小雨の京都、龍安寺に行ってみよう。
この階段の上、本堂の右側に社務所があり、そこに数台の駐車スペースがあります。
駐車場入り口で、係員に許可を頂くと1時間以内に限り駐車することができるので、
指示された通り駐車場の右奥から小道を進みます。1~2分で着き、雨の日は大助かりです。
このお寺は大変広く、南側には回遊式庭園に囲まれた鏡容池(キョウヨウチ)があります。
そして境内北側にはこれから参拝する本堂(ここでは方丈と呼んでいます)があります。
その方丈の玄関を入ってすぐ左側に、このような石庭の模型が、
その前に、龍安寺の案内が下記のように書かれている。
もと徳大寺家の別荘を、宝徳2年(1450年)に細川勝元が譲リうけ、禅寺に改めたが、戦災で焼失し、明応8年(1499年)細川政元が再興した。
美しい鏡容池は藤原時代の由緒をとどめ、方丈前庭の枯山水庭園は俗に虎の子渡しと称されて有名である。
禅では自己が「三昧」「無」になりきることによって自他一如の世界を自覚し、その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間、空間を越えて、静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭といえよう。
・・・参考に、戦災は第二次大戦ではなく、応仁の乱か・・・そして、その後1489年に洛北に建造されたのが慈照寺銀閣・・・
左側に、明るい庭園が見えてくる。
白砂の反射光が右側の室内を明るく照らしている。
入口側から石庭をながめる。石庭は方丈の南に面している。
右側に、このような展示がされている。
江戸時代の石庭スケッチと説明分が
文章を拡大してみよう。皆川さんという江戸中期の儒学者がこの庭園について書かれている。
この時代ですでに、土塀の上に見える借景がずいぶん変わってしまったなどとあります。
スケッチの借景は、松林が描かれています。
ところで作庭の作者は誰か?
龍安寺側の説明では、絵師の相阿弥と長く信じられてきたが確証はないといわれる。
75坪の白砂に大小15個の石を配置、「虎の子渡しの庭」、「七五三の庭」とも呼ばれる。
石の配置は左から、5、2、3、2、3でしょうか。
この時期、正面の高さ1.8mの油土塀に枝のみが何本か掛かっているが、春のシーズンには、しだれ桜が咲き誇る。
このアングル・・・落ち着く
また右側(西)の土塀は、手前から奥に向かって低くなるように建てられ、より奥行感が強調されているとのことです。
石庭西側の紅葉、・・・この配色はさわやかですね。
さて、そろそろあわただしい俗世に戻ることにしよう。
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近くの北野天満宮に寄ってみよう。
北野天満宮、天暦元年(947年)の創建
菅原道真公が祀(マツ)られていて、学問の神様として崇(アガ)められている。
東京の「湯島天神」・「亀戸天神」に対し、こちらの天神さまは、「北野の天神さん」と呼ばれているそうです。
中門(三光門)に掛かる 「天満宮」の額は、後西天皇の筆となるようです。
天満宮では、牛が祭神の使者とされていて、道真公と牛に関しては数多くの伝承があり縁があるようです。
北野天満宮には神使とされる牛の像が、いろんな所に置かれています。
この立派な臥牛は、本殿から少し離れた右側にありました。
本殿は、豊臣秀頼が関ヶ原の戦いの後、慶長12年(1607年)に造営された。
道真公は梅を愛され、この天満宮境内にも多くの梅の木が見える。
また、梅林もあり開花時は有料公開もされている。
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これから、夕方までに奈良に行こう。
途中、伏見の寺田屋に寄ってみよう。
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この寺田屋も有名な観光コース、旅籠内部も公開されているが
AM10:00~PM3:40まで受付、見学は有料
幕末の坂本竜馬で有名な当時の寺田屋は、鳥羽伏見の戦いで(1868年)、焼失した。
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この旅籠は、焼失したので旧宅にならい、明治時代に再建されたそうです。
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この旅籠の右側に、旧寺田屋の跡地があり庭園の雰囲気となっている。
ここには、文久2年の寺田屋騒動(1862年)で戦死した討幕派薩摩藩士の石碑などが建っている。
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すぐ近くに宇治川が流れ、その支流を少しさかのぼった所に船宿だった寺田屋がある。
1866年3月9日(慶応2年1月23日)深夜2時頃、幕府伏見奉行捕り方百数十人に囲まれた竜馬
・・・お龍が風呂から飛び出し2階に駆け上がる。・・・負傷した竜馬
この川の反対側、材木屋に隠れ、薩摩藩邸が川船を出して・・・竜馬は救出された。
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そんな、伏見の寺田屋、145年前の冬、この場所で起こっている・・・