気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

早春の南の島

2024-02-15 | 旅行記

島の東側につき出した長さ1.8km、高さ20mの隆起サンゴ礁の岬。

駐車場の横にある案内板によると、 2007年に国の名称として指定され、日本都市公園100景に選ばれた。

常に潮風が強く吹き付けるため、高木が育たず、亜熱帯地域の風衝地特有の植物群落地が形成されている。

・・・高木が育たず・・・なるほど、他でよく見かける防風林は黒松が多いが、これらは計画的に植栽されている。

ここ宮古では、山は無く、従って川もない、最高地点が113m、平坦で低い台地である。

防風林はあまり見かけないが、椿の植え込みなどは、風よけに利用されているようでした。

・・・岸壁に打ち寄せる波は、飛沫となって?・・・、この日、波は比較的穏やかだった。

下の画像で、堤防がある漁港は保良(ボラ)漁港。周囲の海面の色が渋い緑色に見えます。

港内から船の進路となる航路の海底を掘り下げたのでしょう、エメラルドグリーンの道が見えます。

進路の先は、幅広の深い航路に接続して、・・・紺色の太平洋と合流しています。

坂道を下った所に小さな保良(ボラ)漁港がありました。釣りのレジャーボートなどが見えます。

こちらは、広角レンズの動画から切り出した画像です。

漁港から・・・画面をもう少し右側に振ると

サンゴの海底から無数の岩山が露出しています。沖合からの波は・・・波頭が低く穏やかです。

太平洋に出る航路の向こう側(東シナ海側)に岩礁地帯が見えます。

灯台からの眺望が分りやすいので、灯台の情報を

手前に立て掛けてある、案内板の情報です。

灯台の高さ、地上から約25m、水面から灯火まで約43mとあります。

では、灯台の左横を通り、岬先端の柵まで進んでみます。

東シナ海を見ながら、・・・一番先端まで、

眼下の景色がこちら、海底が見えます。

サンゴ礁がベースの島、川が無く、濁流が流れ込まなくて、透き通る濾過されたような海水が見えます。

次に、左を振り向き・・・先端からの東シナ海側の眺望です。

波頭の向こう水平線に岩礁(パナリ)が見えます。

広角の画面で

ところで、注意が・・・柵の周囲、足元全てがサンゴです。

地面は波打っていて、凹凸が大きく、足を滑らすと直ぐ擦り傷に見舞われる危険があります。

踵の無いサンダル、ハイヒール、底の平らな革靴などの方は、歩き難いので注意して下さい。

・・・灯台に戻って、ここは展望台まで97段のラセン階段を登ります。

有料です・・・数年前は¥200-のようでしたが、今は¥300-です。

上から階段を降りてくる人々、時間はPM4:30、1階のチケット売り場で、係員・・・今終了しました。

ダメですか?  係員・・・チケットは、片付けましたので終了です。

・・・では、チケットは無くてもいいし、領収書もいらない、5分で降りてきますが、だめですか?

OK とのこと。 2人分、600円を窓口に置いて、ラセン階段を駆け上がる。

一気に登った先の眺望です。

右端が岬の先端で、画面は大半が東シナ海です。

広角の画像でもう少し左のリーフ(サンゴの岩礁地帯)まで視界に入れましょう

名称は、パナリ干瀬・・・東西2km、南北1km 楕円形のリーフ。(低潮線保全区域)

このリーフが、かつて本島と陸続きだった、島民もいたとする説があるようですが、調査中のようです。

岬の先端から右に視線を動かすと・・・太平洋が ぐるり と広がります。

もう少し右に振ると、

雲が広がり、・・・太陽が雲間に、その右側は雨雲が スコールか? 急激に天候が変わる

ここにも、通り雨がパラパラと・・・手摺が濡れた、・・・少し明るくなった

本島側が見えてきた・・・

遊歩道の中央 奥左に駐車場が、右下には漁港が見える

これで1周、展望台から慌ただしく地上に下りた。

宮古島は、雨は降っていないとのことでしたが、道路が濡れていたので通り雨があったのでしょう。

南の楽園、心配事は天候でしょう。

台風襲来や温暖化による潮位の変化、海水温の上昇・・・地球規模の気候変動には敏感になります。

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南の島から、やっと雪の羽田に

2024-02-11 | 旅行記

関東地方に大雪警報、高速道路は夏タイヤの走行禁止を発表、首都高も通行止めの計画。

ANA も JAL も2月4日の日曜日、翌5日のフライトの計画減便を 発表していた。

幸いこの減便には、当方予約をしていなかったが、減便になるとダイヤの混乱が予想された。

2月5日、朝から霧雨が降ったり止んだり、・・・朝食後、来間大橋を渡り、あれこれ観光後

帰りの準備、宮古空港でANA便の到着を待つ、

奥に見え利る赤レンガ屋根の宮古空港旅客ターミナルビル、秋に北方から飛来してくる渡り鳥

「さしば」が翼を広げて降り立つ姿とされます・・・1997年竣工

さしば?、渡り鳥、大型の鳥なのでしょう・・・調べてみましょう

 

日本自然保護協会(NACS-J)のオフィシャルサイトから、

絶滅危惧種の渡り鳥・サシバ(撮影:宮古野鳥の会 仲地邦博氏)「タカ目タカ科サシバ属」

栃木県市貝町など田んぼがあるところに3月ころ宮古島などから飛来して、サシバの繁殖地が関東にあるようです。

秋に南下して・・・宮古諸島が中継地、越冬はフィリッピンやすぐ隣の台湾などで過ごすようです。

 

 

ANA便、到着が遅れ機材の積み込みも遅れ、発着予定時刻が二度延期になったが、

宮古島飛行場を・・・ようやく飛び立った。

この先1週間は、宮古諸島天候が悪いらしい。

本島の東側、雨雲の下先端に岬が見えます。

左側が東シナ海(海域の北は韓国の西、済州島、日本の対馬、そして九州)このラインの北側が日本海。

海域西側の中国とは、尖閣諸島、東シナ海ガス田の利権で争いが続いている。

右が太平洋(フィリッピン海)

・・・台湾から南は、南シナ海の海域で、中国が埋立地を拡大して周辺国に紛争を持ち込んでいる。

雨雲の上に出た。

宮古空港からのANA1724便は、那覇まで飛んで、那覇で乗り換え羽田に向かう。

那覇での乗り換え時間がほとんどないでしょうが、当便を待たずに飛び立つことは無いでしょう。

関東地方の雪雲が気になるが、・・・騒いでもしょうがない

・・・成り行きで、運が良ければ無事羽田着になるでしょう。

雲海へ下降が始まった、那覇空港へは飛行時間35分くらい

着陸後のアナウンスで、駐機スポットが空かないので、暫くここで待機します・・・。

その後、ANA機が誘導路に出て行ったが・・・この場所を動かない

暫くして、次のANAが動き出した、・・・やっとスポットが空いたようで、移動するアナウンスが流れた。

乗り換え便のアナウンスがあった。

羽田行きの搭乗口が変更になり、約30分後と慌ただしいが、飛び立てれば何とかなるでしょう。

飛び立った機内で、羽田空港の天候次第で、行き先変更 名古屋や大阪に変わる可能性もありますと告げられた。

しかし、みぞれ模様の羽田に無事着陸でき、安心したのか、家路に急がずターミナル内で食事をしてしまった。

食事後、モノレールに乗った頃には冬の稲妻が轟き、大雪の中必死で帰宅することになりました。

・・・1月中旬、2月に失効するマイレージのメールをチェックしていて、どこかに行こうといつものパターンでした。

JALは、追加すると全てが1年有効期間が延びるのですが、ANAは古いものから失効するようです。

羽田第二ターミナル、モノレールを降りて、搭乗手続きへ

手荷物は、セルフサービスコーナが空いている。

機内預けのバッグを指定カ所において、搭乗券をスキャンさせる。

バッグに取り付けるラベルシールが印刷され、プリントアウトされてくる。

これをハンドルに貼り付けて、シャッターを降ろす。

・・・控のNoが記入されたシールを受け取り、機内預けは完了です。

12時出発、宮古島までANAの直行便、フライト時間は約3時間弱

空弁を購入して、機内に持ち込む。

保安検査場を通り

定刻通りの出発になりそう。

問題は、気温10度以下の東京から着ぶくれで乗り込んだ機内、

到着時は、気温25度以上の宮古島、

快晴の羽田を飛び立ち、一路・・・南へ

・・・到着時の荷物引き取り時に・・・ターミナル内で薄着になれば、大丈夫でしょう。

台北の東まで南下して、ここが宮古島

島の中央に滑走路、宮古空港です。

JALのジンベイジェット、美ら海水族館とのコラボ機が駐機していました。

まずは、東の先端 東平安名崎へ・・・20km強、20~30分

大きなサンゴ礁の環礁が見えます。

漁港があり駐車場も見える

航空写真で発見できるのは、漁港から外洋に船を出すのに航路を掘って深くしたのでしょう紺色の通路が見えます。

駐車場の近くから・・・平安名崎(ヘンナザキ)灯台です。

宮古ブルーと呼ばれる海の色

サンゴ礁の島、宮古島の離島をドライブしてみましょう。

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夏の日の思い出

2023-11-09 | 旅行記

夏から秋に移り変わる・・・コスモスが咲き終わり、紅葉が進む・・・ギラギラの太陽が懐かしい・・・寂しくなる季節。

・・・突然55歳の従弟の訃報に接し、長く難病に苦しんでいたとはいえ、彼は違うステージに旅立った。

母の妹の叔母は、特養で過ごしている、6月に続き面会に出かけたが、生きがいを見出すことは難しそう。

アルバムを作成し、朝は鏡を見て・化粧をし・笑顔の訓練をと文書でお願いしてきたが、物忘れが進まないように。

今年の夏、振り返れば・・・楽しいこともあるだろう

夕日が西の海に・・・、イヤイヤ、雲海からの日の出でも無く

AM7:30、ホテルで朝食バイキングを頂き・・・向かった先が

仙台駅から南南東に15km、名取市の有名な朝市です。

右が仙台空港、左が目的地、閖上(ユリアゲ)です。

広い駐車場に一杯の車、9月の上旬です。

朝の9時半前、もう日差しが熱い・・・。

早朝にサンマの特売でもあったのかな? この漁港は赤貝が日本一。

海鮮炉端焼きも常設店も盛況で、品切れの店もあるようです。

この時期、海流の流れが例年と大きく変わりサンマは近海に寄って来ず不漁だった。

左が太平洋、5500人が暮らしていた閖上地区で、2011年東日本大震災の津波で、750人もの犠牲者が出てしまったそうです。

震災から2年後、カナダ政府などの寄付で、同じ地に食事処、お土産などの販売もあるメイプル館としてオープンしています。

メイプル館の海側にウッドデッキが並び、その周囲にテントと長テーブル、冷凍品、冷蔵品、・・・

こちらが、これから始まる 閖上(ユリアゲ)競り市に掛けられる商品が並びます。

牛タン1kg¥4,980- 5袋、見てしまいました。

ブラブラしていると、カラン、カランと鐘が鳴り始めた。

この鐘を鳴らしている方が、競り市の親分のようです。

参加するには、番号札の書かれた団扇を取りにいかねば、目の前です。

続いて支払いは、品物と現金交換、但しお釣りはありません。

100円単位です、両替はこちらで済ましてと

鐘が鳴り続いています。

海側の階段に参加者が並び、開始を待ち構えています。

時間は10時、台風一過、暑くなりそう。

今日は△〇さん進行か? いえ・・・私はxxx、壇上で今回は誰が進行するのか・・・決まらない。

親分が出てきて、◇△くん、落札者の番号を記入する人、君が商品を紹介する人・・・指示している様子

そして、暑いのに親分が壇上に立ち、進行し始めました。

まずは、サンマ、袋に何匹入っていたか忘れましたが、相場より安いとはいえ、まだ高かった。

売値を発表すると

ハイ、ハーイ・・・勢いよく団扇が上がります。

親分が扇子の番号を呼べば、落札です。

左右見渡し、次々に番号が呼ばれ・・・用意された数量がさばけていきます。

品物が変わり、次々に売れていくが、必要数に達しない場合、値下げはありません。

残ったままで終了です。

5番目以内に牛タンが登場するでしょう、落札できるか不安なうちに・・・

次は、牛タン、用意されたのは5袋。1袋・1㎏ ¥4,980-が・・・

2,500円~2,800円だろうと思っていたら・・・何と@2、000-

勢いよく・・・ハイ・ハイ、隣でも・・・ハーイ!

・・・〇4番、66番、・・・こちらを向いて続けて呼ばれたが、最初の番号が聞き取れなかった。

次に、別の方向でも呼ばれたようで、アットいう間に牛タンは終了。

・・・今、34番も呼ばれた? 興奮していてどうだったか。

商品が半分以上販売されて、栄養ドリンク10本の番 ¥1200の半額で、まだ売れ残っている。

こちらに親分が歩いてくる、客の反応が悪いのでアジ演説調、・・・つい衝動的にハイ!

盛り上げよう・・・と番号札を上げてしまう。

隣で家族の者が、仙台みそ、笹かまぼこと、楽しくなったのか落札している。

食品から観葉植物まで、バライティに富んだ商品が紹介され、楽しい時間が過ぎていった。

30分以上は続いたでしょう・・・しかし、暑かった。

以上で終了の合図で、・・・落札者は番号札を示して、目当ての所に並び、代引き購入です。

玉ねぎ1袋¥800-が・・・@200-で落札していました。

どのくらいの量になる?・・・右の角で、現物と対面、引き換えです。

そうそう牛タン、34番と66番、共に大声で団扇を上げたら、家族で2袋を落札してしまいました。

これが、朝市の購入品です。

牛タン2袋と玉ねぎ以外に、仙台みそは、@300-、笹かまぼこは、@600-、梨は、@800-、ドリンクは、@600-

牛タンは、名取市に工場がある陣中かと思ったら、違いましたが、市内で販売している商品です。

楽しい朝市でした、毎週朝早くから、関係者の皆様お疲れさまでした。

また季節の物を求めて、競り市に参加します。

皆様のご活躍、そして地区のご発展、関係者の皆様の御健康をお祈り申し上げます。

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JAPAN MOBILITY SHOW 2023

2023-11-04 | アート・文化

久し振りの東京モーターショウ、大昔はこの時期を迎えると、狭山の人工スキー場がオープンでした。

・・・暑い、紅葉の便りが届き始めたが、・・・世の中、不確実な時代に突入しているようです。

移動の足は軽自動車で十分、趣味人はSUB、マニアは輸入車、良くわからないが金はある人はクラウン

三河商人トヨタの一人勝ちが続き、勝ち過ぎはマズイと気づき、MOBILITY SHOWに看板を変えて

出展企業は500社、来場者を100万人目指し、10/26~11/5まで開催、無関心は良くないので・・・

10/30(月)平日、有給扱いにして、AM9:30、数寄屋橋、晴海通りで待ち合わせ

10時前、東京ビックサイト東ホール、裏側の一般駐車場に入り、・・・奥の奥に駐車。

駐車場から東ホールに東ゲートから入場できるのだが、結構な行列ができていた。

この行列から外れ、東ホールの正面陸橋側へ・・・こちらは入場できず、西館へ進む。

平日だというのに電車で来る人の行列ができていた、

荷物検査を受け、チケットをスキャンされ、南館に向かう。

結構離れているので、動く歩道を利用

ブースの紹介は割愛、南館の2階、子供や学生に人気のゾーン

1階に降りると、何かのストーリが流れていた・・・最後のシーンのようで、間もなく終了。

次の上演を待たないで、順路を進む

こちらは、中国で実用化された機種に似ているようですが・・・Air X 日本の会社ですか

大阪万博の飛行を目指して、自律型無人航空機 EVで航続距離30kmとか

こちらは、ドローンを利用したエンタテインメント

半球(凹状)スクリーンにドローンからの画像を投影して、椅子を振動させVRゴーグルの疑似体験?

ドローンレーサの社長が隣でゴーグルを装着して、ジョイステックでドローンを操作しています。

椅子に着席して、半球状の画像がこちら

・・・VRゴーグルを使用したほうが、視点が動くと画像が連動するので、脳は錯覚しやすい。

このような装置は、周囲から見るとインパクトはあるように見えるが、発展途上のようです。

JAPIA(日本自動車部品工業会)のゾーンへ

こちらは、VRシアター 定員制、予約で乗車券必要なようです。

EVに移行すると、車両に関係する構成部品数が大幅に減少するので、部品メーカは再編合併、廃業と大変な時代。

日立アステモ も合併して企業規模を拡大、企業文化がなじむまで時間がかかるでしょう。

11:30、少し早いが昼食タイム。

西展示棟4F屋上で、フードコート、ベンツの車両が厨房、全国からの15店舗が営業していました。

肉山特製カレーライスと王府丼の焼き小籠包で・・・エナジー チャージ終了。

では、渡り廊下を通って、東館1Fへ

ダイハツ 小型スポーツカーのコペン そのEVコンセプトカーでしょうか

主催者からコンセプトカーの依頼があり、現実味の無いデザインショーを見せられるブースも多かった。

こちらは、TOYOTA SUV 「FT-Se」

面や線を極力シンプルにした外観デザインのようですがフロントが無地の掲示板のようで斬新?

・・・個人的には、マークⅡからハリヤー4WDまで長くトヨタを乗ってきたが

トヨタは、2012年にコンセプト・デザインとして、Keen Look を採用したそうです。

とにかく目立つデザインを、冒険を恐れずと役員から叱咤激励

結果:フロントデザインは、口を開けたような・・・ダース・ベーダ、ナマズ口があったり・・・気持ち悪い。

グロテスク、ダサイ、嫌い・・・心地好いデザインの真逆である、バッドデザインを流し続けて10年。

このスポーツタイプも、フロント両サイドのほうれい線、・・・違和感しかないが、踏ん張っているイメージだそうで。

個人の感想:優雅さとは真逆、派手で目立てば売れる、自信満々の売れっ子デザイナー作のようです。

MAZDAのブースでは、違う感性の人々が集まっていました。

こちらもコンセプトカー、

・・・ジョルジェット・ジアジアーロのデザインした日本車、人気でした。

そしてこちらは、ロードスター

NISSANのブースでも

凄いですね、ドケドケ・・・威嚇をしながら、水陸両用タイプでしょうか(失礼)

中国のBYD、デザインが落ち着いていますね。

メルセデス、BMWなどは実車の展示で好感が持てました。

さて、東館最後、駐車場側です。

右に高級車レクサス、左はHONDA

手を上げて団体さんが、・・・予約の人が移動して、黒い飛行機(新型)に乗る人々とのこと。

予約以外の方は、機体の奥に並んでいる・・・待機列の案内でした。

こちらはHONDAジェットの模型

PRELUDE Conceptが、この展示会直前に公開された。

こちらは、折り畳み式電動バイク「モトコンパクト」

2023/11から北米で販売開始、$995. フル充電で約19㎞の航続距離、速度は24km/h、W=18.7km。

日本への導入は、仕様変更しないと(特定小型原付)難しいようです。

更に、このような展示も、「サステナC コンセプト」の横に、電動バイクが・・・。

かつてヒットした ホンダ「シティ」 と 「モトコンポ」の再現か?

折り畳み式の電動バイク「ポケットコンパクト」は・・・市販化の予定は無いそうです。

それから、話題になっていたのが、GMとクルーズとの 無人タクシー6人乗りです。

サイド スライドドア が、オープンした状態です。

自動運転レベル4の「クルーズ・オリジン」無人タクシーは、2026年に都内で運行予定のようです。

隣のブースは1台の車のために、行列が続いていました。

SONYがコンセプトカーを以前発表していました。

車の完成車を作りたいのかと思っていたら、HONDAと半々で会社を立ち上げて、

AV・ゲームのSONY +アルファは、・・・独自の機能を盛り込んで、

詳細発表はいつ頃になるでしょうか。

隣でレーシングカーの展示がありました。

SUPER GTシリーズ GT500クラス

ロングノーズのこちらは、2023年版 F-1 仕様

2023年 F-1 日本グランプリの展示車両 RB19、エンジン名はHonda RBPT/F1

F-1、レッドブル・ホンダのショーカーです。

サーキットからのエンジン音が聞こえてきました。

裏の駐車場を臨時サーキットにして、Honda FIT e-HEV と N-One のスラローム走行が行われていました。

日が落ちる前に、帰路へと、

¥1,000のガイドブックは、コンセプトカー中心の構成でしょうから必要性は無く、

今回のモビリティショーは、・・・リアリティの無い展示会は、チケット購入してまでの魅力は無かったようです。

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龍泉洞・岩泉町の鍾乳洞

2023-10-14 | 旅行記

・・・ドラゴンブルーの奇跡の地底湖・・・

龍泉洞のキャッチコピーですが、大雨の影響でドラゴンブルーは期待薄のようです。

ここは標高200m弱、西と北西の尾根から流れ出た3本の川が合流した清水川を渡り、洞穴探検です。

駐車場には、2台ほど先客がありました。

龍泉洞橋を渡り、入洞料は右のレストハウスでしょうか。

すぐ分かりました・・・入洞券売場の看板が目立っています。

大人が¥1,100-、パンフレットを頂きます。

洞窟内は相当寒い、雫が落ちてきたり?・・・ウィンドブレーカーなど、羽織る物が必要でしょう。

パンフレットには、日本三大鍾乳洞の一つで、昭和13年に「岩泉湧窟(ワックツ)及び蝙蝠(コウモリ)」

として国の天然記念物に指定されてます。

今日も調査が続き、洞窟の全長は5km以上と推定されています。(確認済は4,088m以上)

静止画と動画からの切出し画像(動画の編集は別)で、予想外の洞窟を・・・。

左側から聞こえる音は?・・・洞窟内から流れ出てくる渓流のようです。

さて洞窟内は、ゴツゴツとした荒れた地面を進むと思ったら、レジャー施設のような板張りです。

つまずく危険もなく拍子抜けです。

探検気分は、ほとんど無く観光コースです。

親切に足元を照らすライト付きです。

ゴーゴーと水の流れる音が響く中、前方にアトラクションがあります。

「長命の淵」:水流は通路の下を流れて、右側で淵になっています。

この先、左に曲がると開けた空間があるようです。

洞窟内の説明映像が流れています。

ここはパンフレットによると「摩天楼」、外気温との差は、ここではまだ 数℃ です。

洞窟とコウモリの説明です。

通路の右下を、結構な量の水流が流れています。

ここからは「百閒廊下」断層に沿って直線的に・・・「龍が通った道」を進みます。

コウモリ穴でしょうか

コウモリは、気温が高くてか?見当たらない。

断層の隙間を進みます。

天井が所どころ開けているので、圧迫感は少ないです。

ゴゥゴゥと「玉響の滝」の音が響きます。

チョットした探検気分の洞穴に進みます。

「龍宮の門」

その先は、

左右に分岐している不思議な空間です。

ここで右に進めば、長命の泉から帰路に

正面には亀

「亀岩」があり、左に進みます。

洞窟の幅が広がって、不思議な空間・・・ヒョットしたら三途の川、

左壁面に「音無の滝」の掲示・・・静かです。

闇夜に・・・天国への道では無いでしょう、ここは印象に残る空間です。

「月宮殿」とあります。なるほど

振り返れば、宮殿に飾られた美術工芸品があります。

「洞窟のビーナス」

前に進みましょう

左側を進みますが、右側は上から階段を降りてきて・・・帰り道のようです。

ここで、洞窟内の案内図を(パンフレットから)

現在地は、中央部のハートスポット付近です。

順路は左です。

多少洞窟感が増してきましたが、手摺付きの階段です。

ここから本命の地底湖へ下っていきます。

続いて、立派な階段を降り、板の間通路が見えます。

しばらく平らな通路を進むと、第一地底湖に到着

通路の左側、多分LEDなどでライトアップされていたのでしょうが、現状はこのような感じ。

静止画像の露光を上げてみましょう。

暗ければドラゴンブルーもお目にかかれません。

湿気が多いのかレンズが曇り、一眼レフはピントが合わないので苦労する。

この第一地底湖は、昭和30年代に発見されたそうです。

Goproで

続いて、前方の洞窟を抜けて

少し進むと、第二地底湖

第二地底湖、手摺の先・・・右に進むと広い空間に出ます。

音声ガイドが聞こえてきます。

洞窟を抜けると、右側に大きな階段が見えてきました。

正面に電光掲示板。

左側は手摺が続いています。薄暗いが、手摺の下に第三地底湖があるようです。

この行き止まりの広場で、振り返って手摺の右側、・・・ここが第三地底湖、最大水深98mとあります。

多分、以前は地底湖の周囲をライトアップされていたのでしょう、

周囲の状況が薄暗くて良くわからないが、深そうな感じはしました。

では広場の右側の壁面、・・・探検の雰囲気が若干味わえる三原峠まで階段を登ることになります。

ハイヒールの方や、幼児連れの方にとっては、楽しみより危険ですので、参考にしてください。

階段はライトアップされています。

最初の階段は幅が広いようですが、徐々に狭くなります。

7本くらい階段を登ると、踊り場の先に片側通行時の出口とパンフにはありますが、見つけられませんでした。

これが2本目だったでしょうか?

手摺をつかまって登れば、大丈夫でしょう。

このような作業場の横を通り

階段を右に曲がり・・・踊り場の手前で

前方に深い谷間があるような

手摺越しに除いてみると、薄暗いが、第三地底湖なのでしょうか

ここで立ち止まられても、危険なので・・・案内やライトアップはありません。

では、壁に向かって上ります。

時々前方を見ないと、・・・ここは左に曲がる際、頭上注意!

ホッとして、背伸びすると頭が当たります。

結構急な傾斜に

もう少しでしょう

長い階段を登って、・・・ここが三原峠でしょう。

地底湖水面から、約35m、最高点に到着です。

ここから少しづつ下りになります。

頭上に注意しながら

多少下りながら、水平移動が続きます。

・・・ここからは、左側の急な階段 滑る 注意!

急な階段です。

ユックリ下りましょう

天井には、鍾乳石が・・・。

第一地底湖の上方でしょうか、ここから下りが続きます。

最後、月宮殿の広場に出ました・・・一気に長い階段を下ります。

分岐の所まで降りてきました。

右奥に見えるのは、入り口方向です。

階段の裏側に「守り獅子」

「長命の泉」の横を通り

工事中で仮設通路を通り

落石もあります。

狭くても床は板張り、手摺付き

この板張りはどのように施工されたのか、気になります。

板張りの上に、プラスチックの人工岩石を貼り込んだのでしょうか。

・・・やがて、視界が霞んで来た感じ

出口が近い、外気温が高くなってモヤが発生しているのでしょうか、

・・・大きな水流が聞こえ・・・明るい日差しが目前に

フェンスの右下を、毎秒1500ℓの湧水量が洞窟から流れでていました。

・・・観光用に整備された通路床の施工技術と、複雑に連結された階段の施工にアッパレ。

道路の反対側に龍泉新洞科学館があります。

約200mの鍾乳洞が公開され、さまざまな鍾乳石が見られます。

共通チケットで入れますので、鍾乳石についての学びはそちらで。

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台風から逃れて、岩手・三陸へ

2023-09-30 | 旅行記

東京では30度以上の真夏日が90日を記録したとか、・・・肌を刺す日差しが痛い、そんな日々が続いている。

9月上旬の週間予報で、真夏日が避けられそうな地域が東北北部と北海道だけだった。

そこで青森と岩手のドライブを計画したのだったが、台風が追いかけてくる結果となりそうで、

青森の宿泊はキャンセルして、岩手、岩泉の龍泉洞を目指し出発した。

そして、昼過ぎ・・・曇天の気仙沼に到着。

・・・昼食後、悪夢の津波大災害地に・・・高田松原津波復興記念公園

公園のパンフレットです。

大駐車場に車を止め、広大なエリアです。

令和3年に国営追悼・記念施設、道の駅 高田松原、東日本大震災津波伝承館などが全面供用となっています。

道の駅は正面の建屋の中、・・・この扉から入り、右側になります。

奥で営業している道の駅も、明るく洒落た店舗です。

やはりこの地は、のぼりや屋台など賑やかな雰囲気は相応しくなく、屋外に出ると厳粛な気分になります。

奇跡の一本松には、歩いて行けますが、・・・近くまで車で行きます。

グーグルの画像を拝借、(南が上です)

赤線の所で、一本松方向には進入禁止の規制がありました。

この石碑は

御承知の通り、このいっぽんの松も残念ながら間もなく枯れてしまい、人工の修復がなされています。

幹の外側はそのまま利用し、芯を補強しているそうです。

枝に何羽か鳥も見えます。

伝承することは大事なことですが、この付近にも賑やかさが戻って来て欲しい。

堤防に守られた通岡道路を北上し、通岡ICから三陸沿岸道路に入ります。

・・・釜石で降りてガソリンの補給、釜石湾に面して大観音(石應禅寺釜石大観音)高さ48.5mが見えます。

近くに釜石市立鉄の歴史館もありますが、通り過ぎて大槌ICから高速に入ります。

曇天が続いている・・・陸前高田から宮古までは、約100kmくらいです。

・・・本州最東端の宮古市に到着、浄土ヶ浜に立ち寄ります。

浄土ヶ浜 第二駐車場に駐車して、北側の木立の間に遊歩道があります。

しかし、かなり急坂、丸太で段差を補強しているので滑らないですが、一段一段 下ります。

間もなくなだらかになり、木立を抜けると周回道路に合流します・・・目前は太平洋です。

天候が悪いので、観光客は少ない雰囲気です。

海岸線に沿って右側に遊歩道があります。

岩肌が白い、上部に強風にも負けない赤松林でしょうか

パノラマの風景です。

この景観が・・・浄土ヶ浜・・・松の緑・海の青さのコントラストをモチーフにした

「浄土ヶ浜エターナルグリーン」が地域色となっているとあります。

この日は残念ながら曇天で、露光量が少なくスカッとした色彩が見られません。

では道路の方へ戻りましょう。

ここから道路に沿って海岸線を左に進みます。

さらに左に進むと

浄土ヶ浜海浜、・・・かもめは猛暑の影響はあるんでしょうか

ここが撮影ポイントでしょうか。

・・・極楽浄土のごとし・・・

宮古市のHPでは、・・・鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩ります。

松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。

浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681〜1683)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、

「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。

更に進むと、レストハウスのある広場に、道路から振り返るとこのような景観

・・・近くに案内板があります。

南から進んできて、中央上部に駐車して上部の道路に面した海岸線が現在地。

拡大しても解りにくいので、宮古市のHPから地図を拝借

通行止め期間は、4/1~10/31までとのことです。

「宮古うみねこ丸」でうみねこの餌やりを楽しみながら、このような風景を遊覧船で楽します。

さて、宿泊先まで45kmくらいあるので先を急ぎましょう。

予定時刻のPM6:00、宿泊先に到着

龍泉洞がある岩泉町です。

こちらのホテルからすぐ近くが鍾乳洞です。

日本三大鍾乳洞、ドラゴンブルーの奇跡の地底湖の宣伝文句ですが、雨続きで年中無休が・・・8月休業中。

最近やっと営業開始されたが、増水で濁りドラゴンブルーは、しばらく無理とか。

温泉に入って疲れを取り、痛風+高血圧対策で減量中に向く食事は、少量多品目でしょうか。

年に数回の天ぷらも、たまには頂きましょう。

ここは、朝食もこんな感じでした、龍泉洞に行かれる際のご参考まで。

 

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上諏訪、霧ヶ峰散歩

2023-09-21 | 旅行記

諏訪湖の東、湖のすぐ近くに上諏訪駅、ここは温泉地です。

早朝、東斜面を散策しましょう。

手長神社の裏斜面の高台に茶臼山と高島古城跡が・・・案内板がありました。

この高台の結構広い平地には、2階建ての市営住宅でしょうか、数棟 並んでいますが、空き家のようです。

高台の端の方には、地区の公民館があり、その一角に

金毘羅神社がありました。

鳥居の先に、御柱に囲まれて、御神体が・・・。

鳥居の先は、諏訪湖が見えます。

上諏訪町立石地区でしょうか、斜面を散策していると所々で出会います。

こちらの御神体も、4本の御柱に囲まれ、更に大木も御神体なのでしょうか。

このような状態は、

お引越し、御神体がどこかに遷座されたのでしょうか

早朝の諏訪湖、モノラルでのパノラマです。

ホテルで朝食後、立石公園から霧ヶ峰へドライブです。

眺望は、ここも諏訪湖です。

この先、12~3km、20分くらいでしょうか。

霧ヶ峰ビーナスライン 駐車場

真夏は、霧ヶ峰高原 最高。

最初に来たのが10代、1週間で・・・焼けたねーと言われ、

真夏の海は、肌を露出するので 全身やけど状態、こちらの高原は、腕と顔が真っ黒。

いつ頃からか、グライダーが有名になり

今回は、朝ドラ「らんまん」に便乗して、植物写真の一部を紹介します。

この駐車場の目の前に

では、東京の小学生に混じって、

ニッコウキスゲなどは花が終わっています

このような散策路が設けてあります

ロープで区画割がされていました。

鳥や虫の観察に来られた方々も、

車山高原やその先の白樺湖、あるいはビーナスラインの先、美ヶ原と・・・懐かしい高原が広がります。

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諏訪大社 前宮を歩いて

2023-09-15 | 旅行記

古事記の「国譲り神話」の登場人物が、建御雷(タケミカヅチ)神に勝負を挑んで・・・完敗、敗走して科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃げてきた。

「この諏訪の地から二度と出ないから、殺さないでくれ」・・・何とか許された。

・・・前宮前、・・・神宮 前ではなく、前宮(マエミヤ)の前の信号です。

上社 前宮 ここは長野県茅野市宮川2030

右手前の駐車場に車を入れ、諏訪大社 上社 前宮に  ・・・参拝です。

目の前の階段を上りますが、鳥居の左側の坂道を車で上り、右側の社務所に進むこともできます。

この上、右側に社務所があります。

境内はどこまでなのか、のどかな雰囲気に順路が心配になります。

階段を上がると広場、この左先にありました大きな案内板を見てみましょう。

歴史が古いだけあって、色んな史跡が表示されています。

信濃一之宮 諏訪大社 前宮 が正式名称のようです。 

この掲示は、安国寺区 史友会の提供、安国寺は・・・左下に安國禅寺があります。

この一帯は、神殿(ゴウドノ)と呼んで、建御名方(タケミナカタ)神の子孫であり、現人神(アラヒトガミ)でもある方の居館がありました。

この諏訪では、現人神が明治に廃止されるまで、大祝(オオホウリ)の役職が存在していたことを知り・・・何それ、・・・?

諏訪市のHPでは、大祝をこのように説明しています。

・大祝(おおほうり)とは、諏訪明神の依り代(よりしろ-神霊が宿る対象物)・現人神(あらひとがみ-生き神様)として、諏訪社(上社・下社)の頂点に位置した神職です。

・上社大祝は、古代から近世末に至るまで世襲され、「諏方(すわ)氏」を名乗りました。

・中世までは、諏訪の領主として政治権力も握っていましたが、江戸時代に入り、「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」ができ、完全に政教分離がなされました。

・明治維新で神官の世襲制度が廃止されたため、大祝職も廃止されました。

・生き神様を祀る信仰が存在し続けた諏訪社は、全国的にも珍しいといわれています。

漢字源で「祝」を調べてみると:意読;いわ・・・う / はふり / ほぐ / いわい / のりと

はふり;神官やみこなど、神に仕えてのりとをあげる人。

のりと;神に申し上げることば。長く声を引いてのべるのりと。転じてめでたいと、ことほぐことば。

この案内板の、中央右下に縦書きで、「神殿跡」とありますが、シンデンではありますが、ゴウドノ跡の位置です。

この件も、諏訪市のHPで、その後の案内があります。見学もできます。

・大祝の居館は「神殿(ごうどの)」と呼ばれ、神聖な場所とされていました。

・中世までは前宮の麓にありましたが、遅くとも安土・桃山時代には現在地に居館を構えました。

・これに伴い、周辺に宮田渡(みやたど)と呼ばれる集落が形成されました。

・居館は江戸時代後期に焼失し、天保年間(1830~44年)に再建されました。

・再建当時は約3,000坪の敷地に、約320坪の主屋などが建てられていました。

・その後、明治・大正を経て昭和初期には、敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、現在の主屋は約43坪となっています。

中央の少し下・・・社務所前に、若御子社(ワカミコシャ)があります。

ここは、建御名方(タケミナカタ)命の子供たちを合祀しているとのこと。

鎌倉時代以降、武士は戦いで死ぬことが現実となり、神様、軍神を求め始めたのでしょう。

ところで・・・古事記の「科野国」とは?

・・・飛鳥時代から奈良時代に移った713年に、科野国は信濃国と改められた。(小学館:日本歴史地名大系より)

古事記では、この諏訪の主人公:建御名方(タケミナカタ)神が、兄の事代主(コトシロヌシ)神に続き勝負に負けたことで、父の大国主神も国譲りを承諾した。

天照大御神の使者と交渉の地:島根県出雲市稲佐の浜

大国主神は、大きな御殿を要求し・・・「自分が鎮まるために建ててもらえるならば、出雲の国に鎮まるだろう」

・・・出雲大社が歴史に登場します。

驚くことに、巨大な柱が発掘されています。

日本史は知識が乏しく、調べてみると・・・飛鳥時代の壬申(ジンシン)の乱に勝利し、天皇中心の統治に必要な大宝律令を完成させたのが701年

天皇の系譜、歴史をまとめるよう・・・壬申の乱から40年、712年にまとめられた古事記は計3巻、上巻には神話の世界から天皇誕生までの記述が。

中巻は、初代天皇:神武から応神天皇まで。

下巻は、仁徳から推古女帝(天皇)まで、

710年に都を、藤原京(奈良県橿原市)から平城京(奈良市)に移しました。

そして奈良時代・・・720年に完成したのが全30巻の日本書紀、この最初の1、2巻に神話的性格の「神代記」があります。

日本書紀の「神代記」には、古事記の国譲りなどは登場しません。

古事記の編纂の目的は、神話を織り込み、天皇が統治していること、皇位継承の正当性を物語として広く告知したかった。

日本書紀は、対外的に日本国の正式な歴史を紹介することを目的としている。このような解釈が一般的のようです。

諏訪明神に「神体」無く「大祝」をもって神体となす・・・大祝は人間で現人神であり・・・皆の衆、神体であらせられるぞ・・ハハー!

秘密結社ではないでしょう?・・・多くの資料があります、系図などはデータベースに、国会図書館や明治初期に調査された資料など・・・

室町時代に編纂された、「諏訪大明神画詞(諏訪大明神絵詞(スワダイミョウジンエコトバ)」や諏訪市史、重要な資料です。

この鳥居手前の右側に、社務所があります。

そして階段を上がった右側に、内御玉殿(ウチミタマデン)が見えます。

左側は、十間廊のようです。

多分、拾い読みして印象に残ったのがWikipediaの諏訪氏史だったか・・・納得できる仮説、そこに多少プラスして推測してみました。

(茅野市の、地域誌研究と年表作成の諸問題・・・藤森 明 氏の年表試案 抜粋を・・・考古学のプロの資料として拝借)

672年、壬申(ジンシン)の乱のころ、奈良の都で舎人(トネリ)(天皇の護衛、雑務など)の職にあった金刺舎人氏が諏訪を支配するようになった。

それ以降、守谷氏と共同で諏訪地区の祭祀を行っていた。

当時も今も役人は権威が好き、人臣にも神(神道の神)にもランク付け、神は 神階(シンカイ)(正六位から正一位まで)があります。

そこで、諏訪大社の権威を上げるには、・・・神秘性のある物語、

・・・天界の天皇に負けた地上の神、悲劇の主役は出雲、脇役に信濃とメリハリを付ければ、信ぴょう性が高まるのでは?

知人の古事記 編纂者に、神話に「建御名方神」を創作として掲載するよう金刺舎人氏が働きかけたとすれば・・・知恵者です、納得。

下社の大祝が金刺舎人氏系統ですが、上社と下社では上社の方が上位の位置関係のようです。

「建御名方神」を祀るのが上社。901年 神階・・・正一位となる。

下社は、「建御名方神」の妻とされる「八坂刀売神」(ヤサカトメノカミ)、神階:従一位 です。

イベントは地域の活性化に必要で、大祝・現人神がこの地を平定し 浸透すれば・・・

儀式が格式をあげ、いつしか「建御名方神」が伝説となります・・・継続は力です。

そして、年表では 806年、諏訪大社 式年造営 が始まると伝えられる。

・・・この前宮では、ご本殿があります。

内御玉殿から坂道を200mほど進むと到着しますが、少し登った右側に、広い交流広場があります。

案内板があります。

鎌倉道(カマクラミチ)遊歩道のタイトルが目立ちます。

昔の人は、健脚が当たり前、鎌倉ですと180~200㎞くらいでしょうか。

この諏訪の地は、奈良時代には馬の産地として有名だったようで、天竜川や千曲川もあり交流も盛んな様子が残っています。

大祝を調べていると、上社下社での争い、山の裏側・高遠や隣の甲府 武田軍との争いなど・・・神様も大変だったようです。

・・・古くは神殿に付属したお社と、当前宮のHPに記載されていますが・・・坂道を登って到着。

歴史を感じる 諏訪大社 上社 前宮御本殿です。

両側の柵が、内部への侵入は禁止と、意思表示しています。

右側に平地があり、開けているので回ってみます。

御柱、一之御柱が手前にあり、奥に四之御柱が見えています。

神主様が御勤め終了でしょうか、

清々しい雰囲気です。

二之御柱は、本殿に向かって左側に

この道の左側に、守屋山の水眼(スイガ)を水源とする渓流?が流れています。

本殿のみを囲んで、御柱4本が建てられています。

「高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。

現在の社殿は昭和七年伊勢の神宮の御用材を以て建られたものです」とHPにありました。

諏訪大社、多少調べた程度では・・・奥が深くて、住んでみないと解らない。

地元にしっかり根付いた伝統が守られている信濃の国でした。

 
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夏の暑さに負けて、雨にも負けず北上を

2023-09-11 | 旅行記

日差しが痛い、異常気象の日本、台風が次々に・・・旅行はどうする?

台風13号が外れそうだったが、木曜日 午後8時のニュースでは関東に上陸しそう、

困るのが、台風よりもはるか北東に線状降水帯を発生させる雨雲が強力で残っている。

今回、週末に予約している青森、弘前のホテルには無事到着できそうか?

大雨が続き、途中での道路事情のリスクを考慮して・・・キャンセルのメールを入れる。

手前の岩手県 岩泉の龍泉洞は・・・涼を求めて北上する計画の主たる目的地だった。

ここまでキャンセルすると、旅行が白紙になってしまう。

前日キャンセルも、お騒がせになるので結局、そのままで成り行きまかせ!

写真・動画の整理は終わっていないが・・・岩泉までの概略が・・・

・・・金曜朝 5:00、東京は早朝から雨模様となったが・・・6:30になった、

雨には多分強い オールシーズンタイヤだ、 出かけよう。

東北自動車道、比較的すいていた・・・宇都宮、100km まだ強い雨が続いている。

・・・200km 郡山、前方が明るくなってきた・・・雨雲が切れそうだ。

宮城県に入り、白石・・・300km、もうすぐ仙台南JCから、太平洋岸の東に向かう・・・

松島から石巻・・・ 400km、無料の三陸道を走って

12時を過ぎた、昼食は宮城県の最北、気仙沼でマグロを!

食後、気仙沼が一望に見渡せる安波山 の麓まで車を走らせたが、霧雨と曇天で展望台行きは中止。

隣の岩手県、陸前高田へ

入り組んだ湾に、悪夢が襲った、そして、奇跡の一本松が有名になったが枯れてしまった。

・・・塩害だったのだろうか

宮古の人気の景観にも接し・・・

岩泉の龍泉洞ホテルに PM6:00 到着 東京を抜けてから600kmは過ぎていたようだった。

翌朝は、霧雨模様、800m先の龍泉洞内は気温10℃、カメラのトラブルに注意!(別途)

青森行きを中止したので、三陸海岸をドライブ

仙台市内に戻り、ホテルにPM6時チェックイン

そして、日曜の朝快晴、閖上(ユリアゲ)名物の朝市で・・・直射日光を首筋に当てながらセリに参加し

予想外の名産品を成り行きで・・・ゲット!(別途)

仙台市内の神社を散策・・・(別途)

東北自動車道、日曜日午後3時過ぎの情報、国見で事故通行止め、

通行止めは困る・・・他に東京方面で・・・栃木県内だったか、違う地点でも事故xの表示。

・・・常磐道は1車線で所どころ対面通行、遅い車を追い越し車線で追い越し続け・・・、

夜間は対向車のライトや、中央線を視界に入れ続けるので、目が疲れるがやむを得ない、

仙台から・・・常磐道を選択し・・・ひたすら走って・・・守谷で夕食、無事帰宅へ。

我が家のベランダ農園が心配で・・・葉が水分不足だが朝日を浴びて、元気な状況を確認。

無花果が二つ、熟していました。葉影に、もう1つ、これもすぐ熟しそう。

これでプランター栽培で、計5個、残るは2個、予想外の収穫となりそうです。

・・・諏訪大社の前宮の整理が残っていました。

旅行記ブログ、大半が途中で・・・終了。

レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・完成形が見えてくると・・・好奇心、探求心が薄れるのか、

依頼主の作品を完成させることよりも、他のことを探し始めているようです。

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上社 本宮 その2

2023-09-02 | 旅行記

上社 本宮は、少し解りにくい順路となっています。

一部修復中で通行禁止だったりすることもありますが、本来は東の鳥居から境内に入る造りだったようです。

下図はグーグルのマップを使用していますが、方位は上が北です。

この地図で、右下に神宮寺下り仁王門跡とあります。

この前を走っている道路は、東からの一方通行です。

この道路をさらに右下(東)方向へ約100m進んだ所に、三之鳥居があります。(下の地図の枠外)

かつては、神宮寺方向から神社に向かうこの道路が東参道でした。

三之鳥居から進んできて、240mくらいで右カーブとなります。

そして坂道を下って200m弱、国道16号の手前に四之鳥居が立っています。

このカーブの地点に、このような案内板がありました。(現在地から左側が東参道)

江戸時代に航空写真はなく、これは諏訪市博物館展示の諏訪大社と神宮寺模型からと記載されています。

神宮寺と法華寺の勢力が大きかったようですが、神仏分離令で主に寺院が棄却取壊しとなっています。

では、元に戻って、・・・上記の案内図で右端の一之御柱から、順を追ってこの場所に進んで来ましょう。

この一之御柱は、境内の4本の内でもちろん一番立派です。

この右側に通路があり、通路の右先に社務所があります。御朱印帳はこちらで依頼します。

では右の通路から、正面の階段を登ると正面の門(塀重門)は閉っています。

順路は、右に折れて塀に沿って進むと、少し先の左側に入口門があります。

中に入って、右側の建物は授与所、正面に見えるのは宝物殿のようです。

ここで左に90度、東向きに向きを変えると、前方に参拝客が見えました。

左手に・・・小さい龍が

東に向かった正面に・・・これは簡素な造りの?・・・拝殿ではないようで、参拝所とあります。

両側が柵でその先には入れないようです、左に回り込んで

檜皮葺の苔むした屋根が見えます。

下社で拝見したような拝殿・裏が幣殿、左右に片拝殿が連なり、・・・尚且つ脇片拝殿もあります。

この石畳の部分は斎庭と呼ばれ、社務所で祈祷を願い出た人が神主と共に入り弊拝殿で願い事をします。

弊拝殿の奥は、・・・上社も本殿は無いようです。

裏山(南西側にあたる標高1650mの守屋山)が「神体山」とあります。

重要文化財の説明があります。

前方の建物以外に四脚門までが、昭和58年指定、遅れて布橋などが近年指定されています。

では、戻って塀に沿って東に進み「四脚門」から下に続く階段を降りると、・・・正面に神楽殿があります。

左横の案内板を見てみましょう。

元旦の朝に打たれる大太鼓も、1827年に奉納されたとあります。

東側に回っても確かに四方に壁や戸が無く、吹き抜けですから傷みも激しいでしょう。

しかし、この太鼓は新しい雰囲気です。よく見ると

諏訪家太鼓店が奉納されています。ということは、近年でしょうか。

・・・暗くて判り難いですが、右奥にもう一つ埃だらけの太鼓があるようです。

何故、・・・埃だらけの太鼓の案内が立てられたままで、新しい太鼓は?

・・・調べてみますと、2010/4/25、奉納されたようです。3時間かけて神楽殿に据え付けられたと。

欅の大木から輪切りで胴をくり抜く・・・そのような丸太の入手は困難だったのでしょう。

胴の製作は薄い欅の板を6枚張り合わせた合板を、樽を作る要領で組み上げて接着されたようです。

龍の姿が描かれていますが・・・。反対側は未確認です。

その東隣に屋根が無く、雨ざらしとなっている土俵がありました。

年一回の奉納相撲の前に、造り直されるから管理はこれでいいのでしょう。

この場所へは、大鳥居から入り、右側の雷電為右衛門像の横を通れれば、神楽殿に進むことができ、その先に土俵があります。

そのまましばらく進むと・・・左に神馬舎、その先右側に、二之御柱があります。

・・・昔の参拝(神宮寺方向からの東参道)の(案内板のある)場所に出ました。

山側に、臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 法華禅寺が奥に見えます。

そして右側の小さな神社が、・・・旧字が読めない。

「社神玉蠶」旧字の蠶・(蚕)です。杉の丸太でしょうか、この鳥居が神社と妙に良い感じです。

この神社も御柱が立っていて、柱の太さが不揃いな点も、気にすることは無いと言っているようでした。

・・・では、ここから右(北西側)を見てみましょう。

諏訪大社 上社本宮、ここに表示されていました。

山からの小川に架かる橋もあります。

青銅の立派な大鳥居が参道に立っています。

そして、入口御門の右側に、御柱が見えます。

こちらが、二之御柱です。(三之御柱は、山側になります)

入口御門は、布橋と呼ばれる渡り廊下のような建造物が、ここから神楽殿の横まで続いています。

斜面に沿って建っているので、右側は石垣などで土盛りされ、神楽殿に降りるには階段が設けてあります。

そして右側に、こちらも重要文化財、四脚門

この門の先は斎庭で、奥に硯石があるそうです。

左に見えるのは、弊拝殿です。

天正10年(1582年)焼失とあります。この時期といえば、信長の甲州征伐の際起った事でしょう。

「信長公記」では若い織田信忠が大将で3月2日、籠城している武田軍の高遠城に総攻撃、

・・・陥落させると、翌日本陣を諏訪に進めています。

その際、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払ったようです。

・・・同年、天下統一寸前で、6月2日本能寺の変が起こりますが(新暦7月1日)。

その後、慶長13年(1608年)徳川家康が建立させたとあります。

この時期、彦根城の天守閣も完成、豊臣大名に負担を掛けさせ、名古屋城も1609年築城開始、1615年完成させています。

さて、諏訪大社の最後は、前宮、こちらも・・・神社の起源を考えることになります。

 

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下社と上社

2023-08-20 | 旅行記

下諏訪町に鎮座しているのが下社、では春宮から秋宮に車で移動しますが、・・・8月1日に移動したのは舟でした。

4年ぶりに夏の遷座祭「お舟祭り」柴舟曳行が行われたと、信濃毎日新聞の記事にありました。

コロナ感染防止のために従来のパレードは中止となったようです。

諏訪大社のHPから、周辺の地図を拝借しましょう。

この下社の春宮と秋宮の関係性を調べてみると、・・・2月1日に秋宮の御宝殿の御霊代が・・・春宮に遷御される。

冬から春へ季節の変わり目です。そして、夏から秋へと季節が移る8月1日・・・御零代が秋宮へまた移ります。

夏から秋は、特別に収穫の感謝の意味もあるのでしょうか、盛大な行事が行われます。

・・・丸太の上に、柴の葉と枝で装飾され5色の布で飾られた舟が置かれ、5tもあるそうでこれを曳行します。

南に直進、お舟を直角に左に回転させ、東を目指すと間もなく少し上り坂、その先に鳥居があり、秋宮です。

・・・春宮からの車は、鳥居の先右側の奥に無料の駐車場が何カ所かあります。

駐車場から斎館の前を通り、参拝のために境内に入ります。

右手に、竜がいます。

手水舎でしょうか? 50度近い温泉で、飲用しないようにとありました。

そして杉の巨木の間から見えてきましたのが、・・・こちらも春宮と同様・・・神楽殿でしょう。

両側に大きな狛犬が置かれています。

こちらの秋宮の狛犬は、青銅製としては、日本一の大きさだそうです。

そして、大きなしめ縄・・・神楽殿に、重さ1トンの大注連縄とありました。

・・・信濃の国は、出雲の国、出雲大社の影響が強く・・・この景観は、どこかにそっくりでした。

探してみましょう、確か2回目の参拝、2018年の冬のブログ・・・

出雲大社の拝殿の画像がこちら

出雲大社のHPでは、拝殿の注連縄の長さ6.5m、重量:1 トンと説明されています。

秋宮の神楽殿と同じ重量のようです。

この拝殿を左に回り込み、さらに左に進んで行くと50mくらい先に・・・出雲大社の神楽殿があります。

目を疑うほどの圧倒的な大きさです。

長さ13.6m、重量が 5.2 トンと出雲大社のHPにありますから、材料の確保から、縄編み・組付け、吊り下げ

最後の仕上げがまた大変な作業と思うと、・・・良く完成されたと、継続される関係者の熱意に感動いたします。

・・・この下は通らず、注意して横に回り込んだ事を思い出しました。

さてこちらの諏訪大社、秋宮の神楽殿の先(裏)に弊拝殿があります。

春宮とそっくりですが、秋宮と同じ図面を基に二つの宮大工が張り合ったようです。

下諏訪町のHPでは、「1777年(安永6年)秋宮が、立川和四郎富棟(とみむね)が請負うことになりました。

 高島藩御用の宮大工村田長左衛門矩(とも)重(しげ)(大隈(おおすみ)流)は兄伊藤儀左衛門と相談して、

春宮の建築を秋宮と同じ絵図面で、35両扶持米(ふちまい)なしで請負い、

不足分は自分で勧化(かんげ)して造る旨の一札を出した。

これは採算を度外視した 秋宮の半額以下で、立川氏と競り合う形となり、すぐ仕事にかかった。

秋宮より遅く始めて約1年早く、安永8年(1779)6 月工事を終えている。

大隈流は完成した「規矩(きく)」(規則・技法)を持った当時全国に知れた一派である。」・・・以下割愛。

・・・元の絵図が同じですから、雰囲気は同じですが、・・・異なる部分(彫刻など)を探してみるのも楽しいでしょう。

左右には、春宮同様に片拝殿が建てられています。

そして、秋宮の御神木は、一位(イチイ)の木が植えられています。(あるいはこちらの漢字・櫟(イチイ)も使われるようです。)

針葉樹で成長が遅く、飛騨の一位一刀彫、昔から神主が使う笏(シャク)の素材で神社とは縁が深いそうです。

向かって右側に、一之御柱

この柱の右側に、案内板がありますので拡大します。

ここ下社の祭事は、8月1日 例大祭は「お舟祭」と書かれています。

2月1日に、この秋宮から同じように行列が春宮に向かい「御宝殿の御霊代が遷御」されます。

その遷座祭は、春の移動があって、秋が来るので成り立つのですが・・・

・・・舟祭りのイベントが主になり、最近は前日( 7/31) の宵祭が年々華やかになるようです。

そして向かって左側に、ニ之御柱です

同じように、この左側奥に三之御柱、・・・四角形で囲む右隅に四之御柱が建てられています。

境内を下がってくると、下社 秋宮の正面鳥居はこちらになります。

駐車場はこの手前を右斜めに登っていきますので、遅ればせながら正面をご案内申し上げます。

・・・先日の舟祭りは、・・・丸太が二本のそり状と言われます。

神楽殿まで引き上げるには、この坂が最後の難所のようです。

下社例大祭、舟祭り・・・伝統行事が続いていることが、神話の世界に関心を持つキッカケになるでしょう。

この参道を少し下ると、中山道と甲州街道が交わる賑やかな場所になります。

ここで、昼食を・・・そして、諏訪湖の反対側に移動します。

・・・2~30分くらい、約10km走り、目指すのは・・・

諏訪大社の上社、本宮です。

こちらの本宮 はかつては盛大な様子だったそうですが、明治の神仏分離で縮小となります。

また現在は、残念なことに一部が修復中でした。

判り難いので、グーグルの画像を拝借します。

左下から県道183号を進むと(北は、下方向となります)・・・神宮寺の交差点です。

前方の道路に架かる四の鳥居方向は進入禁止の表示ですので・・・右折します。

少し進むと県道16号の左側に、参拝者向けに広い駐車場があります。

そこに駐車して、右側の側道に出て前方の小山を見ると

諏訪大社 本宮大鳥居です。

参道の右側では土産屋に挟まれた広場で、市が開かれていました。

本宮は、諏訪湖の南からは少し離れています。

案内図がこちら

大鳥居を入り、すぐ左に力士像があります。

力士名は、雷電為右衛門・・・有名な江戸時代の力士ですが・・・。

知りませんでしたが、地元の名士だったんですね。

御祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)も出雲の国譲りの神話では、色んな解釈がされています。

国学院大学 「古典文化学」事業・・・などでは、日本の神様などが詳しく解説されています。(ご参考まで)

江戸時代、儒学や藩学が盛んになり、神道、儒教、仏教の敵は・・・異国から布教に来たキリスト教となります。

1613年の12月には、徳川家康の強い影響力で伴天連追放令が出されます。

キリシタンではないことを仏教寺院に請け負わせた寺請制度(キリスト教以外も、地域によっては規制があったそうです)が浸透します。

・・・大航海時代のスペイン、ポルトガルは、他文明の土地に上陸しては、布教と虐殺、資源を略奪する犯罪行為を続けていました。

家康の追放令以前に、秀吉は伴天連がキリシタンの武士や農民を扇動し反乱を起こし、我が国の侵略が目的との情報を得ていました。

我が国の武力も利用して中国に侵略する計画も耳にし、これ以上の布教を押さえようとしています。

当時、朱印船で往来するマニラに駐屯するスペイン艦隊に、秀吉は書面で脅しをかけていますから、大局観は正しかったと思います。

・・・時代が移り、明治政府の混乱が続く中、1873年(明治6年)キリスト教の禁制が解除されます。

これより前、外国人居留地では、1859年(安政6年)信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可しています。

この時期、薩長連中は朝令暮改も多く、ドタバタ続きのようで、真相は良くわかりません。

いずれにしましても、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法、28条 信教の自由を保障する規定が設けられます。

国教を目指した神道は、祭祀と宗教を分離し、神道は祭祀だけを行い 宗教ではないとの解釈に落ち着いたようです。

カトリック教が主流の欧州でも、年々無宗教の割合が多くなり、今日ではザット半数に・・・、何を示唆しているのでしょう。

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諏訪地方の神社

2023-08-11 | 旅行記

日本各地の観光名所に、神社仏閣があります。

土地の歴史と建築文化、立ち寄ってみたいですね。・・・パワースポットや神頼みは、あまり興味がないのですが、

ヨーロッパでも文化の中心に、キリスト教、中でもカトリック教、いや教義よりもバチカンの影響力に関心があります。

松本市から諏訪に向かうと塩尻峠の先、下諏訪地区に入ります。

諏訪湖の北、中山道が通り諏訪湖に流れ込む砥川の右岸に諏訪大社があります。

正確には、下社 春宮と位置付けられ、ここから約1km南東に下社 秋宮が鎮座しています。

諏訪大社は古事記などに登場する杵築神社(出雲大社)と共に神話の世界を祖としています。

神話の世界は古事記や日本書紀を基に、さまざまに伝えられているようですが、神社本庁の国譲りを転記しましょう。

以下、神社本庁HPから拝借

天照大御神あまてらすおおみかみさまは、孫の瓊々杵命ににぎのみこと豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを治めさせようと考えられ、建御雷神たけみかずちのかみ天鳥船神あめのとりふねのかみに命じて、様子をうかがわせてみました。

二柱の神は、出雲の国稲佐いなさの浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。

そしてこの国を治めている大国主神おおくにぬしのかみに、この国を天神あまつかみ御子みこに譲るかどうかを問いました。

大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。

大国主神には、事代主神ことしろぬしのかみ建御名方神たけみなかたのかみという二柱の子供がいましたが、そのうち建御名方神は、力じまんの神でなかなか納得しませんでした。

そこで建御雷神と力競べをすることにしました。ところがどうでしょう。

建御名方神が、建御雷神の手をとると、氷のようになり、剣の刃のようになりました。 これはたまりません。

建御名方神は、父である大国主神の命に従うことを約束しました。

その後、建御名方神は信濃国に移り、信濃国の国造りをしました。

以下、割愛

・・・ここに登場する大国主神を祀っているのが杵築神社(現在の出雲大社)、

そして、その子供 建御名方神 が建御雷神に負けて逃げてきたところが諏訪湖の南といわれています。

・・・そのような言い伝えのある諏訪大社は、下社以外に、上社 前宮と上社 本宮 の二社を合わせて4カ所を参拝します。

では、先程の鳥居から北に進むと、出雲大社よりは小さいが、立派なしめ縄のある拝殿?でしょうか

・・・立て札に、神楽殿とあります。

立派な神楽殿です。

神楽殿が中央に置かれているので、神話の時代のように神楽は重要だったのでしょう。

左から回り込んで

奥に見えるのが本殿?でしょう。

弊拝殿とあります。拝殿と幣殿の機能が一体になった建物です。

中央階段の先に、楼門造りは2階建て、門に対して屋根が大きい・・・ここの拝殿で参拝。

奥に続くのが、幣殿と称する神職がお供えなどをされる場所となっているのでしょう。

もう一つの立て札、左右片拝殿とは

中央の弊拝殿から長い平屋建て(約11m)が、吹きぬけが多い・・・こちらも拝殿、両サイドに建てられています。

そして向かって右側の拝殿の手前に、大木が四方をしめ縄で囲ってあります。

これが御柱です。この場所が 一之御柱となります。

神木(御柱)はモミの木で、直径1m、高さ17m・・・この奥に四之柱が見えますが立ち入り禁止のようです。

先程のもう一方の片拝殿に戻りましょう。

こちらが、二之御柱です。もちろん奥に三之御柱があり、四角で囲っています。

何を囲っているのか? 御宝殿を囲っているのでしょうが、ご本尊を祀る本殿が無いのです。

春宮では御柱で囲われ、その内側に塀で囲まれた神域には「ご神体」があります。

ご神体は、・・・「杉の木」が植えられているとのことです。

この神域の後部には、神聖なる自然の山があります。

振り返って、

諏訪湖に延びる、一直線の少し下り坂の道路が続いています。

右側に、下記の案内図がありました。

万治の石仏が、この近くにあることを知り、散策に出かけます。

境内から右の砥川に向かい小道を下っていくと、川に出ました。

観光地にするには、目立つ橋を架けよう。

太鼓橋ではありません、鉄製の幅は狭いが丈夫な橋が架かっています。

そして、上流に向かうと間もなく案内板が

そうでした、誰だったか有名人が・・・岡本太郎氏が訪れた、そのように記述されていました。

大きな石に阿弥陀如来の頭部を彫って・・・いつしか、御利益と作法まで・・・

観光協会も商工会も、万治の石は観光資源です。

すでに立派な物語が継承されているようで、SNSでブームになれば土産物屋も・・・。

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久し振りの信州

2023-08-03 | 旅行記

土曜日の朝、駐車場から数分の所に蓮池? 蓮の花を見て回る。

このように、水面に大きな葉を浮かべる植物、じっくり見るのは多分・・・不忍池いらいかな。

案内板は、何故か 西が上です。

現在地から下側に目をやると・・・天守閣が東側になります。

昨日に続き、朝日を浴びるこちらの城を散策にまたやってきました。

信州・松本  松本城です。

城の西側、内堀に掛かる埋橋(ウズミバシ)、埋門から架かる橋でその名がついているようですが、現代(1955年)に架けられました。

戦国時代は内堀の中に塀を建てた特殊な構造だったようですが、詳細が不明でこのような朱塗りの橋が架けられたようです。

内堀に沿って南側に移動しましょう。

周囲は松本城公園、朝から海外からの観光客が多くみられます。

本丸に進むには、・・・すぐそこ、右側に黒門が見えて来ました。

黒門に進みましょう。

二の門と袖塀は1990年の復元とあります。

本丸に入るにはこちらが正門となります。ここで拝観券を購入します。

そして、海外の観光客に大人気でしょう、忍びの黒衣装です。

この暑さの中で、頭が下がります。オット 派手さは無いが、左手の先で武器を回していましたよ。

この場所は桝形に造られているので、右に進みます。

この先、左側の櫓門を抜けて本丸へと進みます。

右側は帰りの出口のようです。

こちらが一の門(櫓門)(ヤグラモン)、1960年(昭和35年)の復興とあります。

左側に、通り過ぎてしまったのですが、甲冑が展示されてありました。

今日も晴天、ここは記念撮影コーナです。長椅子は置いてないようです。

ここは標高589mとありますが、何と比較すれば・・・

東京都八王子市の高尾山、麓の京王線、高尾山口駅の標高が190mくらい

そこから人気のハイキングコースです・・・山頂まで約400m・・・そうすると高尾山の山頂は599m。

本丸御殿跡を、正面の大手口に向かって進みます。

大手口の上に渡櫓が走りその高さが12m、左が天守、右は乾小天守:高さ16.8mこちらは観覧できません。

右側に回り込んで

この先で拝観券のチェックとあります。

傘立ての先、石段を上がると城内は木造建築です。木製の階段ですから、下足は禁止です。

ビニール袋を渡されて、城内を持ち歩くことになりますが、これが大変な苦行となります。

出口が少し離れた右側の所になるので、持ち歩いて頂きたいのでしょうが・・・方法はあるでしょう要改善。

大手口には頑丈な扉があり、その先から・・・年季の入った滑りそうな木の階段の数々に挑戦することになります。

大半の人がバッグを背負い、階段の端に設けられた手摺を片手で握り、

反対の手に靴の入ったビニール袋を操りながら、階段に取り付いていきます。

階段付近の撮影は禁止です。

急階段が多く、段差が普通の二倍くらいある所もあり、甘く考えていると危険です。

天守の2階に到着、個人の寄贈品、火縄銃と関連資料が展示されています。

松本市出身の赤羽氏の寄贈とありました。

こちらは甲冑

2階は、東・南・西側に窓があり・・・比較的明るい、

係員の指示に従って、先を急がず無言で上ります。

段差注意!、上りは、階段に手をついて上がるくらい段差が高い所があり、ここは降りるほうが危ない。

天守の3階は窓が無く暗い部屋、五重に見える天守閣が・・・この階があることで、

外からは気づき難いが、内部は実質6階となる構造で、分りにくいこの階は最も安全と考えられたようです。

天守5階部分、この階は天井が高いです。

この5階は、天井が4.54mもあり、稽古場や作戦会議などが開かれたのでしょう。

最上階に上がる階段は、途中に踊り場があります。

最上階、天守6階です。

北側に、守護神が祀ってある・・・その謂(イワ)れが掲げてありました。

眺望の写真と案内が

国宝、旧開智学校が近くにありますが、

現在は修復工事中で見学はできませんでした。

東側が

王ヶ頭の裏側が美ケ原高原、茶臼山の裏側にかけて、ビーナスラインが走っています。

20年頃前は、夏に大勢のファミリーで、霧ヶ峰、車山高原、白樺湖と有料道路をドライブしたのが懐かしい。

南側は

駒ヶ根、木曽方面です。

駒ヶ岳ロープウェイに向かう道路で、バスの最後部左端に座ったら、カーブで身体は谷底の上に振られ・・・始めての恐怖体験。

光善寺のヒカリゴケ・・・懐かしい、久しぶりに・・・夏は信州の旅行が多かった。

中山道の馬籠宿、妻籠宿、カーナビが無い時代に地図を片手に・・・。

西は

天狗岩の向こうに上高地、右に穂高、左に焼岳、その向こうは・・・飛騨高山

・・・高山からの帰りに、中部縦貫自動車道の安房トンネルを通らずに、紅葉の峠を山道ドライブしたら

後ろから・・・爆音が轟くラリーの連中に遭遇、競うように走り・・・シフトチェンジが忙しかった。

多分10数年前を最後に・・・中央道の渋滞が嫌になり、こちら方面は疎遠になっていました。

写真を見ると昔のことが次々と・・・思い出されてくる。

・・・エ! 二十六夜社? 天井?

天井は太い梁で、隙間に・・・何か見えた。

反対側に回ると

頭上に「二十六夜社」が祀ってありました。

石川数政・康長父子が深志城からの城を改築し、御殿、太鼓門、黒門、・・・、

天守の築造は、1593~1594年頃と考えられているとのこと。

では、注意して階段を降りることにしましょう。

こちらは、南側、水深の浅い内堀の向こうが松本城公園

ここは天守の南東(辰巳)に増築された「辰巳附(タツミツケ)櫓」から北側の眺望です。

北側から石垣左側の入口に歩を進める人々、・・・階段気を付けてくださいよ!

国宝、松本城 

「辰巳附櫓」の先に増築された「月見櫓」の1階から出口となります。

朱塗りの回廊が見えますが、こちらが北、左が東、向こう側が南になり、

これら三方の戸を外してふきぬきとし、月見をするための贅沢な櫓でした。

出口は、入口の隣の門からとなります。

ありがとうございました。

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朝から首都高渋滞・・・

2023-07-30 | 旅行記

朝8時半、金曜日の朝、首都高に渋滞の表示は無かったので首都高に入る・・・乗って5分、渋滞し始めた。

どうした、故障車か?・・・環状線のトンネル内で、やっと国立まで渋滞の表示が出た、下り線なのに事故か?工事か?

渋滞は・・・さらに

首都高を下りて、山手通(冠状6号)を初台目指して走る・・・多少混んでいるがそこそこ走れるから、普段通りのようです。

初台で確認すると、首都高から中央道まで渋滞表示、・・・甲州街道を高井戸へ、そして・・・さらに国立府中ICまで下道を走る。

中央道はスムーズに走れた記憶がほとんどないが、都心の首都高から渋滞したのは久しぶりだった。

11時過ぎに談合坂SAに到着、午前中の予定をフリーにしていたので、1時間休憩

1時前に勝沼ICで降りて、桃狩りへ・・・ICから15分、果樹園に到着、7月の21日

晴天、暑い、・・・歩いて近くの桃園へ

こちらの果樹園の説明では、今年は例年より早くシーズンは終わりで、予約客のみ桃狩りが可能とのこと。

固くて甘いタイプも人気があります。

こちらは白鳳、袋は残して、桃のみ真っ直ぐ引っ張ると収穫できます。

高枝には、アルミ製の脚立を使用して。

この場で採りたての暖かい桃を食べるのでしょうか? 違うようです。

こちらで収穫した2個は籠に入れてお土産(持ち帰り)。

お店に戻って、カウンターに並んでいる籠に、丸ごと冷やされている桃が沢山。

これをテーブルに持っていき、好きなだけ食べれるのですが、

立派な桃です、水分も多くそして甘い、皮は剝きますが、そのまま食べる方も・・・。

大きいので1個で満足ですが、何故かナイフを持つ手が、次へと動いて行くのです。

30分くらいで、気が付けば5個完食、うまい!

固めの桃をもう1個頂いてきて、違うフルーツを食する感じ、これも甘い。

種の周囲を6等分にナイフを入れ、さらに周囲を上下に2等分・・・細かくして美味しく頂きました。

更に中央道を北に・・・途中工事中の区間があり渋滞、最高速度50km/hの標識が多いこと。

東名も見受けられますが、これは嫌がらせでしょう。それとも関係者の交通見直しの怠慢でしょうか。

今日の宿泊は、こちらの城下町へ

オット!圧倒的に海外からの観光客が多く・・・記念写真の邪魔にならないように

忍者が出てきそうな、堀と城壁、堀には錦鯉、水深は堆積物があり浅い。

奇麗な五重天守、400年余の風雪に耐えて・・・国宝に指定されています。

ブログは、書き始めては中断、・・・季節が移り、削除の繰り返し・・・胡蝶蘭はこの間、半年も咲き続け、

・・・気が付けば盛夏、いちじくが順調に大きくなり、クコの実は半数がうどん粉病に、

ブルーベリーもハイブッシュ系は収穫済でラビットアイ系が今頃から熟します。

そうでした、ニンニクは大きくなりそうで、肥料と水やりを控えたので失敗、小ぶりな球根を収穫することになりました。

胡蝶蘭は、根の環境が例年より厳しく気温の変化についていけないのか、葉が変色して落ちるのが目につきます。

新陳代謝が旺盛と解釈すれば、多少気も休まるのですが、要観察の日々が続きます。

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銀座の桜

2023-03-31 | まち歩き

3月29日、12月決算の某社・株主総会・・・訳あって出席することになり、

・・・車は遠慮して下さいとあり、久しぶりに地下鉄で・・・四谷・赤坂見附間は通勤ラッシュ

AM9:30 会場のビル で休憩、この一帯はここ数年で景観が相当変わって雑多な風景が少なくなってきました。

定刻に総会は開始され、監査報告、社長からの事業報告、・・・議案、取締役の選任と予定通りにて終了。

移転した新事務所を拝見して、同行者と二人で11:00頃ビルを後にする。

ここから、すぐ銀座なので、関連会社の銀座の店舗を見たいと、知人に出社を確認すると本日は休みとのこと。

そこで、同行者は急ぎの事情が入り、帰宅されることに。

・・・久し振りの爽やかな天候で・・・駐車時間を気にせず、フラッと銀ブラを一人ですることにした。

外堀通り下の地下駐車場、ここの待合室は変わってなかった、昔のソニープラザは、工事中

地上に出ると、向かいの数寄屋橋交番横の桜が目に飛び込んできた。

五月晴れかと思うような青空に、薄紅色の桜が似合います。

東急プラザ、交差点側の 斜めのカットは目立つが、落ち着かない。

以前の銀座東芝ビルは、一角に阪急百貨店が入居していて、上層階は東芝他法人が入居していた。

ここの東芝などに10年ほど商談に伺い、地下の喫茶店にたむろしていた時代が懐かしい。

手前の一角は、SONYのショールーム、ソニービルがあり、数寄屋橋交差点のランドマークだった。

1階の左隅から・・・地上8階までエレベータで上がって、中央が吹き抜けだったか?

各階は中央部に階段があり、周囲にフロアーが分れ、階段で1階までブラブラ散策させて頂いていた。

数年前に解体され、暫定的にミニ公園のような状態だったが・・・新ビルは・・・2024年?

さて注目は、晴海通りを銀座4丁目交差点の方にブラブラと歩いて行った右側

右側交番の裏に見えてきたビルが、解体されるというニュースがありました。

銀座三越側からの風景です。

このビルが完成した頃から、カネボウ・資生堂がTVCMを大量に流し、コパトーンが売れ、女性水着は最先端ファッションでした。

三愛は、このビルの低層階で女性水着などを販売していました人気のショップです。

数寄屋橋の西銀座デパートにも店舗がありました。

他のテナントでは、マツダのロータリーコスモが2階に三菱電機のショールームは上層階に、ネオンもスリーダイヤでした。

スリーダイヤの画像が見つからない・・・AVが主力の時代ですから相当昔のようです。

2010年はこちら

時代は変わって、リコー三愛グループの三愛婦人服部門は、数年前に他社に売却されたようです。

三愛ドリームセンターは、狭い入口から入ると中央部にエレベーター、各フロア横の狭いラセン階段を降りてくる。

日本一高価な土地にユニークなファッションタワーが出現して、10代に数回訪れ狭いが賑わっていた記憶が残っている。

こちらは4丁目交差点から、中央通り4~1丁目・京橋方面

右側の銀座三越店のファサードが随分変わって、重厚感があります。

平日のお昼の時間です、外人観光客が多く、人通りも増えてきました。

昔のような気がするが、・・・コロナ禍で始めて迎えた2020年のゴールデンウィーク・・・どこにも行けずどうしよう。

コロナの街を記録しようと、・・・Gopro片手に銀座晴海通りと中央通りの路肩を走っている動画から切り出してみました。

晴海通りを数寄屋橋方面に・・・左手に三愛ドリームセンター

昼過ぎ、人も車もかなり少ないです。

4丁目交差点に掛かり、三愛ビルの横に交番があり、婦警さんも見えた。

三愛ビル横を通過し、ソニービル跡地がある数寄屋橋交差点を左折して土橋方面へ、

・・・オット、この手前にかつて有名なネオンが屋上にありました。

そのビルも立て替えられ、今はこのビルです。

イタリアのブランド、アルマーニーの銀座タワーです。

10数年前に完成したと思いましたが・・・最上階2フロアーは高級レストラン、領収書で接待を

そうでした、モノクロ写真でした。

・・・中央通り銀座8丁目からまた4丁目へ戻ってきました

この画像で、銀座三越店の正面が工事中でした。2010年のことです。

さて現在に戻って、服部時計店(銀座和光)の並びに、老舗のアンパン屋があります。

道路の反対側から・・・どうも鮮やかな桜が気になって・・・近づくと鉢から造花の桜の木が、

駄目でしょう、一等地の名店です。

造花の前で外人観光客が記念撮影・・・よく見なさい 花が抜けて緑の茎が多数露出しています。

桜の若木・・・鉢植えで管理可能でしょう。(ベルサイユ宮殿では熱帯植物は鉢で管理し、冬場は温室へ移動)

西銀座に向かう途中、奇抜なショーウィンドーが・・・仏のモンクレール

30年前頃、ダウンジャケットで人気だと思いましたが、最近またよく見かけます

そして、この先外堀通りに面して、元読売新聞社の跡に・・・新年の福袋で大人気でしたプランタン銀座がありました。

そうです、プランタンも廃業。今は、ユニクロが移ってきています。

西銀座デパート・・・ここにも三愛があり、宝くじ売り場があり、街宣車が必ず停まっていました。

いつ頃のこと? 昭和です。・・・今日では、落ち着いた雰囲気です。

西銀座でも花見ができます、この桜は茂庭桜(モニワ)花弁は5枚で、白色から紅紫色に変化するとのこと。

地下鉄の出入り口、人通りが多くなってきました。

移動しましょう、秋葉原に・・・散策後、そして男坂を上った先に

有名な神社が、右側から桜越しに

ここからもう少し右側に進みますと、銭形平次の碑があります。

神田明神 隨神門 1975年の建立、そして右側には石造りの大黒様

商売繁盛、恵比寿・大黒様の神田神社です。

北西から雲行きが怪しくなって、

空気が冷たくなってきました。夕方になると雨予報がありました。

では、帰宅しましょう。週末は小菊の株分け、そして植え替えをしましょうか。

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