芝などに10年ほど商談に伺い、地下の喫茶店にたむろしていた時代が懐かしい。

手前の一角は、SONYのショールーム、ソニービルがあり、数寄屋橋交差点のランドマークだった。

1階の左隅から・・・地上8階までエレベータで上がって、中央が吹き抜けだったか?

各階は中央部に階段があり、周囲にフロアーが分れ、階段で1階までブラブラ散策させて頂いていた。

数年前に解体され、暫定的にミニ公園のような状態だったが・・・新ビルは・・・2024年?

さて注目は、晴海通りを銀座4丁目交差点の方にブラブラと歩いて行った右側

右側交番の裏に見えてきたビルが、解体されるというニュースがありました。

銀座三越側からの風景です。

このビルが完成した頃から、カネボウ・資生堂がTVCMを大量に流し、コパトーンが売れ、女性水着は最先端ファッションでした。

三愛は、このビルの低層階で女性水着などを販売していました人気のショップです。

数寄屋橋の西銀座デパートにも店舗がありました。

他のテナントでは、マツダのロータリーコスモが2階に三菱電機のショールームは上層階に、ネオンもスリーダイヤでした。

スリーダイヤの画像が見つからない・・・AVが主力の時代ですから相当昔のようです。

2010年はこちら

時代は変わって、リコー三愛グループの三愛婦人服部門は、数年前に他社に売却されたようです。

三愛ドリームセンターは、狭い入口から入ると中央部にエレベーター、各フロア横の狭いラセン階段を降りてくる。

日本一高価な土地にユニークなファッションタワーが出現して、10代に数回訪れ狭いが賑わっていた記憶が残っている。

こちらは4丁目交差点から、中央通り4~1丁目・京橋方面

右側の銀座三越店のファサードが随分変わって、重厚感があります。

平日のお昼の時間です、外人観光客が多く、人通りも増えてきました。

昔のような気がするが、・・・コロナ禍で始めて迎えた2020年のゴールデンウィーク・・・どこにも行けずどうしよう。

コロナの街を記録しようと、・・・Gopro片手に銀座晴海通りと中央通りの路肩を走っている動画から切り出してみました。

晴海通りを数寄屋橋方面に・・・左手に三愛ドリームセンター

昼過ぎ、人も車もかなり少ないです。

4丁目交差点に掛かり、三愛ビルの横に交番があり、婦警さんも見えた。

三愛ビル横を通過し、ソニービル跡地がある数寄屋橋交差点を左折して土橋方面へ、

・・・オット、この手前にかつて有名なネオンが屋上にありました。

そのビルも立て替えられ、今はこのビルです。

イタリアのブランド、アルマーニーの銀座タワーです。

10数年前に完成したと思いましたが・・・最上階2フロアーは高級レストラン、領収書で接待を

そうでした、モノクロ写真でした。

・・・中央通り銀座8丁目からまた4丁目へ戻ってきました

この画像で、銀座三越店の正面が工事中でした。2010年のことです。

さて現在に戻って、服部時計店(銀座和光)の並びに、老舗のアンパン屋があります。

道路の反対側から・・・どうも鮮やかな桜が気になって・・・近づくと鉢から造花の桜の木が、

駄目でしょう、一等地の名店です。

造花の前で外人観光客が記念撮影・・・よく見なさい 花が抜けて緑の茎が多数露出しています。

桜の若木・・・鉢植えで管理可能でしょう。(ベルサイユ宮殿では熱帯植物は鉢で管理し、冬場は温室へ移動)

西銀座に向かう途中、奇抜なショーウィンドーが・・・仏のモンクレール

30年前頃、ダウンジャケットで人気だと思いましたが、最近またよく見かけます

そして、この先外堀通りに面して、元読売新聞社の跡に・・・新年の福袋で大人気でしたプランタン銀座がありました。

そうです、プランタンも廃業。今は、ユニクロが移ってきています。

西銀座デパート・・・ここにも三愛があり、宝くじ売り場があり、街宣車が必ず停まっていました。

いつ頃のこと? 昭和です。・・・今日では、落ち着いた雰囲気です。

西銀座でも花見ができます、この桜は茂庭桜(モニワ)花弁は5枚で、白色から紅紫色に変化するとのこと。

地下鉄の出入り口、人通りが多くなってきました。

移動しましょう、秋葉原に・・・散策後、そして男坂を上った先に

有名な神社が、右側から桜越しに

ここからもう少し右側に進みますと、銭形平次の碑があります。

神田明神 隨神門 1975年の建立、そして右側には石造りの大黒様

商売繁盛、恵比寿・大黒様の神田神社です。

北西から雲行きが怪しくなって、

空気が冷たくなってきました。夕方になると雨予報がありました。

では、帰宅しましょう。週末は小菊の株分け、そして植え替えをしましょうか。

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身近な桃源郷でしょうか

2023-03-26 | 旅行記

アッー! 折れた・・・なんて日だ!

この胡蝶蘭が3鉢、その内の1鉢が花茎が伸び始めたので、・・・無意識に松の枝のように矯めを少し強く行ったら、ポキリ・・・

1年前も4~5㎝に伸びた花茎を温室から取りだす際に、フレームにあたりポキリ。貴重な花茎を折って花は咲かなかった。

失敗から学び・・・成長する筈だが、・・・花茎を針金に固定するのは、少し早すぎたようで・・・焦りすぎたか。

折れた花茎は3㎝くらい、捨てるのはまだ早い、・・・収縮チューブ、Φ3くらいのが何処かにあるはずだが物が多くて

10倍のヘッドルーペで確認しながら道管の位置を合わせたいが、ルーペも慌てると見つからない。

結果・・・元気になる確率が少ないが・・・ラフに位置合わせをして、急場のセロテープ、

多少ずれたが、水分不足を改善してあげよう・・・瞬間接着剤を少し流して、空気が遮断できるか

先にするのだったが、周囲をトップジンM(切り口癒合促進剤)を塗って、生き物の自己修復にかけようと。

さて話、変わって、・・・ワールドベースボールクラッシックは、感動の連続でしたが、

JAXAのロケット再々打ち上げ延期の上に、2段目点火失敗、・・・かつては、技術立国でしたか?

三菱重工はジェット機の開発でも、受注先に納期延期の挙句・・・お手上げで投げ出しましたが、

何故このようなエンジニアの劣化が続くのでしょうか、一流・エリート意識が強く検査の手抜きが社風でした。

最近、作成の欄に筆者の名前が入った弊社名の製作図面(電気部品)が、一部の業界に流れ(特定されるので詳細は×)ていた。

超一流の依頼主から・・・突然、孫請けクラスの弊社に氏名を名乗り、問い合わせの電話が入り・・・質問された(元受けに聞け!)

仕様書を製造し易く図面化したら、依頼主が仕様書資料に勝手に採用して、今頃内容を質問するとは、相当前から納品しているぞ。

・・・業界トップクラスのPCメーカから、夏過ぎに1台製品を購入、新旧2台並べて使用中に、動作が不安定で指摘、以後半年改善せず

2月には返却修理、最近修理完了と戻ってきて、検証をメーカー技術から希望され・・・不良品とメールを返し、今後の修理はお断わり。

メーカー営業と交渉・・・これも進行中のため詳細は×、4月中旬到着のグラボUP製品を待つ事に、

これで夏以降4回目、CADやadobe他多くのアプリをインストール、この労力がストレスに。

有名パナソニックのドライヤーも、購入後1年未満でスイッチBOX内で切替え時スパークするようで接触板受けがボロボロ。

自己責任でベーク板を貼り、その後不良箇所が移り3回補修、最近はOFF接点が貼りつき、接点クリーナーを2回、そして磨いて

・・・スライドスイッチは専用デザイン、この有名品? リコールの話は? 毎日使う低価格品は買い替えたいが・・・SDGs?

気分を変えて・・・癒される、身近な桃源郷の話でした。

桃の花、こんな変わり種もありました

2色が色んな具合に・・・

この蕾と開花した八重の花びら・・・交互に並び可愛いですね。

・・早春の桃は、八重の花びらで色彩も濃く素敵ですが、・・・

桜の後期に咲く八重桜は、桜を見飽きた上に気温も上がり、暑苦しく感じてしまいかわいそうです。

駐車場は点在し広いのですが、人気があり10時過ぎ、混んでいました。

駐車場から広場に進むと左側に

遊歩道や小川のある公園です。

大きな桃の木もあります。

ここは茨城県古河市鴻巣399-1 古河公方公園(古河総合公園)です。

桃の木は10~15年が収穫時期、30年くらいが寿命とされ、若木の植樹が不可欠のようです。

昔、緑の日(4/29)に日比谷公園で岡山の桃を、苗木プレゼントで頂き、ベランダで鉢植え

したら2~3年目で2~3個、桃が成り鳥に突かれながら1個収穫した記憶がよみがえりました。

今は4/29は昭和の日に変わったようです。5/4が、みどりの日

このように記念植樹が盛んに行われていました。

この樹は基準木のプレートが付いています。

種類は矢口、この種類は桃林全体に広がり園内の南から北に開花していくようですが・・・

3/26 本日で全域ほぼ「矢口は咲き終わりになったようです」その他の種類や、桜が満開見ごろ。

この小道を池の方に進みます。

水鳥も多く

少し前は、椿、桃、木蓮の白、柳とキャンバスはカラフルでした。

桃のトンネル・・・桃源郷とは、こんな感じでしょうか

笑う門には・・・福来る、イライラ解消、腹式呼吸で。

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梅・桃・桜

2023-03-21 | 旅行記

春到来!

純白な白木蓮の大木、

・・・隣に待ちきれず早咲きの桜が、こちらを見てと・・・

ジョキング中だが気になる・・・脇道にそれて、スマホでカシャ 

あれから1週間以上、公園横のここは既に葉桜となって、樹が活き活きと輝いています。

3/19の飛鳥山公園は、3分咲くらいでしょうか。

一部の山桜が、薄ピンクの花びらを広げていました。

・・・関東では、桜の前に梅が咲き、桃が咲き・・・桜は山桜から八重桜まで比較的長い開花期間が続きます。

どこかに行こう・・・桃源郷を探します

・・・関東の北部で、3/18~4/2まで 桃まつり が開催されています。

ここは、梅の後に紹介しましょう。

少し時期が戻るが、2/11~3/19まで 関東の北部で有名な 梅まつり が開催されていました。

JRの 偕楽園臨時駅 の近く、偕楽園下駐車場に車を入れる。

駐車場の左から常盤神社の階段を登り、正面は神社、・・・左に折れると

チケット売り場があり、チケットを購入して・・・すぐ先に東門があります。

ホテルに寄ってきたので、すでに夕刻、PM8:00まで開園とあります。

丘陵地の平らな部分に遊歩道が整備されています。

梅林はここの右側に広がり、左側は手前に広場があります。

第127回 梅まつり は週末に終了ですから、大半の梅は咲き終わっているでしょう。

偕楽園では、約100品種で3000本、水戸駅の近くの弘道館が、約60種800本と紹介されています。

遅咲きの梅を見つけて、樹木の銘板を探します、大半の樹には表示されていました。

これは、銘板は、別カットから切り抜き、枝側の画像に合成です。

スモモ系の八重が、遅咲きのようで満開でした。

これは早咲きの品種、わずかに枝先に咲き残っていた部分と合成です。

こちらは、遅咲きですがほとんど花が見つからず、多少元気がないです。

白加賀は比較的多く栽培されていたような気がしました。

色んな名称が付いているので、じっくり観察したいのですが・・・それはシーズンに2~3度訪れる必要があるでしょう。

この樹は、月宮殿 とありました。

こちらは、紅浪速

そして、梅林に沿って進むと・・・野点会場が現れました。

この右側に、斉昭公(ナリアキ)が企画された建物「好文亭」がPM5:00まで有料公開中です。

3階の楽寿楼からの眺望がすばらしいようです。(戦災で焼失、1958年再建)

夕暮れで営業時間は既に過ぎていますが、有名な芝前門はライトアップされています。

ここを通って、先ほどの野点会場の横に出ましょう。

こちらは二季咲桜、秋から冬と春の年2回咲く桜、他に好文亭中庭、東門付近でも見られるそうです。

見晴広場の先に進むと、丘陵から崖になるようで、千波湖が眼下左に・・・右にテールランプの波が・・・

偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ「日本三名園」と言われます。

1842年水戸藩 第9代藩主 徳川斉昭が偕楽園を創設され、ここには陰と陽のイメージが感じられるとか

表門から好文亭までの遊歩道は、孟宗竹の竹林、大杉林、クマザサが茂る陰の世界だそうです。

陽は時間外で入場できませんでしたが、楽寿楼からの梅林や見晴広場そして千波湖の眺望など

肌寒い季節の梅まつりですが、徐々に日が延びて、元気を運んでくれてます。

PM6:00を過ぎました。サァ、食事の時間、帰ります。

・・・自宅の手作り温室栽培の胡蝶蘭、年末の12/18頃、1株だけが

花茎が伸びて、蕾を付け始まています。

支柱は少し前に1本立ててありますが、・・・オッ、この株は元気なようで茎が3本になりそうです。

・・・中央の1本の茎だけ残して大きな花に挑戦するか、3本で咲かせてみようか・・・

年が明けて、3/15の開花状況がこちらです。

温室から取り出す際に、最初の花を1輪折ってしまい、セロテープでしばらく補強した痕跡が残ったままです。

上部にも移動で傷ついた箇所が、花が枯れてきました・・・

3本の支柱を立てて、・・・クリップだけで花の向きを整えるのは難しい作業です。

調べてみると、プロは茎をねじって左右均等に蕾を揃え、テープ止めの作業をされているようです。

開花してからも、明け方の最低気温15℃以上が必要で、・・・管理ができないが・・・2月初旬に多くの人前に移動

・・・会社の玄関横で1ヵ月・・・先端の蕾は温・湿度の変化が大きく、これ以上花は開かないようですが元気です。

自宅の温室の他の鉢は、1鉢が花茎を伸ばし始めました。

電気代の大幅アップで・・・ヒーターの設定温度を下げたので、これから5月にかけて咲く株に期待です。

では、桃まつりの編集に・・・。

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太宰府天満宮

2023-03-03 | 旅行記

最初の太鼓橋を渡ります。

太鼓橋を上りながら・・・カメラだけ振り返るとこんな感じ、・・・右は心字池です。

そのまま橋の中央を少し過ぎたところです。

思ったより幅広で大きな橋です。

ではカメラを前方に戻します。・・・橋を下ると今度は右側に古い建造物・・・今王社があります。

そして前方は、平らな橋です。

その先の右側の青いシートは、これも古い江戸元禄時代の志賀社が修復中のようです。

立ち止まらないで・・・進みましょう。

未来の太鼓橋、つまづかないよう、緊張しないで・・・ぶつからないよう進みます

橋の中央から前方に・・・第五ノ鳥居が見えてきました。

そして、あれが最後の鳥居でしょう

石灯籠が立ち並ぶ中を、鳥居に向かって・・・

太宰府の天満宮は敷地が広いですね。

この右側の丘陵地、神社の敷地に2005年秋、九州国立博物館が開館しています。

右側に手水舎があります

手水舎は銅葺屋根です。

そういえば、ここまで鳥居は全て石組かコンクリートのようでした。

最後の鳥居は明治35年、一の鳥居は多分江戸元禄時代のようでしたが青銅の鳥居は見かけなかった。

戦時中に供出されたのでしょうか、湯島天神は現存しています。

正面、・・・立派な楼門です。

こちらの屋根は、伝統的な檜皮葺でしょう。

さあ内部に入りましょう。

本殿の右側に飛梅があるようです。

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」道真公を慕って、都から一夜にして飛んできたと伝えられる由縁の御神木です。

品種は「色玉垣」(極早の八重咲き)と天満宮HPより

天神様は、梅ですね

本殿の正面は、檜皮葺の上に唐破風(カラハフ)棟鬼飾り(ムネオニカザリ):ここは銅板です。

梅の紋章が・・・金箔に漆塗り仕上げでしょうか

檜皮葺は茅葺と違って耐久性がありますが、やはり60~70年で葺き替え、技能も継承されます。

御朱印帳は、通常は本殿左横に案内があるようですが、混雑時は左側から抜けて社務所に案内があります。

右から、本殿の裏側に回ると、直ぐにこのような光景が

これは赤ひょうたん? 案内板がありました。

厄晴れひょうたん と呼ばれるようです。

参拝を終えて、他に珍しいものは・・・楼門を抜けて手水舎の先にこのような動物が置かれています。

獅子にペンギンでしょうか。

横の説明を拡大表示します

ここに鷽替え神事のイベントが記載されています。

太宰府天満宮の今年の1/7の鷽替え神事はこのように、お知らせがありました。

"1月7日(日)18時より「鷽替え神事」が天神ひろばにて斎行されます。
「鷽替え神事」には、前の年に知らず知らずのうちについた全ての嘘を天神さまの誠心に取り替え、これまでの悪いことを嘘にして今年の吉に取り替えるという意味があります。

当日夕刻より、神事に用いる「木うそ」(初穂料1,000円)を授与いたしますので、神事に参加ご希望の方は、木うそ授与所にてお受けください。

 天神様のHPから借用させていただきます。

ところで、太宰府が発祥の地とありますが、他の天神様では、鷽替え神事?行われていました?

調べてみますと、亀戸天神は初天神(1/24-25)に多くの参拝者があり、鷽替えも人気のようです。

湯島天神も1/25に行われたようですが、知りませんでした。

他にも多くの天神様で行われているようです。

この天満宮には、境内や神苑に白梅と紅梅遭わせて6000本、200種類以上、2月上旬から3月中旬が見頃

心字池の横を通って進むと

紅梅が咲き始めていました。

この先は、屋台が出ています。

そして参道に戻り、隈研吾さんの木組み、2012年グッドデザイン賞

今日では、表参道など多くの所で木組みを見かけます。

戻ってきました。

ここで購入しましょう

縁起ものですから(お正月限定・木うそ入り)

これは、こちらの梅園さんオリジナルです。

来年、湯島天神で・・・鷽替えはしなくて大丈夫でしょう。

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太宰府 うそ!

2023-02-24 | 旅行記

うそ?、嘘じゃないそうです。

見たことありますか?  そんな鳥が・・・知りません?

鳥?・・・飛べ無さそう

その前に、最近(2017年)世界文化遺産に登録された神話・古事記に記述のある場所に寄ります。

遣隋使や遣唐使も大陸に向かう際に玄界灘のこれらの島々を目印に航海されたといいます。

福岡県宗像市(ムナカタ)田島2332 宗像大社(ムナカタタイシャ)

第一駐車場から、参道を進むと二ノ鳥居の先に太鼓橋が見えます。

参道の左側、心字池越しの太鼓橋です。

参道に戻って、左右に手水舎がありました。

左右同形で、端正な造りです。

続いてすぐ先に神門と呼ばれる門があり、

ここを抜けると

正面に、拝殿と奥に本殿があります。

左右を少し見上げると、歴史を感じられる奉納額が多数あります。

日本史も文学も不得手なので、多分和歌なのでしょう。

調べてみましょう。

宗像大社の資料では、名称は、「三十六歌仙図扁額 福岡藩第三代藩主 黒田光之奉納」

1680年(江戸時代初期・延宝8年)宗像大社辺津宮へ奉納した扁額一組(36面)

一枚板に黒漆塗の木枠、上部に色紙形に和歌、下方に金地背景に歌仙が描かれています。

この奉納額の書は、藤原基時、絵は狩野宗家の安信(永徳の孫)、良く残っていました。・・・57.7×36.9㎝

現在の社殿は、1557年に焼失したのち、本殿が1578年、拝殿が1590年に再建されています、国の重要文化財です。

さて、宗像大社がチョット複雑なのは、宗像三女神が降臨したのが 辺津宮・宗像田島に「市杵島姫神(イチキシマシメ)」で、こちらになります。

本宮の参道右側から

そして、日本から朝鮮半島や隋・唐の大陸に渡る航海の安全の神様として、玄界灘の先11kmの中津宮・筑前大島に「湍津姫神(タギツ)」が祀られてます。

さらに海上を進み、大島から49km先の沖津宮・沖ノ島に「田心姫神(タゴリ)」が祀られています。

天皇の祖先神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の命令により三女神は御子神(ミコカミ)であり、玄界灘に降臨して歴代天皇を助け奉りなさい・・・。

世界文化遺産では、三宮の祭祀が注目になり、特に沖ノ島は神秘の神宿る島として保存されています。

伊勢神宮の雰囲気が感じられる裏側に回ってみましょう。

この建築様式、神明造、基礎柱と屋根が特徴的です。

広角で二つの宮を取り込んでいます。右側の案内板を見てみましょう。

右側が、第二宮(テイニグウ)とあります。

ここは沖津宮の御分霊をお祀りしていますので、本土から60kmの沖ノ島を忍んで参拝です。

第二宮

鳥居があり、拝殿と本殿の構成です。

そして左隣が、第三宮、こちらは中津宮、本土から11kmの大島の分霊が祀られているとのこと。

宗像大社の位置関係、案内図があります。

案内図は、上がほぼ北、上の駐車場から南に進んできました。

第一駐車場から二ノ鳥居を抜けて、本殿から西側を回り、現在地です。

案内図の左下、高宮祭場は、古代の祭祀の姿が伝わる所で・・・社殿の無い祭場として神聖な場所とあります。

では、戻りましょう・・・駐車場の横に見える、こちらが一ノ鳥居になります。

鳥居の右横を県道69号、宗像玄海線が走っています。

北に3.5kmくらい進むと玄界灘、港があり大島は目の前、フェリーが出ています。

宗像大社から移動します。

九州自動車道、太宰府ICから約6km

ここから参道入り口近くの大駐車場までが・・・多少渋滞しました。

右上の駐車場から東に参道を直進、間もなく右手に駅が・・・合成したパノラマで

片側1車線の道路が交差しているので、十字路に信号があり、駅は、信号を渡った右側

西鉄の太宰府駅です。駐車場からは200mくらいでしょう。

参道を進みます・・・右側に青緑色の文字で梅園の店が見えてきました。

店員さんの説明を聞いて、・・・帰りに購入しますと・・・まずは天神様へ

十字路を渡ると一つ目の鳥居があり、ここを抜けて、参道がさらに込み合ってきました。

太宰府名物 梅ヶ枝餅を売る店から声がかかります。

100mくらい進むとニノ鳥居、さらに100mくらい先の右側に太宰府天満宮案内所があります。

鳥居の手前右側、ここで天満宮と門前町の案内図を頂きましょう。

三ノ鳥居を抜けて、右角に鎮座していました、何カ所かに置かれているとのことです。

天神様といえば牛

多くは、撫で牛として、巣鴨地蔵のように悪い所を撫でていかれる方が多くみられます。

菅原道真公は、903年2月25日(梅の香る時期)丑の日に太宰府の南館で亡くなられた。

「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との御遺言で、御遺骸を牛車にひかせていましたが途中でストップ。

間もなく牛車を引いていた牛が伏して、動かなくなった。

この地を聖地とし、御遺骸を葬った、(神話の話ではなく実在の方でしたから、道真公は無実で左遷させられ・・・昌泰(ショウタイ)の変)

2年後墓所と神殿を創建、さらに919年に御社殿を建立された。

 この後、道真公を太宰府に追いやった人々に不幸が次々と、さらに長雨、洪水、干ばつ、伝染病・・・これらの元凶は

魑魅魍魎・陰陽師が貴族社会では全盛の時代です、禍は道真公の怨霊と恐れられます。

・・・942年、平安京内の右近馬場の地に天満宮を創建することになります。

(北野天満宮)

学問の家柄である菅原一族が、北野天満宮を管理することになり、やがて学問の神様、菅原道真公を庶民は信仰へ

(北野天満宮、石の臥牛)

天神様信仰の聖地、太宰府天満宮は年間○○人の参拝者、さて天満宮様の案内には何名とあるでしょう。

年間650万余の参拝者とあります。

では参道を90度左に曲がって、境内を進みましょう。

境内にある最初の鳥居です。

その向こうに太鼓橋が見えます。

太鼓橋、平らな橋、さらに太鼓橋と続きますが、ここを渡る際にボーッとしてないで次のことを守りましょう。

最初の太鼓橋は、過ぎ去った過去のこと:振り返らないで進みましょう!

平らな橋は現在です:立ち止まらないで進むのです!

その先の太鼓橋は未来です:つまづかないで、進みましょう!

できたかな・・・一寸 休憩です

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関門海峡

2023-02-12 | 旅行記

小春日和・・・?イエ、曇天の1月、平和な日本で・・・街中の通りすがりの後景です。

近くの港から・・・牽引されていきます、地対空ミサイル(誘導弾)でしょうか。

武器の輸出は禁止ですので、ウクライナには行かないでしょうが。

ここは、門司港 門司港出征の碑の近く、海事広報展示館2階に各種資料が展示してあります。

関門航路および関門港 撮影日は2010年11月24日 主要な船舶に国際信号旗が掲示されています。

左上、青枠内に赤の四角は、医療の援助が欲しいの意志表示(W旗)、白と青のKは(A旗)潜水夫を降ろし、微速。

右端の上が赤、下が青の二色旗(E旗)は進路を右に変えている。

文字旗がA~Zの26種類で、他に数字が10種類など。

全体が俯瞰できるように目の前の高層マンション・タワーに向かいます。

門司港レトロ展望室、入場料¥300-

1階の展望エレベータに向かう途中、右側の壁に接して・・・只今放送中の表示が

ローカル番組、TVカメラが・・・三脚の上にあるのは、マイクは4本、落ち着いた会話が続いていました。

黒川紀章氏の設計、最上階31階です。地上103m。

関門橋が見えます。こちらは北側

関門海峡の一番狭い部分、下関の壇ノ浦とこちらの門司を結ぶ橋で、1,973年開通、橋長1,068m。

大型船も橋の下を通るので桁下から海面まで、61m。2011年から大規模補修が完了しています。

説明が描かれています。

関門トンネル・人道・・・1958年完成した約780mの人と自転車(押して通行)のトンネル。

人は無料、自転車・原付20円(但し、通行可能な時間があります。6:00~22:00の間です)

少し西に移動します。

対岸の下関側に、タワーが見えます。

海峡ゆめタワーです。

窓下では、はね橋が人気のようです。

その先、もう少し左を見ると

線路が沢山、ターミナル、JRの門司港駅です。

JRの現役の駅:門司港駅です。

パンフレットから確認してみましょう。

1914年、開業当時は門司駅として、1942年に門司港駅と改称されます。

1988年には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されます。

2019年、6年間の復元工事が終了して、大正時代の姿に復元されました。

石積みかと思ったら、木造2階建て、・・・内部は確かに木造です。

このレジスターのような機械は?・・・券売機でしょう、路線図に運賃表や時刻表、博物館と勘違いしました。

九州鉄道の起点「0哩(ゼロマイル)標」があります。

満州からの引揚者が佐世保港、舞鶴港、門司港に・・・復員兵がやっとホットされた門司港は、約100m先

駅から桟橋まで「関門連絡船通路跡」が残されています。

近くには、他にも洋館が・・・目立つ塔が乗っているレトロな館は「旧大阪商船・門司支店」1917年竣工

重厚ながら温かみのある建築です。無機質なガラスと違い、暖色のある壁面は良いですね。

さて、31階の展望室には有名な島の案内がありました。

1612年決闘当時は、白い砂浜が続く舟島と呼ばれた小島だったと書かれています。

現在は埋め立てが続き、当時の10倍の面積(10万㎡)島の周囲1.6km、人工海浜があるようです。

近くの桟橋から5分の距離、ゴールデンウェークにはイベントがあるようです。

さて展望室を降り、目の前の洋館

旧門司税関に入ってみましょう。

明治45年、レンガ造りの瓦葺平屋構造・・・エッ? 昭和2年まで税関庁舎として使用されていた。

2階建てと違うの?

天井が高い、屋根は平では無く、瓦が乗る勾配があるようです。

昭和20年の門司大空襲で屋根が焼け落ちています。

平成5~6年復元改修工事で当時の姿に・・・明治のレンガは現在よりも一回り大きく、特注で対応。

独立した木造2階建てを建設し、レンガの壁から6㎝離して据え付けられています。

不思議な感覚になりますが、地震の揺れが直接レンガ壁に伝わらないよう工夫されていました。

1階で休憩できます。密輸の手口を掲示してあるコーナや古文書なども公開されていました。

夕暮れ・・・関門橋で山口県下関市に渡ります。

狭いようで・・・海峡は思ったより広かった。

下関といえば、福、フク

握り寿司・・・イヤ、色々と 

ふく刺し、ふくちり、唐揚げ、などなど、おまけはフク煎餅

門司に帰って、駅前に散歩に行けば、新幹線とモノレールが上空を走るので、大都会にビックリ。

賑やかな、駅周辺でした。

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新鮮・身が厚いアオリイカ

2023-02-02 | 旅行記

海に面した小山の上に、灯台のように周囲から見上げられる天守閣、

この城が唐津城、AM9:00から入場できます。

階段を登る以外に奥に進んでエレベータで庭園まで行けるようですが、もちろん階段コースを進みます。

石垣はそれなりに、立派な石垣ですが

これは、この先の半島・鎮西(チンゼイ)地区に築城され、9年後廃城となった所から運んで再利用した物が多いとか

城郭に特有の角を曲がって、また角、周囲を少し回りながら登ると、藤棚が見えてきました。

立派な藤棚の下を抜けると、広場に出ました。

天守閣が見えます。

ここから右の石段を登り

城内に入り、門の先に最後の石段です

石段の正面に庭園(一部工事中)があります。

先ほどの藤棚を過ぎるとここは桜の木々もあり、春の桜、初夏の藤と見ごろになります。

この石段を左に曲がり、到着した所が広い庭園となっていました。

天守閣から見える、ここの庭園は結構広い

エレベータの人が、多分この庭園の先、左の小屋あたりから歩いてこられたので結構離れています。

そして、今まで登ってきたコースの風景が

この先城内に入り、階段を上がった1階でチケットを購入のようで、ここまでは無料公開の公園です。

では、入りましょう。

入ってすぐ右側に5階建てで各フロアーの間取りが表示されています。

一応ここはB1でしょうか

入って右側にある階段を上がると

1階、券売機が見えます。その先が入口です。入口の先、左側に売店などもあります。

館内は、唐津城の歴史、城主の遍歴などをVTRで紹介するコーナーなどもあります。

豊臣秀吉の家臣、寺沢広高が関ヶ原の戦いで東軍方に付き勝利・・・12万3千石の外様大名としてこの地へ。

1602年から築城、1608年完成、徳川の監視が強く増築は許可が必要、

1637年島原・天草の乱の責任を取らされて、天草領4万石を没収され、二代目 寺沢堅高はその後、1647年自殺。

嗣子が無く寺沢家は断絶。

唐津城、その後は譜代大名5家が入れ替わり・・・明治維新まで小笠原氏の居城。

天守からの眺望です。

西側の尾根に大きな風車が並び、風力発電しているようですが、台風が怖いですね。

この尾根の向こうの尾根・・・の岬にこの後向かいます。

天守の内側に東西南北、このような眺望ですと写真が掲示されています。

東が虹の松原、宿泊したホテル、橋を渡り(左が玄界灘)・・・この写真、桜がきれいです。

そして北側も、庭園の桜が見事満開の写真です。

これから行く西側の眺望は、半島が見えます。

風車は遠くで、よく見えないです。

最後に、唐津市街のある南側です

さて、この城は天守台まで建築されましたが、天守は1627年の幕府の記録には残されていないそうです。

廃藩置県後、1871年廃城となり建造物は解体され、この地は舞鶴公園となります。

1966年高度成長期、観光施設として5層5階の唐津城を建てようということになり、

当時はこんな天守が一般的として天守も築かれます。門や櫓も再建されました。

その後この地から発掘調査などにより、名護屋城の瓦が出土したり、他に復元もあり話題の城となってきました。

名護屋城とは、秀吉が朝鮮出兵のために佐賀県の北端に築城した出兵拠点の城です。

1591年着工、突貫工事で半年後1592年完成、7年間侵攻の拠点になり秀吉の死後・廃城となりました。

江戸時代に、名護屋城の建材は、この地の唐津城に多くが利用されました。

・・・唐津城を後にして、10数キロ北上します。

途中から屋形石方向に右折し、細い道を30分くらいで到着。

広い駐車所です。

地図で、玄海国立公園 七ツ釜 マァそれなりに岬の先端に行くには・・・歩くことになります。

沖の東を見ている女神像があります。

乙姫大明神とありました。

その先の黒瀬鼻岬の遊歩道を進むと、・・・左が入江です、波の音が聞こえ

もうすぐ見晴らしの良い所にでそうです。

この下が侵食された洞窟になっているのでしょうか。

七ツ釜の上方の遊歩道を通過して、海岸線に出てきました。このような風景です。

向こうのせり出した岩場、手前の像の足先のような平らな部分に柵が見えます。

向こうが七ツ釜の展望台でしょう。

こちら側は柵もなく、十分気を付けて乗り出しましょう。

では戻って、向こう側に進む遊歩道を進むと、展望台に降りてきました。

七ツ釜を周遊する観光コース船のようです。

先ほどの岩場は、向こうの断崖の上でしたか?

ここから洞窟が5つ見えますが、観光船は洞窟の中までは入れないようです。

手前側に残り二つ洞窟があるのでしょうか。

穏やかな波、天候もマァマァ、観光には幸い恵まれました・・・遊歩道を戻りましょう。

この西隣に呼子(ヨブコ)町があります。佐賀県唐津市呼子町。

良港があり古くは捕鯨の基地、今日ではイカの活造りで有名です。

途中の名護屋大橋からの複雑な湾内が望める車窓です。

正面に見える尾根のあたりが、朝鮮出兵時の真田陣跡でしょうか。

まもなく、桃山天下市という道の駅に到着。

この裏側にある大きな駐車場へ、昼食タイム

いか という看板がありました。

イカ料理コース、今日のイカはアオリイカとのこと。

呼子町、・・・全国的に有名になったのが「イカの活造り」が誕生した町だそうです。

コウイカ、アオリイカ、ヤリイカ様々なイカが獲れるようです。

鮮度が良いので、身が厚いのに透き通っています。

皮膚の色が変わります。・・・Goproで撮影した動画の方が分りやすいですが、静止画で

旅行の動画編集は、個人情報が多く、公開には修正・編集が多々必要で、別の機会に

アオリイカは、コリコリの食感と甘みが口いっぱいに広がります。

こちらは、イカシュウマイ・・・これを2個頂くと、これだけでおなかが一杯、十分満腹。

活造りの刺身を頂いている感に、下側のイカを天ぷらにしますと引き取られて調理場へ・・・

下足を含むこのような感じに、・・・身が厚いので、熱々を頂くと・・・満腹

他にも色々・・・、呼子のイカ料理は人気があり、リピータが多いと言うことに納得。

食後、散策に

この交差点を左(北側)に、

この一帯は、名護屋城博物館の資料を使用させて頂きます。

右下から、歩道を歩いて、・・・目指すは名護屋城跡地です。

すぐにこのような標識が見えてきます。

右の土手上に駐車場がありました。

右側に城郭の一角が見えます。

420年以上経過していますから、木々も・・・鬱蒼としていない・・・手入れがされています。

大手口前井戸の案内板があり、その横に

井戸の後、案内図では、右下の駐車場の左上方です。

唐津城の築城時、この地は領内の廃城ですし、勝手知ったる城ですから、使えるものは搬出したのでした。

現在は、整地されてこのような状態です。

博物館の資料を拝借して、名護屋城のイメージと説明を

黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員して、突貫工事で約半年で完成

ルイス・フロイスは「あらゆる人手を欠いた荒地」と記しているようですが、全国から大名が集結します。

周囲は118カ所の陣屋、最大30万人の軍勢が集結して、城下町も人口10万人に膨れ上がります。

現在は、118カ所の陣屋の内、65カ所の遺構が残され、23カ所は国の特別史跡となっています。

黒澤明 昭和60年の映画「乱」のロケ地ともなっていたそうです。

・・・太閤記、大河ドラマ・・・藤吉郎の出世物語は人気がありますが、日本全国を統一して、・・・

晩年の朝鮮出兵、隣国に何故侵攻したのか?・・・遅れてきた侍に、働き場を探していた?

イャ 多分、権力者に昇り詰めてから目標を失い、イエズス会の情報通によれば、最大の権力者はスペイン国王。

新大陸から銀を搾取して富が流れ込むスペインは、1580年にポルトガルを併合し、領土は「太陽の沈まぬ国」となっています。

秀吉は人たらしで情報通、・・・イエズス会の真の目的は、布教を足掛かりに、他国を植民地化する企てを・・・耳にしていました。

マニラのスペイン総督は、数百人の兵隊でこの国を制圧できるとは思っていないだろう。

気がかりは、数万人と思えるほど増えあがる信者、キリシタン大名と部下が集団で行動するのが目立ってきた。

秀吉は、一向宗に劣らず熱心な信者は、敵対されると日本国の危機と1587年「伴天連追放令」を発令。

スペインはアカプルコ(メキシコ)とマニラ間に大型帆船で航路を開拓して、アジアに触手を伸ばしてきます。

フィリピンを植民地化したスペインに、秀吉は最大の外敵はスペインと判断し、マニラから挨拶に来いと恫喝し降伏勧告状を送り、

降伏せねば必ず征伐する、後悔するなと脅しています。

二度.三度と使者をやり取りし、こうするぞと反対を押し切り朝鮮に侵攻しました。

富を求めて、武力で侵略する時代に、秀吉も参加しましたが、秀吉が無くなると、スペインとは友好的に貿易を。

マニラは3000人もの日本人町が、しかし家康が亡くなると鎖国に進んでいきます。

フロイスの資料が発見される度に、若きカトリックの信者が異国の布教に人生をかける純粋さ、

その陰で武力で他国の文明を破壊しながら富を求めて植民地の拡大に邁進した教団と国家がありました。

宗教の力、マインドコントロール下の信者は強大な力です。

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どこか・・・遠くへ

2023-01-27 | 旅行記

2023年元旦早々、例年通り近くの神社で30分ほど並び初詣。

さて、再々変異コロナの拡大が話題になる中、リフレシュが必要と日常から離れ、どこか遠くへ

羽田空港で朝食をとり・・・気が付けば、保安検査場間もなく締め切り ・・・行列が長くなっていた。

無事通過して、搭乗ゲートに急ぐ、・・・すぐに搭乗が始まった・・・。

約2時間後、向かい風のアナウンスがあったが多少の遅れで到着。

北陸・東北・北海道は大寒波の注意報が発令されていた。

気象情報にハラハラしていたが、曇天の佐賀空港に降り立ち、ほっと一安心。

河川敷の空港から東へ、30~40分、昼食前に佐賀県の東隣、福岡県柳川市で名物料理

有明湾に近いこの一帯は、湿地が多く掘割の水路が発達したそうです。

水路といっても、水位が下がって最近はやりの座礁の危険があるようで、腰までも無いところが・・・

先客は、イエー!元気な小学生の生徒でした、 とにかく明るく元気だ

こちらには、操船業者さんが7社もあります。うち3社はコースが限定されるようですが

乗船したのは城門観光、・・・小舟に乗船すると竿を操って動き始めました

この橋の下を通過する・・・ここが一番のおすすめポイントと言われ、立ち上がっての撮影を勧められた。

右側が柳川藩主 立花邸の庭園

さて、キャリア15年の船頭さんが注目されたのが・・・紅白に塗った舟で、この場所を優勝パレードの川下り

・・・マスコミに注目されたその時の船頭は、私でしたとの説明。

2016年初場所(1月)地元出身の琴奨菊が悲願の優勝をしました・・・舟での優勝パレードだったそうです。

一部の船頭が得意技としているのが、・・・桁下の低い橋が前方に有り、その手前で橋を飛び越えますとのこと。

棒高跳びスタイル?と質問したが・・・無言で橋桁の窪みに足を掛け、ヨイショと竿を持って橋の上に上った。

エンジンのない小舟は惰性でユックリ橋の下から抜け出すと、船の後部右横に上から竿が降りてきた。

橋の淵にしゃがんだ船頭さんが、ドスンと竿をガイドに船尾の平らな板の上に飛び降りた。

若干振動があったが、乗船客は大丈夫。橋の上に登って反対側からまた舟に飛び降りる

橋の上に竿を刺して飛び越えるのは、期待しすぎで・・・マァ、良しとしましょう、船が揺れて投げ出されたら?

・・・問題ないさー・・・水深は0.5~1m 腰まであるかどうか・・・

こんな事もあったそうで、・・・消防団の団体が酒に酔って乗船、一人が途中で船頭に飛び掛かり一緒に水に落ちたそうです。

船頭は舟によじ登り、酔っ払いは水中で10分くらい過ごして頂いたそうです・・・酔いは醒めたでしょうね。

コースの分岐点が、掘割の修理工事中でした。

堀の周囲に街並みが並ぶコースは、工事中、2~3年で完成する予定のようです。

このような事情で一部のコースは、周遊不可。

ところで、貴重な観光コースですから、雨が降ろうが、水面に氷が張ろうが営業されるそうです。

雨には、お客にビニールカッパ、氷が張れば、砕氷船のように竿で舳先を押し出して氷を割り、進むのだそうです。

熊本地震で崩れたので、このように水を抜いて・・・復旧工事中でした。

川向こうの建物が若松屋 昼食を頂く処です。

柳川は毎年100万匹のうなぎが食べられるので有名、中でもこのような

「うなぎのせいろ蒸し」・・・焼きあがったうなぎを甘辛いタレを絡めたご飯の上にのせ

木型のせいろごと蒸しあげます。

お店は市内に20店以上、うなぎめしマップがあり、味があっさりか濃厚かバーグラフ付きで紹介しています。

若松屋は、ややアッサリとなっていました。

内側が木型で、左下を食べ進むと、ご飯の下に黒色のスダレ?底が見えます。

ご飯が熱々で、胃に結構負担があります、・・・これは残しそう、食べられないと他から半分以上、

ご飯が追加されて、無理して食べたら・・・胃薬を服用することになった。

食後の散歩に、柳川観光案内所へ

有明産の海苔は不作で今年は高いとのこと。

「さげもん」も有名なようで、専門店も近くにありましたが、内部は撮影禁止でした。

女の子の健やかな成長を願って飾られる手づくり品ですが、熱海など全国各地での伝承です。

またこの横には、北原白秋生誕の地がありました。

北原白秋の生家です。

では、北西に70km、唐津湾が眺望できる鏡山展望台へ移動します。

佐賀県の玄海国立公園、・・・目の前が海岸ですから標高284m弱でも、東京タワー第二展望台の眺望クラスです。

琵琶湖畔で安土城が建てられた安土山は標高190m、山麓からは120mも無い、しかし毎日登城するには大変ですが。

こちらは、山頂まで道路が続いています。

唐津湾です。

そして山頂近くに、鏡山神社があります。その横、道路を挟んだ右側が駐車場。

鏡山と神社の伝説の説明です。

松浦佐用姫伝説もあります。

駐車場から展望台までは、500mくらいでしょうか、

下の案内図は、方位・北が下側です。唐津湾は北ですので、案内図では下に進みます。

展望台の手前に、この銅像・松浦佐用姫が迎えてくれます。

その先が立派な展望台です。手前が北、唐津湾です。

上部のテラスからの眺望は

先ほど見上げたデッキ部分が張り出していて、その先が唐津湾のパノラマ画像です。

正面の波打ち際に防風林の黒松林が幅広く続いています。別名 虹の松原。

黒松林の中を道路が走っています、歩道は狭く、ジョキングはできそうにない。(車窓より)

左側(西)は、松浦川が流れていて、河口に舞鶴橋が架かり、その先、右側に小山、ここに唐津城があります。

夕日に照らされる唐津城をズームイン

有料で公開しています。

虹の松原の向こうの海岸線に遊歩道あるいはサイクリング道路などを探したが・・・無さそうでした。

松原の東には、トンボ山(十坊山)標高535mが見えます。

若干雲がたなびいて、奇麗な夕日は期待できないようです。

川の上流、日が沈む尾根の向こうは、地図によると伊万里、・・・右の半島の先には七ツ釜?

明日のお楽しみ。

ホテルに到着後、軽装に着替え

松浦川に架かる松浦橋を渡って、行き先を考えようとホテルを出たが

風が強い、胃の消化を助けるために20分は・・・橋を渡ると左にホテルがあるが他は民家、商店は・・・無い

右は唐津市方面、1km以上先のようで、少し走ってUターン・・・日が落ちてきた

帰って風呂に行くのが最善の選択と思い直し

唐津城は青い光のライトアップが始まったようだ。

橋の右側に見えるホテルに戻ろう。・・・・・

夕食、佐賀牛は適量で、料理は全て頂き早めの就寝。

朝、上層階の朝食会場からの唐津城は、若干朝日が当たって

江戸時代の初期に築城された唐津城、城下町の雰囲気は無いようです。

東の虹の松原を見てみると

松原横の砂浜に波打った道が見えた、工事用の道路でしょうか

朝食後、唐津城にこれから登城しますと・・・

奇麗なお城です。朝日に照らされピンク色のお城でした。

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久し振りで近況を

2022-11-30 | 日記

月曜日の昼休み、4.2kmジョキング、昨日はスロースクワットを120回、今日も4.2km走ってから食事。

この時期は、軽く走るには最適の季節です。

・・・夏は2~3kmでペースダウン、残りは早歩きが続いたが、1kmを7分弱で疲れなくなったようです。

1週間前の週末、暖かくてベランダのハイビスカスも、小菊も咲き誇っています。

ハイビスカスは、室内に取り込めば咲き続けますが、2鉢もありベランダでビニールハウスの予定。

蕾がふくらんできたのが、デンマークカクタス、これも差し穂で増え、数鉢を取り込まなければ

胡蝶蘭が8鉢あるので、室内の温室へ・・・この鉢は年内に開花するでしょう。

これらの植物、10~11月の気温が下がる時期に、君子欄は5~10℃に60日間置く

などと、開花させるには季節の変化をしっかり体感させる必要があるようです。

デンマークカクタスの下の段のプランターは、今年の新作、ニンニクを植えています。

プランター4鉢になってしましました。サニーレタスやサラダ春菊などもあります。

君子欄は室内かな、アマリリスは休眠させ、イチジクも寒さ除けが必要と週末は園芸の日々です。

・・・この2年、コロナ禍で行動が自粛傾向になり暗い世の中に、さらにプーチンの悪魔の野望で侵略戦争が勃発。

侵略はしないと宣言しながら、偽旗を立てるプーチンは監視と陰謀が得意なKGB仕込み、

しかし、そのロシア軍隊の内情が米英の情報機関により公開され、一部を知るだけでも驚愕の世界のようです。

プーチン政権の末路を、他国の独裁者が・・・明日は我が身に降りかかるかもと怯えだしたかも知れません。

ロシア国民は日本国民と同じようです、政治に関心を持たない。

そこで、日本の代議士は楽なものです、白紙の領収書、収入は簿外で処理、選挙と金を考えるだけで頭が一杯。

組織に金が舞い降りれば、リーダーが従え・・・皆に利益を分けてやる、残念ながら談合・農耕民族・村社会のままのようです。

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